マスクの用意はお済ですか?

篠騎シオン

自由を得る

これは、社会に生き詰まっていた私が、自由を得る、そんなお話。




「そういえば今日……マスク、忘れてきちまったんだよ」


「は? どうするんだよ、なきゃ入れないって」


「大丈夫大丈夫。俺顔作るのうまいし、行けるって! バレないバレない」


「そういう問題じゃ……おとなしく帰ろう」


「は? ユキちゃんの限定イベなんだぜ。ここで帰ったら男が廃る!」


「ユキちゃんのファンとして公衆の面前で素顔さらすのが許されると思ってるか?」


「……」


「な! だからダッシュで家にとり行こうぜ。そっからタクシー使ったら間に合うし、割り勘してやるからさ」


「マジで!! この恩は一生忘れない。サンキュな」


「恩と思うなら二度とマスク忘れるなんてへまするなよ」


「おうよ、神様に誓うぜ!」


「神じゃなくユキちゃんに誓ってくれ」


走っていく二人組のそんな会話が私の耳に聞こえてくる。

私はふーっと小さくため息をついて吐き捨てる。


「生きづらい」



一昔前に流行った病で、人々は口を覆うマスクを常につけなくてはいけない状態になった。

そこから、百と数十年。

何度も形を変えて襲い来る病が沈静化したころには、顔を隠して生きてきた人類は表情をうまく作れなくなっていた。

そのニーズに応えて普及したのが、先ほどの会話に出てきた、マスクだ。昔の言葉で言えば仮面と言ったほうがイメージしやすいかもしれない。

適したマスクをつけることで、自分の顔を場にそぐう表情にしてくれるそんなアイテム。

便利なこのアイテムは人類の間に急速に広まって定着した。

そしてその行き過ぎた流行は今、公共の場で私たちにマスクの着用を義務付けるまでになっている。


誰も彼もが、素顔を隠して生きなければならない。

なんと生きづらい世の中だろう。


と、思うのは私だけらしい。


無表情の生活を彩ってくれる便利なマスクになぜそんなことを思うのか理解に苦しむ、そう、言われる。

私にはわからない。


なぜ、マスクをつけることが義務化されたのか。

               ——表情によって他人に不快感を与えないため。

なぜ、マスクをつけても苦しくないのか。

               ——苦しいなんて考え、普通は、持たない。


一般論は知っている。


でも。



それでも、




私は受け入れられない。

マスクをつけるのが当たり前の社会に、上手く適応できない。

どうしても息苦しさを感じてしまう。


自分を見せて生きたいと思うのは、そんなにいけないこと?

誰にも言えないそのつぶやきが何度も何度も心の中で響き、反響して私を苦しめる。


私はデバイスを開いてカメラを起動し、自分の顔をもう一度確認する。

データの中の仮面をつけた自分の顔と見比べる。

大丈夫、そっくりだ。

私は今、笑顔の仮面をつけた私の演技を完璧にしている。


そのことを確認して、路地から出る。


街を歩く。


ひっそりと。


少しだけ臆病になって、顔をコートのえりで隠しながら。


目的の喫茶店へと入る。

ここは、マスクを着けていないと入ってはいけない、公共の場。

グレーゾーンだった路地や道路とは違い、マスクをつけていないとバレてしまえば確実に罪になる空間。

法律を犯しているゾクゾク感よりも、マスクをつけずに人前にいる開放感の方が勝つ私はやっぱりおかしいのかもしれない。

満ち足りた気分で私は、笑顔のマスクの演技をしながらコーヒーを頼む。

にこやかに注文を取ってくれるウェイターは、もちろん接客用に笑顔のマスクをつけていた。


コーヒーを待つ間、物思いにふける。

小さい頃の話。

両親は私に何度もマスクをつけさせようとしたが、その度私は大泣きしてそれを拒否したらしい。

特に幼稚園のお遊戯会。

みんな笑い顔のマスクをつけて舞台に立っていたというのに、私は最後までマスクをつけないと暴れたんだそうだ。

小さい手足を踏ん張って、顔にそれを乗せることを断固として拒否したのだ。

そして最終的には、まだ子供だからと幼稚園側が折れてくれて私は素顔のまま舞台に立った——するとどうだろう、私だけが表情豊かな笑顔で舞台にたったものだから、私の家は裕福でよい芸能人も御用達のマスク技師を雇っていると噂になったのだ。

