第6話 神出鬼没の猫さん現る
「俺の事知らないとか、逆にびっくりなんだけど。俺は君の事知ってるよ。仲原 名月さん。」
名刺を見て固まってしまっている私に、猫実さんは悪戯っぽく笑った。
あの神出鬼没で中々出会えない猫さん、もとい、猫実さんが現実の目の前にいる。しかも、ジャケットの人。
営業部所属なら誰でも憧れるスーパー営業マンの猫実さんが私の会いたくてたまらなかった人だった。
その事実に驚愕と歓喜が同時に訪れた。突然の事に吃驚し過ぎて声が出ない。
「ね、猫実…さん?」
辛うじて絞り出した第一声がこれである。その様子を見て、猫実さんは心底可笑しそうに笑う。
「うん、仲原さん。この後、仕事が終わったら食事でも行かない?」
そう言うと、猫実さんはまたくつくつと楽しそうに笑った。
◇◇◇
何故か私は、我社きってのスーパー営業マンと一緒に、小洒落た個室居酒屋で食事をする事になり、向かい合わせで席に着いている。
どうしてこうなった?
つい数時間前までは言葉を交わしたこともなかったし、殆ど接点もなかったはずだ。案件引き継ぎ以外では。
案件引き継ぎも基本メールと内線のみだから、会う事もなかった。殆ど初顔合わせみたいなものだ。
そんな殆ど初めましてな人…しかも、社内でもかなりの有名人に、誠治の件で泣き顔まで見られている。恐れ多い事に、フォローまでして頂いた。そんな方と二人っきりで食事なんて気まず過ぎる。
しかもここは個室。耐えられるのか?軽く頭が混乱してきた。
しかし、そんな私の様子などどこ吹く風な猫実さんは、涼しい顔をしている。
「仲原さん、何飲む?」
そう言いながら、店員から受け取った熱いおしぼりを、広げて適温まで冷ましてから手渡してくる。流石、スーパー営業マンはやる事がスマート過ぎる。
女子なのに気が利かなくて申し訳ない、と恐縮しつつ、猫実さんからおしぼりとドリンクメニューを受け取る。
メニューを一通りみて、ソフトドリンクにするかなぁ、と思ったが、流石にこの状況でソフトドリンクなんて、警戒してると思われて失礼だろうと思い、無難なカシスオレンジを選んだ。
「あ、じゃあカシオレで…お願いします。」
「了解。俺は生中。あと、サラダと枝豆。だし巻き玉子と冷やしトマト…」
猫実さんは、メニューからテキパキとドリンクとフードを数品注文を済ませると、胸ポケットからタバコを取り出し、テーブルに置いた。
「あ、タバコ大丈夫?」
「はい、どうぞ、お気になさらずです。」
「うん、ありがとう。じゃあ遠慮なく。」
そう言うと、タバコを咥え火をつけた。ただそれだけなのに、その仕種が、悔しいことに様になっていて格好よかった。
やがて、ドリンクとフードが目の前に運ばれてくる。
私が手を出す暇もなく、猫実さんがさっさとサラダを手際よく取り皿にとりわけ、私の前に置いた。
「はい、お疲れー。カンパーイ。」
カチンとグラスを合わせると、注文したカクテルを一口含む。カシスとオレンジの甘さが口に広がり、美味しい、と自然と言葉が零れた。
猫実さんはタバコをふかしながら、その様子を見て目を細めると、タバコの煙を吐きながら言う。
「そう、それはよかった。」
それだけ言うと、ふっと笑い、またタバコをふかした。
ほんの僅かな時間を共に過ごしただけなのに、何か空気感がしっくりくるというのか、もう長い間ずっと一緒にいるのでは無いかと錯覚してしまうくらいに、もの凄く居心地が良い。猫実さんが纏う空気が私には心地良く、このまま身を委ねてしまいそうになる。
比較する訳ではないが、5年も付き合った誠治とは一緒にいても、居心地がいいと感じたことはなかった。同期入社で、何となく意気投合して、何となく付き合い始めてズルズルと5年。お互いに気持ちなどなく、惰性だけで関係が続いていたのかもしれない。
薄情な話だが、今となっては、本当に好きだったのかすらわからなくなってきた。
猫実さんは、決して自分の事をペラペラと話す訳でもなく、私のことを詮索するでもなく、時折優しい視線を向け、空いたグラスを下げ、次のお酒を注文してくれる。それだけの、ただただ静かな時間が流れた。そんな猫実さんとの時間は、荒んだ私の心をそっと癒してくれるような、そんな時間だった。
私の中で、次第に猫実さんの存在が大きくなって行く。まだ数時間一緒に過ごしただけなのに。
交わす言葉は必要ない。一緒にいられたら心地よい、幸せ。
私はこの感情をなんと呼んでいいのか、わからない。
わからないから、名前をつけない。
今はそれでいいと思った。
どのくらいの時間が経過しただろうか。この穏やかな時間に終わりを迎えるべく、猫実さんは吸っていたタバコを灰皿に押し付けた。不意に猫実さんが、口を開く。
「仲原さん、もう大丈夫なの?」
これは、恐らく誠治との事だろうと思った。
弱音を吐くのは得意じゃないし、もう大丈夫、と言った方が良いのだろうが、なんとなく本音を話してしまう。
「あー…どうかなぁ。考えないようにはしてるんですけど、やっぱり辛いですね。」
「うん。そうだよね。長かったんでしょ?確か5年だっけ?」
「はい…5年…ですね。入社してからすぐだから……ってなんでそんな事知ってるんですか?!」
さらりと聞き捨てならない発言をした猫実さんを二度見する。青くなった私を見て、猫実さんはニッコリ笑う。
「ん?聞いたからだよ。」
「だ、誰から?!」
「君。」
そこまで言うと、猫実さんは私の隣に座りなおし、そして、ふわっと抱きしめられた。あの時借りたスーツのジャケットと同じ香りがした。
どこかで嗅いだことのあるあの香りとほんのりタバコの匂いが混じっている、安心する香り…
「忘れるなんて酷いなぁ。あんなに沢山愛し合ったのに。」
耳もとで低いバリトンボイスでそう言うと、はっと顔を上げた私を、熱の篭った目で見つめた。
一体なんの事かわからず目を白黒している私に、猫実さんは続けてとんでもないことを宣った。
「この後、部屋くるでしょ?じっくり思い出させてあげるよ。」
明日から連休だしね、と意地の悪い笑みを浮かべながら楽しそうに。
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