第10話 黒猫の打算

 

 どちらからも何も話をしない時間が流れた。


 でも、その時間が嫌いじゃない。いや、寧ろ好ましかった。

 彼女といると、何故かささくれだった気持ちが湧かない。素直に本音で話をしても、不快にならなかった。

 きっと、彼女の持つ雰囲気とか空気感がそうさせているのだろう。彼女の前では、外面とか建前とか、そういうものが要らない気がした。

 彼女は就活生なのだから、自分よりも随分と年下のはずなのに。

 出会ったばかりなのに何だか変な気分だ。


 暫くすると、彼女は握っていた水の蓋を開け一気に水をあおった。勢いよく半分くらいまで飲むと、ふぅと小さく息を吐いた。


 可愛らしい外見に似合わず、結構男前な事をするなぁ、と目を丸くして見ていると、彼女は顔をあげて無理やり笑顔を作った。



「何だか泣いたらスッキリしました!見ず知らずの私のためにありがとうございました。」


「いや…それはこっちのセリフ。」



 俺は頬の絆創膏を指差しながら笑顔を向けた。


 すると、彼女がふわりと笑った。先程の作り笑顔ではなく、自然な笑顔で。


 俺は自然と彼女の頭をぽんぽんと撫でた。


 え?撫でた?!


 俺は吃驚して固まる。そして、自分のやっていることを理解して慌てて手を引っ込めると、女の子はくすくすと笑った。


 その笑顔が可愛くて、こちらも連られて笑顔になる。この笑顔を見られるなら、無条件でこの子のために何かしてあげたいと思った。


 いつもは絶対に有り得ない感情に、自分でも驚きを隠せない。

 ふと、先程の話の続きが気になり、よせばいいのに、つい聞いてしまった。



「誰か、相談できる人いないの?」


「そうですね…東京にいたのは小学生までなので、こっちに知り合いいないんです。年金生活のおばあちゃんには仕送頼めないので…学費と生活費のためにバイトが忙しくて、友達誰もいないんです。ほら、人付き合い苦手なので…ははは。」



 両親を早くに亡くして、変わりに育ててくれた祖母に迷惑をかけないため、自分でバイトして学費と生活費稼いでいる?


 なんだそれ…


 相当な苦労をしているはずなのに、下心なしに人に純粋な善意を向けられる彼女に心が動いた。


 俺らしくないのは十分にわかっているが……



「ねぇ、よかったら、今後受ける予定のエントリーシートとかある?俺、ちょっと見てあげるよ。」



 気がついたら、口を滑らせていた。自ら面倒事に首を突っ込むとか、普段では到底有り得ない行動に、自分でも吃驚する。

 でも、自分から協力すると言ってしまったわけだから、そこは責任とってちゃんとアドバイスしてあげるつもりだった。


 どうせ恐縮して断るんだろうけど、そんなの聞いてあげる気はサラサラなかった。


 そして、彼女の返答は予想通り。



「えっ!そんな…そこまでご迷惑をおかけする訳には…」



 酷く恐縮して、頭が取れるんじゃないか、と思う程首をブンブン振る。その予想通りの反応に俺は可笑しくて思わず吹き出した。



「ははっ。いいから。ほら、出して出して。」


「あ、はい…」



 俺の勢いに負けて、おずおずと女の子はエントリーシートを鞄から出して、俺に渡した。





 ◇◇◇




仲原 名月なかはら なつき

 ○○大学政治経済学部 経済学科

 英検1級、TOEIC900


 おー…なかなかのハイスペ女子だな…


 自分もそこそこハイスペックだと思っていたけど、やはり上には上がいるなぁと苦笑いする。


 その他に書かれている事は、読書が趣味だとか、アルバイト経歴とか…まぁ、よく言えば無難で、悪く言えば主張のない内容だった。ここも改善の余地は十分あるが…


 この大学、この学部なら官僚やら銀行員やら公務員やら…日本の経済回す中枢にいてもおかしくない高学歴で引く手数多だろう。

 何故20社も落ちるのか、俺は不思議で仕方なかった。


 エントリーシートの内容はさて置き、問題はエントリー企業と職種だ。

 正直エントリーしている企業、職種共に『仲原さん』のスペックが高すぎて、企業としては手に余る…オーバースペックなのだ。周りの社員との釣合が取れないのであれば、採用しないだろう。これは、受からないのは当然だと思う。


 緊張して俯いている仲原さんに、感じたことや思ったことを詳細に説明すると、目を丸くして驚いた。



「オーバースペック…考えたこと無かったです…私には中小企業が精一杯かと思ってたので…」


「うん、君は随分自己評価が低いようだね。大丈夫だから、自信持って。君ならもっと大手の方がマッチングすると思うよ。」


「大手…ですか…。でも、私コミュニケーションに自信ないです…。」



 どこまでも自己評価の低い彼女に、若干イラッとしたが、きっと彼女の成育環境で何かしらあったに違いない。

 自己評価の低さは、彼女のせいではないのだ。

 胸が痛い。

 俺は、彼女の持っていた心の重石を取り除いてあげるつもりで、丁寧に諭すように話しかけた。



「大丈夫だよ。君、人とコミュニケーションちゃんと取れてるよ?」


「えっ…」


「ほら、今だって、ちゃんと俺の目見て話出来てるでしょ?俺ら、初対面だよ?」



 仲原さんは、あっ、といい、少し何か考える素振りをしていた。



「それに、このアルバイト経験。とてもいいアピールになると思う。君さ、実は営業とか向いてるんじゃないかな。」


「営業ですか…考えた事もなかったです。」


「そう?じゃあ今から考えてみなよ。今まで通り、事務職で就活進めても上手く行かないかもしれないなら、発想の転換!やってみる価値あると思うんだけど。」


「…なるほど。」



 俺の話を聞いて、得心した、という顔になった。

 ここまで来れば大丈夫。後は彼女がじっくり考えて決めればいい事だ。

 そこで、選択肢のひとつとして、営業用に持っていた会社概要のパンフレットを一部手渡した。

 もしかしたら、一緒の会社で働けるかもしれない、という打算も若干ありつつだが…



「そうそう。よかったら、これあげるよ。うちの会社、総合商社で、営業以外にも色々職種あるから受けてみたら?君くらいのスペックならうちの会社で何かしら仕事ありそうだよ?」


「総合商社…」


「そこそこ大手だけど、君ならきっと大丈夫だよ。」



 そう言って、時計を見ると、営業部全体MTGの開始時間をちょっと過ぎた所だった。



「うっわ。やば、会議の時間過ぎてた!手当してくれてありがとうね。それじゃ、就活頑張って!」


「あ、はい!こちらこそ、色々とありがとうございました。」


「うん、来年会えるの楽しみにしてるよ!。」


 

 期待を込めて言ってみる。

 そう言って、慌ててその場を後にした後で気づいた事。



 せめて、名刺渡しておくんだった…


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