第17話 夏の終わり
合宿が終わると、俺はバイトを入れまくった。朝六時から昼三時まで、一時間の休憩を挟んで働いた。週五日働いて、もっと働きたかったのだが、労基法とかいうやつで、週四十時間を超えてバイトは出来ない、という事だった。なら五時まで働こう、と思ったが、一日八時間以上バイトは出来ないという、稼ぎたいのに、稼げないで悶々とする日々を送る事になった。
後で、彩先輩に、長時間労働しても、四十時間は超えちゃだめなんだからね?と言われた。悲しむべきは俺の頭の弱さよ。
バイトをもう一つするか?とも考えた。ギターを弾く時間も先輩とデートする時間も無くなってしまうんだなあ、と考えると、躊躇してしまう。
しかし、ここのバイトは、労働時間をいろいろ融通がきくのが良いんだよな。俺は主に早朝から昼にかけての時間帯の、勤務を選んでいるし、彩先輩は朝八時から昼二時までの勤務をしている。
毎日ではないけど、バイトを終えた後、カフェとかで待ち合わせして、デートしたりしている。
デート。俺がデート。
こそばゆい。しかしデートしているのは本当だ。まぁ三回に一回は、楽器店巡りしたり、中古楽器扱ってる店に行ったり、質屋で楽器眺めたりしていたのだが。
この間、打痕の多い、多分ゴルぺ板を張らずにゴルぺしまくったであろう、爪で叩いた痕のある、中古のフラメンコギター見つけた時は、ふらふら、と買いそうになった。ほとんど中古市場に出回らないクラフトマンの、さらに珍しいフラメンコギターだったので、その時は理性の歯止めが効かなくなっていた。それを、彩先輩が止めてくれた。
「あんなの買うんじゃなくて、ちゃんとしたフラメンコギター買いなよ。フラメンコギター欲しいんでしょ?」
そうだった。危うくレア物だと思って、程度の悪いギターに四万円も払う所だった。
目下のところは、ホセ・ラミレスのフラメンコギターを狙っている。Ku楽器店で三十万円。三ヶ月もバイトすれば、買える値段だが、その前に
計算によると、三四ヶ月かかると思う。フラメンコギターは、当分先だ。それに、俺は今考えていることがある。それをやるには、暫くギターと、バイトと、学校の日々になると思う。
考えている事、先輩に話さなきゃならないよなぁ、と思いつつ、夏休みが過ぎようとしていた。
合宿中に、みんなで作った曲、タイトルを決めないと、と言ったら誰も思い付かず、とりあえず保留になった。
俺は曲を短調から長調に戻す事を提案した。こっちは少々揉めた。メロディも長調にしないといけないし、TAB譜も無駄になってしまう。
「でも、短調の曲に物悲しげな歌詞ってやりすぎじゃ無いか?」
と二人に聞くと、彩先輩は俺に賛成してくれた。敦の方は、ちょっと考えると言って、その日は解散したが、二、三日後に長調に編曲したメロディを作ってきた。ちょっと敦と合わせてみたら、いい感じになっていた。
彩先輩はTAB譜を書き上げるまで、暫く混ざれない。なので、俺はバイトの合間を縫ってTAB譜を完成させることになった。
もう大体TAB譜を書き直して、明日には彩先輩に渡せるな、と言う所だった。
敦から緊急の電話がかかってきた。数学と英語の課題が終わっていない、という。俺に言われても困る。俺も課題終わってないんだから。
「じゃ、勉強会を」
「いや、それは嫌だ」
敦の提案を俺は拒絶した。俺が「勉強のできない可哀想な子」という見方をされると、メンタルが非常に傷つくからだ。
「誰か、一緒に勉強してくれる人いないか?」
と敦は言った。んー。勉強を一緒にしてくれる人ねぇ。と何故か、黒澤さんの顔が浮かんだ。顔が浮かんだのは、黒澤さんが、勉強できない子さんでは無いかと、失礼な事を思ったからだ
「黒澤さんが、課題まだ終わってないと思う」
「黒澤さんか……優吾、黒澤さんの連絡先ってわかる?」
「一応アドレス交換しているけど」
「聞いてみて」
「……わかった」
