05.Summertime

 ビルのバンド――彼らはツインズと名乗っている――とのセッションは、ベラにとって満足のいくものとはならなかった。無論、バンドの演奏に不満があったわけではない。彼らに上手く合わせられない自分の無力さをこれでもかというくらいに味わわされたのだ。このことはベラの精神状態に良からぬ影響を与えるのではないかとジェームズは危惧したが、一晩経つとベラは却ってすっきりとした顔でジェームズの前に姿を見せた。

「よく眠れたかい」

「そうでもないわ。思い出したくもないくらいに悪い夢も見たしね。でも、このままでは良くないと思っているの。むしろ課題がはっきりした、そう考えることにしたの」

 ベラは塞ぎ込むどころか旺盛な意欲を見せたし、前座であることを隠していたジェームズにも悪感情を抱いているわけではないようだった。

 今まで時折窺えたベラの弱さはどこかへ隠れてしまったように見えた。ベラの個人的な体験、それから昨日のビルたちとのセッション、そうしたものがベラを変えようとしているのかもしれない。ただ、人が短期間に根本的な変化をするということはあり得ないようにも思えたから、ジェームズはベラの様子をよく観察していようと決めた。

 ベラは前座のために集められたバンドのメンバーとも挨拶を済ませた。時間と都合が許す限り、彼女たちは何度もリハーサルを重ねた。

 昨日のセッションが散々な結果に終わったのは、打ち合わせもせずにいきなり演奏をしなければならず、バンドとの意思疎通が上手くいっていなかったことにもよるだろう。聞き知った曲でもそのアレンジが違ったので上手くバンドの演奏に馴染めなかった。そこでベラは、まずバンドのメンバーたちと徹底的に話し合うことにした。ベラが演奏する曲目の候補を示すと、メンバーたちは今回の楽器編成でできる限りのことをやろうと意気込んだ。彼らは元からこのバンドを結成していたのではなく、今度のショウのために偶然にバンドを組んだに過ぎない。彼らはベラと同じく無名の存在で、今回の前座を足がかりにしてもっと大きな舞台に立つことを目指しているのだ。だから年の頃はベラと同じくらいで、年長のベーシストのニックでさえ27歳だった。尤も、この業界では年齢が必要以上の意味を持つことはなく、若かろうが老いていようが、実力を持った者が表舞台に立てるというのが一般的だ。ここで一般的であるとあえて言ったのは、例外も存在するということを示したいからだ。何らかの力学が働いて思いがけない上昇を見込めることもあれば、対人関係における課題を抱えているために実力に見合った待遇を得られないことも稀ではない。例えば、先に名前を挙げたニックは寡黙で必要以上のことを話そうとはしない。その寡黙ぶりは徹底していて、食事を共にしていても料理を口に運ぶとき以外は口を真一文字に結んでいる。そうした寡黙さは好まれることもあるだろうが、不機嫌でいると誤解されてしまうこともあるだろう。

 また、ドラマーのマットにも致命的な欠点があった。ベラがその欠点を知ったのは、彼らが最初のセッションを行ったときだった。

「さあ、今日こそは頼んだぞ!」

 リズムギターのジェイミーがわざわざマットを振り向いてそう言うので、ベラは最初は不思議に思った。一曲を終えてみると、その理由が分かった。

「何かが足りなかったわ」

 ベラが指摘したのは、曲が盛り上がるここぞというとき、マットがバスドラムでリズムを刻むだけで終わってしまったことだった。ジェイミーに促されてベラが振り返ると、

「やっぱり何かが足りない」

 とだけ呟いた。マットの手に握られているべきスティックは彼方に転がっていた。

「マットはすぐに力んじまうのさ。特に大事な場面で力んで、スティックを飛ばすのも珍しくない。……おい、笑い事じゃないぞ」

 笑っているのはマットだった。

「ごめん、悪いと思ってる! でも、笑っちまうんだ、こういうシリアスな場面になると笑っちまうんだ!」

 ベラとジェイミーは顔を見合わせた。ニックも気に入らない様子だった。最初のセッションは、そういうふうにして熱が冷めていった。


 ベラたちと入れ替わりで舞台に立ったのは、ビルのバンド、ツインズだった。ビルの話によると、ツインズはメイン・ヴォーカルを持たずに活動しているバンドだ。そうすることで歌唱を必要としない舞台でも柔軟に対応することができるし、その時々に必要とされるタイプの歌手を招けば済むのだという。尤も、ジェームズによれば、メイン・ヴォーカルを欠いているのには、また別の理由もあるとのことだった。

 さて、ツインズはレイという名の女性歌手を伴って舞台に上がった。レイはベラとはちょうど十歳違いで、大きく名が売れているというわけではないものの、根強い人気を持つ歌手だ。シンガーソングライターで、ベラも彼女の作った曲をいくつか聴いたことがある。ベラが甘く柔らかい歌声であるとするなら、レイは甘美でありながら力強い歌唱で知られている。客席に座って彼女たちのセッションを目の当たりにすることになったベラは、いつになく興奮している自分に気が付いた。

 ビルの合図で演奏が始まったのは、ジャズのスタンダード・ナンバーとして知られる名曲だった。囁くように始まった歌唱からは、力強い自信が感じられる。これまで数々の経験を積んできた歌手として、そして一人の女性として、レイはそこに立っていた。生まれ育った田舎町と決別し、新たに生まれ変わったつもりでいるベラは、強かに頬を叩かれたような気分になった。経験や努力の差というものを感じずにはいられない。今の自分ではレイに太刀打ちできない、立っている場所が、見えている景色がまるで違う。内臓を手で掴まれたような気分の悪さが襲ってきた。それでもベラは席を離れなかった。決して長くはないはずの曲がようやく終わったとき、ベラの背中には汗が滲んでいた。そうしたことからベラはある違和感に気付けずにいたが、その夜、同じホテルに用意された自分の部屋のベッドに横たわったとき、何かとてつもない体験をしたように思えてきた。ここで立ち止まっているわけにはいかない、そう呟いたベラは、いつしか眠りに落ちていた。

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