04.Rose Garden

 初舞台の数日前、ベラはマネージャーのジェームズとタクシーに同乗して、会場となるホテルに向かっていた。ベラが上京してきてから数年は経つ。しかし、都会と田舎町とでは同じ範囲でもそこに宿る情報の密度が違っていて、例えば道を歩いていてもどこへ通じているのか分からない路地や、何の商売をしているのか分からない地下の店への階段を見つけたりするが、ベラはその一つ一つに興味を持ちながらもそこへ足を踏み入れていく勇気を持たない。要するにこの都会に暮らしながら、ベラは未だ都会の色に染まってはいないというわけだ。だからタクシーの進む方角についてはおおよその見当がつきながら、どこの地区を走っているのかということはまるで分からず、また会場のホテルのある界隈についてもまるで知らないのだった。

 到着する少し前から予感はあった。アパートの入り口の階段に座り込んで頭を抱える老人や、往来にいくつかの果物が無造作に散らばっていたりするのを車内から見て、ここはあまり治安の良い地区ではないのかもしれないと、ベラはそう感じていた。果たして、行き着いた先がひどく見すぼらしい小ぢんまりとしたホテルであることを知ると、目眩がするような思いがした。自身の華々しいキャリアが始まる場として、この会場は相応しいだろうか。そんな疑問を拭い去ることはできなかった。

 車を降りると、清掃員の少年が玄関のガラス戸をよく磨き込んでいるところへ近付いていく。時折汗を拭いながら、少年は背後の二人に気付かないくらいに必死になっている。しびれを切らしたベラがそのガラス戸に手を伸ばすと、少年はようやく気付いて道を譲った。把手ではなくあえてガラスの部分に触れて戸を押すのを、少年は横から射抜くようにして見ていた。そうした振る舞いが少年にどんな印象を与えるか、そんなことに気を回せないくらいにベラは苛立っていた。

 ロビーに入る。昼間というのに薄暗く感じるのは、照明の弱さのせいでもあった。落ち着いた雰囲気と言い換えることもできるが、しかし今のベラには正反対の印象を抱かせた。ジェームズがフロント係の老人に事情を告げると、先に立って案内をしてくれた。初舞台の場となるラウンジは、やはり想像していたよりは小さな空間だった。

「ジェームズ、あなたはどう思う」

 ベラはこの会場についての印象を訊いた。ジェームズは以前からマネージャーとしてベラの傍らにいたから、素直な印象を伝えた。

「広さはまずまずだと思う。あまり広すぎても君の歌唱の魅力は伝わらないかもしれない。君はどう感じている?」

「もう少し、こう、立派な舞台だと思っていた。このホテル自体についてもね」

 すぐ近くにホテルのスタッフがいることもあって、不満を露わにするベラの言葉をジェームズは抑えた。

「そう決めつけるのは早いよ。それに、バンドのメンバーに会ってもいない」

「ジムはどうしたの、今日はここには来ないの?」

「今日は俺たちだけだ。――バンドのメンバーに案内してもらえますか」

 ジェームスは話を打ち切って、スタッフに案内を頼んだ。

 ジムというのは、今回の仕事を調整したエージェントの名だ。ベラにとってはエージェントがこの場にいないことも不満の種となっていた。

 スタッフの案内で楽屋となっている部屋に通されると、そこで待ち受けていたのはビルという名の男だった。

「やあ、君がベラドンナか。私はビルだ、よろしく」

 ビルが差し出してきた手はごつごつとしていて、握手を交わしたベラは彼がドラマーであると直感した。

「あなたがバックバンドのリーダー?」

「いや、君のバックバンドは別にいる。彼らにもすぐに紹介しよう」

「……どういうこと?」

 ベラは疑いの眼差しをジェームズに向けた。彼は何かを隠していた。

「今回のラウンジショウの主役は君じゃない。君は前座だ」

「ジェームズ!」

 ベラは思わず叫んでいた。主役ではなく、前座。ベラはそのことを今初めて知ったのだ。

「すまない。君のプライドが傷つけられると思って、黙っていたことは謝る。だが、こうでもしないと君はこの仕事を引き受けなかったかもしれない。それに前座と言っても舞台に立つことに違いはないし、そうやって少しずつ実績を積み上げることも――おい、ベラ!」

 ジェームズの言葉を聞き終わるよりも早く、ベラは楽屋を出ていってしまった。

「彼女は知らなかったのか?」

「その、諸事情がありましてね。……いえ、言い訳はしません。彼女を追いかけてきます」

 ジェームズが追いかけていくと、ベラはホテルを出て、清掃員の少年が掃き清めたばかりの歩道に座り込んでいた。

「ベラ、悪かった。謝っても謝りきれない。心から悪いと思っている」

 必死の謝罪にもベラの心は動かない。何よりも恥をかかされたということが彼女の心に傷を負わせているようだった。

 しばらくジェームズが説得していたが、やがてビルも追いかけてきて、こんな提案をしてみた。

「ベラドンナ、彼も悪気があって黙っていたわけではないようだし、そろそろ許してやってくれないか。私にも不用意なところがあった。もし君が良ければ、私のバンドの演奏で一曲歌ってみないか」

 それは、ベラにとって有り難い提案だった。一流のミュージシャンの演奏で歌うことは、きっと大事な体験になるだろう。ジェームズも彼女が心を動かされたのを見抜いた。

「ベラ、良い機会だ。一時の感情でこのチャンスを無駄にしてはならないはずだ」

「……」

「君は一流の歌手を目指しているんだろう。そのために故郷から出てきたんだろう。それを忘れてはいけない」

「……分かったわ」

 思わずハイタッチを交わすジェームズとビルの傍らで、ベラは気持ちを切り替えてビルとのセッションに臨むことにしたのだった。


 楽屋に戻ったベラは他のバンドメンバーと挨拶を交わし、彼らとラウンジに移った。ラウンジではジェームズと、手の空いているホテルのスタッフたちが観客を模して座っていた。これが本番になると食事や酒を楽しみながら音楽に耳を傾けるという形になるので、こうして舞台に向かって観客が黙然としているのはベラの緊張を強めた。ビルはベラの緊張を鋭く感じ取って声をかけた。

「緊張しているか?」

「ええ、少し」

「いいか、今を楽しむことだけを考えろ。過去のことや未来のことを考えても仕方ないんだ。この場にいる観客をいかに楽しませるかを考えながら、自分自身も楽しむようにする、それが大事なことだ」

「分かったわ。ところで、何の曲をやるの」

 ビルはベラを呼び寄せて、いくつかの候補を提示した。どれも聞き知っている曲ばかりだったので、ベラは今の気分で曲を選んだ。

「よし、始めるぞ」

 ビルの合図で演奏はすぐに始まった。短くも印象的なイントロの後でベラは歌い始めた。

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