黒澤さんにメッセージを送る。すぐには返ってこないだろうなぁ。多分、今は練習中だろう。と思っていたら、意外とすぐに返事が来た。黒澤さんに、課題の進み具合を聞いたら、学校の課題はほとんど終わっていないとのこと。黒澤さんに電話をかけてみる。
「黒澤さん、俺と石橋の三人で課題やりませんか」
「んー。もう一人呼んでもいい?」
「いいけど、誰さんでしょう」
「下倉さん。高木くん達は殆ど交流ないと思うけど」
「下倉……ああ、あの全く喋らない人」
「そうなんだけど。ちょっと男性と話すのが苦手な感じなのね。でも、彼女も課題終わっていないみたいだし、ちょうどいい機会だから」
「じゃ、俺の家集合とはいきませんね」
「だから私の家でやろうよ。石橋くんにも聞いておいてみて」
「わかりました。聞いてみます」
それで、俺は早速敦に電話してみた。敦としては黒澤さんの家でOKとのこと。むしろ俺の家より良い。と言っていた。こやつ、女の子の部屋に入れると思って舞い上がっているな。
「じゃぁ黒澤さんと時間調整してみる」
「よろしく〜」
何が『よろしく〜』だよ。
それで、黒澤さんに連絡を入れたところ、二十五日から一週間、三時から九時まで時間空けるから、その時間で勉強会をやりましょう、という事になった。
俺も敦と同様に、黒澤さんの家には興味がある。クラシックギターで音大を狙う、高校生の自宅というのはどんな感じなんだろう、という興味があったからだ。
ところで、敦には、俺はバイトがあるから、三時ジャストには行けないから、先に行っててくれ、と伝えたら、「一緒にいこうぜぇー」と変な声を出して誘うので、黒澤さんに三十分くらい遅れるっというメッセージを入れておいた。
別に二十五日まで、勉強をしなくてもいい、ということではないので、少しづつ課題を進めていたのだが、彩先輩とデートするのに忙しく、ギターを弾くのにも忙しく、バンド練習にも忙しく、実際にはそれ程進みはしなかった。要するに、勉強以外が忙しかったということである。
それで、当日の二十五日。バイトを上がって、三時半ごろ、敦の家に着くと、敦は出かける気満々で待っていた。
「じゃ行こうか」
と俺が声をかけると、敦はOKとか言って自転車に跨った。黒澤さんの家は、自転車だと大体十分くらいで着く距離だ。そんな訳で敦には道を覚えてもらい、明日から一人で来れるようになって貰いたい。
黒澤さんの家はごく普通の家で、一階が車庫と、ダイニングキッチン、二階が、三部屋で、そのうちの一室が黒澤さんの部屋だった。俺と敦は、黒澤さんの部屋に通された。敦は、黒澤さんの部屋はパステル調の色合いで、シンプルなスタイルの部屋ではないかと、思っていたようだが、うん、俺もそんなイメージだった。黒澤さんの部屋はシンプルな内装だったが、パステル調ではなかった。
壁の一面が、CDのラックになっていた。つまり壁の一面が、沢山のCDの壁になっていた。
俺はCDの壁の中に、あるものを見つけた。
「黒澤さん、ロドリゴ・イ・ガブリエラなんて聞くんだ」
このバンドはメキシコ人の男女二人組のデュオで、ロドリゴがリードギターを、ガブリエラの方がバッキングギター兼パーカッションを弾いて(叩いて)いた。
俺はどっちかと言うとガブリエラの方が好きだ。ギターを弾きながらギターのボディをパーカッション的に打つところも好きだし、ライブで、ここに音が要るっ、て時にコードネームがわからないままパシッと音を入れてしまう辺り、本物の天然の天才だと思う。そんな所も好きだ。
「へー知ってるの?中学高校でも知ってる人少なくて。話題にしづらかったんだよねえ」
ギターに興味がないと、張ったアンテナに引っかからないだろうな、特に普通な人は。ギターに興味ある人でも、スパニッシュ好きじゃ無いと、見当つけづらいだろうな。
「うちの親がたまに聞いていて、それの影響で聞くようになったかな」
「へー。高木くんの家は、一家でギター好きなんだね」
「そうでも無いんだけどね」
「黒澤さん、俺らどこに座れば良いの?」
