第8話
そう、それはまったく楽しい話ではなかったのだ。
翌日の放課後、ハルカは私を
「あんたの叔父さん、本当にモデル……なんだよね?」
ハルカにしては珍しく遠慮がちに、一枚の紙を差し出した。マナちゃんはモデルだ。だって、マナちゃんが自分でそう言っていた。
でも、それならなぜ、マナちゃんはこんなところにいるのだろうか?
――悪い大人なんだよ。
――しれっと嘘をつくくらい、訳ないことなんだ。
いつかの父さんの声が、何度も耳元で響く。その声は、いつの間にかマナちゃんのものにすり替わっていた。
――おれは悪い大人だよ。いまさら気づいたのか。
「そんなわけない。マナちゃんは悪い人なんかじゃ」
――悪いやつではないけど、悪い大人なんだよ。
頭を振っても、胸のざわめきは収まらない。ハルカが何か口を開きかけたとき、制服のポケットに入れた私のスマホが震えた。
〈授業はもう終わったか これから車で迎えに行くから、学校の正門で待っていなさい〉
父さんからだった。今日は具合か悪いからと、会社に休みをもらって家にいたはずだ。
〈叔父さんのことで大事な話がある〉
有無を言わせぬ冷たい文面だった。
「カナ、待って!」
「ついてこないで」
呼び止めようとするハルカを厳しく拒んで、私は走った。
違う。違う。そんなわけない。
父さんの車は、間もなく正門の前に現れた。私は黙って乗り込んだ。
「香奈も、もう見たのか」
私は黙って頷いた。
「なら話は早いな」
帰り着くまで、父さんはもう何もしゃべらなかった。
私は父さんに命じられるまま、リビングに二つ並んだシングルソファに座った。隣には父さんが座る。母さんもいたが、立ったまま不安げな顔でじっと私を見つめるばかりだ。
テーブルにはさっきハルカに見せられたのと同じ紙が置いてあった。よその人にとっては取るに足らない紙きれだが、私と父さんにはまるで重大な宣告が書かれているかのように見えた。
張り詰めた空気とは裏腹に、インターホンはのんびり尾を引いて鳴った。「おれです」と聞こえてきた声に、心臓が跳ね上がる。
「カナちゃん」
リビングに通されたマナちゃんは、私の顔を見て目を見開いた。肩まであった髪は短く刈り揃えられていて、前に会ったときよりも少し痩せている気がした。
「事故に遭ったんじゃないのか」
私には何のことだか分からない。父さんがゆっくりと立ち上がった。
「そうでも言わないとお前、俺からの連絡なんか無視するだろ」
「だからって、ついていい嘘と悪い嘘があるだろうが!」
マナちゃんが怒るところを初めて見た。つかみかかろうとするその腕を、父さんが乱暴に振り払った。
「その言葉、そっくりそのままお前に返してやるよ」
座れと言い放つ父さんの顔も、見たことないくらい険しかった。マナちゃんはなぜ自分がここに呼ばれたのか分からないらしかった。
「これ、お前だな?」
父さんが例の紙を差し向けた。
「『水素水』はもう古い! 『ヘリウムウォーター』で健康な毎日を!」
薄いオレンジの背景に、虹色のポップ体が踊るチラシ。昨日の夕方ごろに、近所一帯にポスティングされたものだ。うちにも、ハルカの家にも撒かれていた。
「コレステロールが下がった」「寝たきりだったのに歩けるようになった」「ガンが治った」などと、「ヘリウムウォーター」の愛飲者たちの体験談が写真つきで載っている。が、どこからどうみてもうさんくさい。中一の私でも、ひと目で悪徳商法だと分かるチープさである。普段なら、鼻で笑って資源ゴミに出すだけのつまらないものだ。
問題は、チラシ最下部の写真だった。
「効果は科学的に実証されています」との文言とともに、
これも、モデルの仕事なのだろうか? 名前を偽って怪しいチラシに載ることが?
「お前、詐欺の片棒
「違う」マナちゃんは即座に否定した。「これは確かにおれだけど、おれじゃない」
「何を訳の分からんことを言ってる」
「冗談じゃない。こんなもので、おれが悪事に手を染めてるって思ったのか?」
「少なくとも、香奈を騙してるだろ」
私の名前が出ると、マナちゃんは押し黙った。
「香奈はお前がモデルの仕事をして、ちゃんと稼いでると思ってるぞ。俺たちに黙って渋谷に連れて行ったり、連絡取り合ったりして、何のつもりだ」
「なんで父さんが知ってるの」
私が顔を上げたとき、父さんも母さんも目を逸らした。
「娘がどんな風にスマホを使ってるか、見守るのは親として当然だろ」
きっと私に内緒で変なアプリでも入れたのだろう。
「最低」そう言い返すのが精一杯で、悔しくて涙が出た。
「おれはただ、時々カナちゃんの話を聞いてただけで……」
「いっぱしの大人ぶってか? これで?」
父さんはチラシをマナちゃんのほうへ押しやった。
「
ひどい。父さんはぞっとするほど、私たちのことを誤解していた。
私はただ、寂しかっただけなのに。話し相手が欲しかっただけなのに。
けれども涙が言葉の輪郭を押し流してしまうせいで、ひとつも言葉にならなかった。
血の気の引いた顔で、マナちゃんはうつむいていた。マナちゃんこそ言い返したいことは山ほどあったろうが、それらを全部呑み込んで「ごめん」とつぶやき、顔を上げて私を見た。
「ごめんな、カナちゃん。おれ、カナちゃんが思ってるような、かっこいいモデルなんかじゃないんだ。嘘ついてて、本当にごめん」
三十ほども年下の私に深々と頭を下げる。騙されていたのだと知って、私は余計に泣いた。
マナちゃんが立ち上がった。弟を屈服させた父さんも、悲しそうな顔をしていた。
「マサ、いい加減しっかりしてくれよ。お前もう四十過ぎてるんだぞ。二十歳やそこらの若者じゃないんだ。ちゃんと手に職つけて、真面目に生きなきゃだめだろ」
励ましというよりは叱責に近かった。どちらにせよ、弟を思う兄の切実な気持ちから出た言葉ではあったと思う。
「真面目って、なんだよ」
けれども、去り際にマナちゃんが残した短い反論に、父さんは答えることができなかった。
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