第22話 黒猫の願い
目を開けると、見慣れない天井が目に入る。ここはどこだろう……俺は硬いベッドに寝かされていた。傍には何故か心配そうな瀬田の姿がある。
「猫実、目が覚めたか!?あぁ、良かった。」
「…なんだ、瀬田か。ここは?俺はどうして…」
「医務室だ。お前さっき倒れたんだよ。俺がたまたま居合わせたから良かったものの……」
瀬田は安堵の表情を浮かべている。
どうやらオフィスの自席で俺は倒れたらしい。そこに俺の捺印が必要な書類を持ってきた瀬田が居合わせ、慌てて医務室まで担いできてくれたようだ。残念ながら俺にその前後の記憶がない。
「それ、仲原さんが良かったな。なぁ仲原さん呼べよ。」
出来もしないとわかっているが、弱っていることに託けて言ってみる。今の俺の願望だが、こんなの叶うわけがないのだ。
第一、いきなり他部署のマネージャーが倒れたから世話しに行けとか言われても彼女が困るだろう。自分の無茶振り具合に嘲笑する。
「お前……それがここまで運んできてやった友人に言う言葉か?肝が冷えたぞ…めちゃくちゃ顔色悪いじゃねぇか。どうせまた無理してるんだろ。」
瀬田は呆れ気味に、それでも心配そうに返事をする。
今までこんなに俺を心配してくれた友人はいただろうか。俺は瀬田の友情に、心が温かくなるのを感じた。
無理はしていたし、どうせ瀬田のことだ、俺がどんな生活をしていたのかいずれわかるだろう。
隠し建てしても仕方ないと、腹を括った俺は、ぽつぽつと近況を話し始めた。
「…最近眠れないんだ。仕事とセックスと、身体は疲れているはずなのに…頭と目が冴えてしまって。」
「セックスって、お前……また女遊び再燃したのか…?仲原さんはどうしたよ。」
「半年くらい前に鈴木と彼女が一緒にいるところを見た。それからずっとおかしいんだ。……彼女を想う気持ちは変わらないよ。でも、彼女があいつに抱かれている事を考えると、苦しくて…心と身体がバラバラになりそうだ。」
他人に初めて吐く弱音だった。今までの俺には考えられなかった。
弱音を吐くことで、張り詰めていた精神が緩んだのか、俺の目からは勝手に涙がとめどなく溢れ出していた。俺は両手で顔を覆い、人目を憚らず声を殺して泣いた。
瀬田はポケットからハンカチを取り出し俺の手に握らせ、引くでもなく茶化すでもなく、ただ黙って傍にいてくれた。
涙が引いて少し落ち着いたところで、俺は身体を起こす。瀬田はそれに黙って手を貸し、手に持っていた水のペットボトルを渡してきた。
俺はそれを受け取り一気に飲むと、ほぅと一息つく。
瀬田はそれを見て、安心したかのように溜息をつくと、優しく、ゆっくりと口を開いた。
「少しは落ち着いたか?…なぁ、自暴自棄になるなよ。お前らしくない。」
「ははは、すまない。もうしないよ…多分。」
「多分かよ…いいな、絶対に辞めろ!俺の話をよく聞いとけよ。仲原さんにとっては最悪なことかも知れないけど、お前にとっては朗報だ。」
瀬田そう言うと、戸惑っている俺の目を見て真剣な顔で告げた。
「鈴木と宮田さん、婚約したぞ。先月には本部長に報告してたから、来週の全体MTGで発表される。」
鈴木と宮田が婚約……?
あの二人は付き合って2年、同棲も既にしているため婚約間近なのは明らかだった。満を持しての婚約である。
だがしかし、それでは彼女はどうなる?