と、敦が黒澤さんに聞いていた。
「あ、そのテーブルの好きなところに座って良いよ」
大きめのラウンドテーブルが部屋にあってそれを囲んで正座なり安座するなりして座るらしかった。
そのラウンドテーブルの端の方に、下倉さんが座っていた。下倉さんは髪の毛がもっさりしていて、量がすごく多い。それから黒縁の眼鏡のフレームがものすごく太い。「こんにちは」と声をかけたが、すごい小さな掠れ声で、「こんにちは」と返ってきた。なんだろ、これはもしかして、下倉さん緊張しているのか。
「敦、ちょっと声をかけてやれよ」
と小声で囁くと、敦はうーんと悩んで
「こんにちは、下倉さん」
と言った。それ俺も言ったんだぞ。効果あるのか。すると下倉さんは、先程の挨拶よりも少し大きな声で、はっきりと「こんにちは」と言った。俺と敦の間にどんな差があるというのか。だが、下倉さんは、明らかに差異を見つけたのだろう。
俺は下倉さんに興味を持ったので、この一週間で少し仲良くなろうと決めた。
そして、この部屋にはもう一つ気になるものが置いてある。置いてあるっていうか、ギタースタンドに立てかけてある。だから立てかけてあるのは当然ギターだ。そしてそのギターの、サウンドホールの周りのインレイ、――サウンドホールを装飾している模様のことだ――は見覚えがあった。工房でない個人のクラフトマンは、インレイの装飾で誰の作品か、ある程度わかる。
「パウリーノ・ベルナべ」
「よく知ってるね。中々居ないよ、これ知っている人」
「そりゃ憧れのギターだもの」
楽器店のショーウィンドウ越しに、中学生の頃から、弾いてみたいと思っていたギターだった。そんなギターが目の前にある。
「高木くん、少し弾いてみる?」
「良いの?黒澤さん」
「高木くんが弾くならいいよ」
では、ちょっとお借りして。俺はギターをとると、慎重に椅子まで運んだ。ゆっくり動かないと、思いもよらない物に当たったりするからな。椅子と足台はセットしてくれた。椅子に腰掛けると、さて何やろう、と考えた。ブエノスアイレスの春は、まだ聴かせる状態じゃないから、夏はどうだろう。
「それじゃ、ブエノスアイレスの四季から、ブエノスアイレスの夏を」
そう言って弾き始める。
おおー。凄い。流石に憧れていたギター。低音がよく響いて抜ける。高音も良い。甘い音ではなく男性的な、ボディが唸る様な音だ。
一曲弾いたあと、俺は
「ありがとう、黒澤さん」
と言ってギターを返した。黒澤さんは「どういたしまして」と言いながら、ややぞんざいにギターを扱い、ギタースタンドに戻した。
「黒澤さんは、何時もあのギターで練習しているの?」
「そうだね。あの音になれると、他のギター使う気にならなくて。あと、コンクールの為に、慣れておかないとね」
確かに良いギターを弾くと、グレードの落ちるギターは音がしょぼく聞こえる。しかしこのギターは圧巻だった。これ、少し弾いただけなのに、忘れられない音色だった。
働くようになったら金貯めて、それでこのギターを買おう。
「なぁ、そのギター高いの」
と敦が聞いてきたので、
「あれ一本の値段でグランドピアノの新品で良いやつが買える」
と答えた。コンクールでは、あのクラスのギターは必須なのだろうか。俺は黒澤さんに、あれよりグレードの落ちるギターで、出場する人は居るのか、聞いてみた。
「五十万くらいのホセ・ラミレスで出る人もいるよ。でも、入賞は、技術が無いと難しいみたい」
ギターに助けられている部分、大きいからね、と黒澤さんはいった。そうかー。コンクールはそんな感じなのか。コンクールに興味を抱いたが、黒澤さんの「じゃ、勉強しましょうか」との声で、勉強会を始めることになった。
後日、この勉強会の後で面倒くさい事が起きるのだが、この時点では何が起きるのか、まだ判らなかった。
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