本当に大変だったんだから、とわざわざ困り顔のマスクにつけかえて大人になった私に母は言っていた。


正直その時のことは覚えていない。

でも、後から見せてもらったホームムービーで、自分がなぜ嫌がったかは痛い程わかった。

マスクで綺麗に整えられた友人たちの顔。

いくつも同じように並んでいたそれは、はっきり言って気持ち悪い。

表情が作れない結果、いつもみんな無表情で遊んでいるが、あの時のほうが100倍マシだ。私にはあの顔でも表情が多少読み取れる。

綺麗な笑顔とは言わないが、みんなの感情はかすかに顔にあらわれている。

それがどうだろうあのマスクは。

舞台にのぞむ感情は一人一人違うはずなのに、パッケージ化されたその表情には、演技には、なんの意味があるだろうか。

いっそロボットにでも躍らせたほうがマシだ。

それがいくつもいくつも同じように並んでいる。

気持ち悪いったらありゃしない。

あの時の私がもしも隣の友人の顔を見ていたのなら、あのはじけるような笑顔もくすんでいたことだろう。


しばらくしてコーヒーが届く。

マスクをつけた店員の顔はあえてみず、運んできたお礼に軽く会釈だけをする。

香りに心が満たされて、笑った顔のしわが深くなりそうになるのを必死に止める。

誰も私なんかに注目していないことはわかってる。

でも、絶対にバレてはいけないのだ。

これ以上のリスクはおかしたくない。

ま、素顔で公共の場に出ているだけで重大な法律違反なんだけどね。

バレたら重度公然わいせつ罪で一発アウトだ。


生きていくにつれ、マスクをつけた人々を見ることには、少しずつ慣れてきた。

けれど、いつまでたっても自分がマスクをつけることは慣れないし、息苦しい。

素顔とは徹底的に隠さねばならないのがこの社会なのだ。

それが当たり前の、世の中。

私にとってはただただ苦しい、世界。

素顔でいてはなぜだめなのか。

人間の豊かな表情の、なにがいけないのか。


頭の中が文句でいっぱいになってしまいそうなところを、コーヒーの香りで私はなんとか打ち消す。

私は顔を引き締め直し、コーヒーに口をつけた。

仮面だらけの世の中で、飾らない本物のこの香りこそ、私を癒してくれる。

たまにこうやって、笑顔のマスクの演技をしながらコーヒーを飲むこの時間だけが、私にとって生きていると感じられる時間なのだ。

これがなければとっくの昔に私は死んでいただろう。


私は、この世界に、合わない。


「はっはーん、ほんとに君生きづらそうだね」


急に話しかけられて驚き、むせる。

なんなんだ?