俺は全てを察し、ぱっと顔を上げ瀬田を見た。瀬田は俺を見据えて、力強く頷く。
「うん……発表までには恐らくフリーになるだろうな。」
「そんな…まさか……俺はどうしたら…」
頭が混乱している。鈴木が婚約して、彼女がフリーになる。俺が心の底から渇望していた事だ。
なんでだろうか、嬉しいはずなのに、この半年間にやってきた自分の所業が引っかかった。
こんなに最低な事をした自分が彼女を迎えに行ってもいいのだろうか…愛する資格があるのだろうか。
また、鈴木の婚約で傷つく彼女の気持ちを考えると複雑だった。こうなる前にもっと俺が頑張れば良かった…悲しませる前に奪い取れば良かったと、後の祭りだが、後悔の念が押し寄せて、素直に喜べない自分がいた。
「来週のMTGは月曜日だろ。こんなところで燻っている場合か?しっかりしろ、らしくねぇぞ。猫実、お前が彼女を幸せにするんじゃなかったのか?」
「でも、今の俺にはそんな資格は……」
どこまでもネガティブでヘタレな俺に対して、いつもの瀬田らしくなく、怒りを顕にして掴みかかってきた。その目には涙が滲んでいる。
その涙を見て、俺ははっと我に返った。
「は?ふっざけんな!5年間以上もお前は彼女だけを想い続けてきたんだろ?付け入れよ!今彼女を救えるのはお前しかいないだろ!それとも彼女のことすっぱり諦めんのか?!」
怒鳴られ、拳で横っ面を殴られた。口の端が切れたが、今の一発で完全に目が覚めた。
俺は滲んだ血を手で拭い、瀬田の目を真っ直ぐに見て、はっきりと伝えた。
「……諦められるわけない…。瀬田、ありがとう。俺、どうかしていたみたいだ。しっかり彼女を捕まえてくる。」
俺は立ち上がり急いで医務室を後にした。後ろから、頑張れよ!と瀬田の声が聞こえたが、俺は振り返らなかった。
◇◇◇
医務室を出た俺は、真っ先にひとつ上の階の第一営業部のフロアに向かい、非常階段を駆け上がった。
フロアの入口から入って右側が第二営業部、真ん中が管理本部、第一営業部は左奥にある。
金曜日の夜なので、流石に人は疎らだったが、そこそこ残業している人が居り、その中には宮田もいた。
俺は乱れる息を整える前に、すぐさま宮田に声を掛けた。
「宮田さん、お疲れ様!一営の仲原さんは?」
「お疲れ様です。猫実マネージャー、そんなに慌ててどうしたんですか?え!その顔どうしたんです?大丈夫ですか?」
「あぁ、これは大丈夫。それより……」
「名月さんですよね?サブマネなら、この時間には珍しく先程退社しましたよ。おめかししてたからデートじゃないですかね?」
既に退社済みとは一足遅かった様だ。接待などの場合、行先が書かれていることもあるため、念の為、俺は第一営業部2課の島まで行き、役職以上のスケジュールが書かれているホワイトボードを確認する。
特に何も書かれていない。確実にプライベートだ。
ついでに第二営業部の島を見てみると、殆ど誰も残って居ない。
恐らく今日、鈴木は彼女に伝えるつもりだろう。寧ろ、今日しかないはずだ。
俺は少し考え、宮田に頼み事をする。
「わかった。じゃあ人事関連の資料室の鍵貸して。」
「えー、いいですけど、何に使うんです?」
「いいから。どうしても確認しないといけないことがあるんだ。マネージャー権限使うから!」
人事関連の資料なんて、社員の個人情報見るために決まっている。いくらマネージャー権限があっても、本来なら稟議通して閲覧許可貰ってからでなければ入室が許されないはずだ。
それなのに、宮田は俺の切羽詰まった表情から、何かを察したのかあっさりと鍵を渡してきた。
「…わかりました。これ、使ったら必ず元に戻して下さいね。」
「ありがとう!」
俺は宮田から鍵を受け取ると、今度は資料室に走る。
フロアを出る時に、宮田にどうしても言っておきたかった事があり、立ち止まり振り返った。
「あ、そうだ。宮田、結婚おめでとう!俺も頑張るわ!」
「え!なんですか?いきなり。でも、ありがとうございます。猫実マネージャーも頑張ってください!」
宮田はそう言うと、幸せそうにふわりと笑った。
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