第11話
マナちゃんは、お金のためにフリー素材のモデルを始めたわけではなかった。
「純粋に楽しかったんだ。モデルはカメラの前に立って、素の『おれ』とは違う顔をした『おれ』を売る。でもフリー素材モデルは、『おれ』が何者なのかは素材を使う人が決めてくれる。すごく面白かった」
たとえば同じスーツを着ている素材でも、あるときはビジネスマンになったり、あるときは塾の先生になったり、またあるときは結婚相談所の花婿候補になったり。
たとえば頭を抱えている素材が、借金に苦しんでいる人になったり、偏頭痛に悩む人になったり、最近抜け毛が気になってきた人になったり。
たとえば猫の鼻先をつついている素材が、「
「おれは無理して『おれ』を売り出さなくていい。『おれ』を売り出そうとした結果、次の仕事が来ないことにいちいち傷つかなくていい。それが居心地良くてな」
話している間、マナちゃんは何度か深呼吸を繰り返した。苦しそうなのに、話をやめようとしなかった。時々ぴくぴく動く眉毛は、いまマナちゃんが生きている証拠だった。
「でも昔憧れてたみたいなかっこいいモデルじゃなかったし、素材は著作権フリーだから好き勝手に使われて、あのチラシみたいに悪用されることも何度もあったし」
私はこの後に続く言葉を恐れた。
きっとマナちゃんは「ごめん」と言う。嘘などついていないし、悪いことなど何もしていないのに謝罪するのだ。ただ私たちが期待した通りの人間ではなかったというだけの理由で。「ごめん」なんて、絶対に言わせてはいけない。
「マナちゃんは、すごいよ」
言葉を遮られたマナちゃんが、小さく息を呑んだ。
「だって著作権フリーなんでしょ。夏目漱石と一緒じゃん」
全然一緒ではない。夏目漱石はものすごく有名な小説家で、とうの昔に死んだのにみんな忘れないでいる。たとえマナちゃんの写真が未来永劫残るとしても、マナちゃんのことは誰も知らない。天と地ほどの差がある。本当は分かっていた。私は嘘をついた。
それでも、マナちゃんがすごいことには変わりがない。夏目漱石とは違う意味で。
「漱石と一緒か。そう言ってもらえるとありがたいな」
マナちゃんはニカっと笑い、高くはない天井を見上げてつぶやいた。
「ありがたいありがたい」
「何それ」
ふたりして笑った後、マナちゃんはまた大きな息をついた。疲れているのだ。
「そろそろ父さんを捕まえてくるね」
兄とふたりきりになるのは嫌がるかと思ったが、マナちゃんは「うん」と素直に頷いた。
「なあ、カナちゃん」
「何?」
「もう来るなよ」
突然の宣告だった。
「おれは何もかも正直にカナちゃんにしゃべっちまった。『モデルをやってるミステリアスな叔父さん』じゃなくなったから、もう役に立てることはないよ。ここらが潮時だ」
「自分でミステリアスとか言う?」
わざと呆れてみせたけど、胸は突き刺されたように痛んだ。
確かに初めは、モデルと聞いてマナちゃんと話してみたいと思った。渋谷にも連れて行ってほしいと思った。ハルカにも自慢した。マナちゃんには全部見抜かれていた。本当は、私のほうこそ謝るべきなのだ。
「分かった。もう来ないよ」
でも、どうせ見抜くなら、いまは全然違うということも見抜いてほしかった。
「でもその代わりマナちゃん、元気になったらココイチ行こう。ビーフカレーの5辛食べてるとこ見せてよ。私は
私はまた嘘をついた。そんな日は来ない。これが最後のお別れだ。だからこそ嘘をつかなくてはならなかった。私は悪い子どもだから、嘘をつくくらい訳はないのだ。
「分かった。約束しよう」
私たちの最後の会話は、こうして終わった。「じゃあな」とマナちゃんは手を振っていた。
父さんは綾子さんと一緒に待合室にいた。私と入れ違いに病室へ向かう父さんは、もう目を赤くしていた。ちゃんと胃炎だって言い通せるかどうか、見るからに心もとない。
「綾子さん、ごめんなさい」
マナちゃんの影響を受けてか、私も正直になった。
「実は綾子さんからもらった本、ほとんど読んでません」
「え、嘘でしょ」
「あと、卒業文集の作文も、綾子さんを尊敬してるって書いたけど、あれも嘘です」
「えっ」
「本当は全部マナちゃんのことを書きました」
「えっえっ」
それから二週間後、マナちゃんは急に死んでしまった。綾子さんもうちの父さんも、おじいちゃんおばあちゃんも、もちろん私も、誰もそばにいないとき、まるでこの世からこっそり抜け出すみたいに。
マナちゃんが死んだので、お葬式に行くことにした。
私は綾子さんと、マナちゃんにも嘘をついた罰として、弔辞の代わりにあの作文を、「綾子さん」のところを「マナちゃん」に直して読むことになっている。
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