第10話

 私は迷っていた。

 マナちゃんは何も悪くない。両親にも分かってほしかった。でもそのためには、マナちゃんがフリー素材モデルだと明かす必要がある。これまでマナちゃんは、家族の誰にも話していなかった。たぶん、話したくなかったのだろうと思う。「ちゃんと稼げる」仕事ではないからだ。

 マナちゃんが隠していたことを、私が勝手に話してしまっていいのだろうか。

 あの日以来、父さんとも気まずいままだった。どのみち平日は、朝早く出社して日付が変わるころに帰ってくる父さんとゆっくり話せる時間はない。

 そのうえ土日も、父さんはスーツを着て昼前に家を出て行ってしまった。休日出勤らしい。

「お父さんは、いまちょうど会社が忙しい時期みたいで」

 母さんはほとんど弁解口調だった。

 父さんを責める気にはなれなかった。休日も休めないほど忙しいのに、父さんはわざわざ一日休みを取ってまでマナちゃんと私を呼んだのだ。とんだ誤解だったにせよ、私たちを真剣に心配してくれたからだろう。そのくらい中学生の私でも分かった。

 結局父さんとはろくに話せず、マナちゃんとも連絡が途絶えたままで月曜日を迎え、また父さんとすれ違う五日間の平日を終えようとしていた金曜日の夕方、私のスマホにその報せは届いた。

 綾子さんだった。


正直まさなおがいま入院してるの〉

 

 驚くと同時に、父さんではなく私に報せてきた理由が分からなかった。


〈いま家にひとり?〉


〈そうだよ〉と返すと、通話の着信があった。

「みんなには言うなって言われてたから、これまで黙ってたんだけどね」

 綾子さんが言うには、マナちゃんは昨年末からあまり体調が良くなくて、入退院を繰り返していたらしい。お正月も、私が卒業文集のことを相談したときも、マナちゃんは病室のベッドの上にいたことになる。ここ最近は元気だったから家に帰っていたけれど、数日前にまた具合が悪くなったそうだ。

「え、じゃあココイチのビーフカレー5辛は?」

「たとえ元気でも、正直がそんなの食べるわけないわ。あの子、昔から辛いカレーが苦手で、ココイチも甘口ソース派なんだもの」

 出前だなんて嘘だったのだ。そのうえおかしな見栄まで張っている。

 マナちゃんが助けを求める相手は私ではなく、綾子さんだった。綾子さんがマナちゃんを嫌っているなんて、父さんの勝手な思い込みに過ぎなかった。

「いい加減黙ったままでいるのもしんどいから、『みんなに話すよ』って言ったら、あの子がものすごく嫌がってさ。様子が変だったから問い詰めたの。そしたら俊介と、あなたのことで揉めたって言うじゃない。『このタイミングでおれが入院したなんて言ったら、俊介が余計な責任感じちまうかも』だって。ばかよねあの子、変な気回しちゃってさ……」

 言いながら、声が涙声に変わっていく。私はマナちゃんの病気がよくないのだと悟った。

 鼻をすする音がして、綾子さんは気丈さを取り戻した。

「でも、だからこそちゃんとみんなに話さなきゃって思ったの。香奈ちゃん、今日俊介が……お父さんが帰ってきたら、明日お見舞いに来られるか聞いてみてくれる? 私は、どうしてもお父さんを責めてしまいそうで」

「分かりました」

 私がマナちゃんのためにできることは、これくらいしかなかった。


***

 

 翌日、私は父さんの運転で世田谷にある病院に向かった。

 マナちゃんはきれいな個室にいた。入院費用は綾子さんが立て替えてくれているらしい。

 ベッドの上にいるマナちゃんは明らかに具合が悪そうだったが、私たちの顔を見ると「おう」と何事もなかったかのように右手を挙げた。点滴の繋がっていないほうの手だった。

「大げさだな。単なる胃炎なのに、親子揃って見舞ってくれるとはね」

 綾子さんからは、マナちゃん本人には慢性胃炎が悪化して胃潰瘍いかいようを繰り返していることになっているから、話を合わせてほしいと頼まれていた。本当は胃癌いがんで、発見したときにはもう手の施しようがないほどに進行していた。

「大事な仕事のメールが入ってる。すまん、しばらくふたりで話しててくれ」

 そう言って出て行った父さんのスマホ画面に、何の通知も来ていないのを私は見た。

「俊介のやつめ、逃げなくてもいいのにな」

 面白そうに笑うマナちゃんに合わせて、私も笑った。でも本当は私も父さんと同じ気持ちだった。目を背けたかったのだ。マナちゃんから。もうすぐマナちゃんがいなくなってしまうという現実から。

 でも、これを逃せば、きっと一生後悔する。

「あのね、『ふりふり』、見たんだ」

「ばれたか」

 マナちゃんは右手で顔を覆った。

「『マナ』って、てっきりマサナオの略だと思ってた。本当はちゃんと読んだんだね、『吾輩は猫である』」

「読んでないよ。読んでなくても、冒頭ぐらい誰でも知ってるだろ」

「でも、好きな小説だって書いてたじゃん」

「知的ぶりたかったんだよ。おれなんて人様に自慢できるようなこと何もないからさ。もう聞いてるだろ、おれがヒモだったって話」

「うん」

 聞いてもいないのに、マナちゃんは若かったころのことを話し始めた。まるで懺悔ざんげみたいだ。私はただ相槌を打ちながら、それを聞いた。

 まず、子どものころから芸能界には興味があったこと。ファッション関係の専門学校に通っていたころ、原宿でスカウトされて学校を辞めて芸能事務所に入ってモデルになったけど、人気が出なかったこと。

 でも所属事務所の女社長には気に入られて、九年も一緒に暮らしていたこと。二十歳以上年上だったその人を初めは愛していたけど(「愛する」という言葉を、私は大人のひとから生まれて初めて聞いた気がする)、だんだん分からなくなって、それなのに仕事をもらうためにずるずると付き合ってしまったこと。

 このままではだめだと思って、十年目を迎える前に別れてひとり暮らしを始めたこと。部屋を借りるための資金は綾子さんに借りたこと。その借金は、エキストラなどの時々入る芸能仕事のほかにいろんなアルバイトを掛け持ちして、一昨年ようやく返し終わったこと。

「ひとりになったとき、おれももう三十路みそじ近くなっててさ。周りの同年代はみんなちゃんと働いてるのに、おれだけ何にもできなくてな」

 定職に就こうとしなかったのは、芸能界への未練があったからだとマナちゃんは言った。

 でもそのために、綾子さん以外の家族とはぎくしゃくするようになってしまった。特にマナちゃんは、うちの父さんに引け目を感じていた。

「ちょうど、カナちゃんが生まれたころのことだった。俊介は立派にひとの親になったのに、おれは何やってんだろうなって思った」

 私が生まれたために、きょうだい仲が悪くなったのだろうか。

「カナちゃんのせいじゃない。おれの諦めが悪かったせいだよ」

 だとしても、私には分からない。大人たちは、みんな最初は「夢を持て」「諦めるな」と言うくせに、いつまでも諦めない人にはまるで反対のことを言いだすのだ。諦めないことが悪いことになる、そのタイミングとはいつなのだろう。

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