「おいおい、大丈夫かい?」


呼吸が落ち着いてから顔を上げると、私をせき込ませた犯人はにやにや笑いで、ずうずうしく私の向かいの席に座ってこちらを見ていた。


「なんなんですか」


声を荒げて、私は目の前に座った彼、いや彼女か? 性別のわからないその人物を睨もうとして、思いとどまる。

私は今笑顔のマスクを着けていることになっている。

笑顔のマスクをつけた人間は、顔をゆがめて人を睨んだりはしない。


「なんの用ですか?」


私は心を落ちつけてにこやかに、尋ねる。

多少声は落ち着いていなかったかもしれないが、それはマスクとは関係ない。

表情は完璧なはずだ。


私の言葉に正面のその人はにやにやと笑い続ける。

マスクなんだから表情が変わらないので当たり前だ。

というか、人と話すのになんてマスクを着けているんだこの人は。

相手を馬鹿にしているにもほどがある、にやにや笑い。

いやらしい、そして精度の低いそのマスクの笑い顔に私は少し不快感を覚える。

今時既製品でも、ここまでひどいのは珍しい。


「用がないならそこに座らないでいただけますか?」


私はあくまで笑顔のマスクを演じて、その人に要求する。

すると、目の前の人のにやにや笑いが一層濃くなったような気がした。

見間違い? 私は目をこする。

だってマスクの表情は……


「自分が特別と思わないほうがいいよ?」


私の思考を待たず、その人は言う。

そして立ち上がり、すたすたと歩いていく。

去り際に一言、私に言葉を残して。


「キミ、マスクしてないでしょ」


がたん。


私は椅子から立ち上がる。

笑顔が演技じゃなく張り付く。

体の芯が冷えていく。

冷たくなっていく。

バレた。

怖い。

私は捕まるのだろうか。

いくら演技をしていても、マスクをしているかどうか確認されたら一発で発覚する。

捕まってしまう。


どうして。


どう、して……


どうしてっ!!


だって、私の笑顔の演技は完璧なはず。


私は張り付いた笑顔のまま、お会計を机にぼんっと置き、出ていったその人の後を追いかけた。


捕まえなきゃ。


喫茶店を出ると、その人が路地へと曲がっていくのが見えた。


私は走って追いかける。


説得するんだ。


大丈夫、きっとお金かなにかが目的だ。


人生を棒に振るより、一生お金をたかられるほうがずっとマシだ。


じゃないと、私は、私は……!


張り付いた笑顔のまま、顔から涙が流れていく。


ああ、私は。


素顔のままで生きる自由だけでなく、外で生きる自由も失うのだろうか。


「器用だねぇ、泣きながら笑ってる」


走って走って走り続けた先でその人を見失い、途方に暮れていると、上から声がした。

そちらを向くと、先ほどの人が、一層にやにや笑いを深くしてこちらを見ていた。


不思議な人だ。


涙が、止まる。


彼を見ていたらなぜか急に怖くなくなった。

むしろ、ほっとするような、安心するような。

そんな感覚が、私を包む。


どうして、私はこの人の笑いを気持ち悪いと思ったのだろう。

この人の顔は、心は、覆われていなかったのに。

私に、こんなにまっすぐ話しかけてきてくれていたのに。


体の震えが止まる。

そして私は、ある確信をもってその人に、言った。


「マスクしてないの、あなたもでしょ」


「ご名答!」


にやにや笑っていた表情が、少年のような無垢な笑顔に変わる。

はじけるようなその笑顔は、私に幸福感を与えてくれる。


「いやー、ボクがマスクつけてないのまで見破るなんて、さっすがマスターの見込んだ女優さんなだけあるね」


私もつられて笑っていたら、突拍子もない言葉を言われて驚く。


「女優?」


私は聞き返しながら幼稚園の頃のことを思い出していた。

マスクなしで舞台に立ったあの日の映像が、忘れていたはずのそれが私の中に突然浮かび上がる。

笑顔のマスクの奥の、観客の、目。

私の演技に感動を覚えるたくさんの視線。

目だけは、マスクでは操れない。

だから私は彼らの目を、引き付けているあの時、興奮し、高揚したのだ。


「……あなたたちのところで女優になったらマスクなしで、舞台に立てますか?」


「女優になるならないじゃなくてそこを気にするなんて、やっぱりキミは変わってる」


即答してくれないのにやきもきして、にらむ表情でもう一度尋ねた。


「どうなんですか?」


私の言葉と表情に、その人はくすくすと笑う。

そして私の欲しかった答えをくれるのだった。


「もちろん、うちでなら」


「じゃあ、なります」


そうして、マスクの着用が義務付けられた世界で、私は。

マスクをつけない女優になった。

顔を張り付けて、マスクのように演じることは、そういう演技だと思えば、そこまで苦ではない。


私は、そこで自由を手にした。

生きる理由も。


私が劇団で奮闘したり、劇団が社会に制裁を受けそうになったり、そういうのは、また、別のお話。

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