第3話

 いまとなっては全く不可解だが、あのころはみな狂ったようにタピオカを追い求めていて、私もそのひとりだった。

 九月のある日曜日、私は「友達と渋谷に行く」と嘘をついて家を出た。マナちゃんとの待ち合わせ場所はMAGNETマグネットの地下入口前にした。地上にあるハチ公前と違い、渋谷の地下は断然人が少ないのがいい。MAGNETというのは109イチマルキューと同じ系列のショッピングビルで、上の階にフードコートがあり、タピオカのお店も入っている。ずっと行ってみたかったお店だ。

 意外なことに、マナちゃんは私より先に到着していた。濃いグリーンのTシャツ、グレーのスキニージーンズと黒のスニーカー。髪は相変わらず長いままだが、前に会ったときよりも落ち着いた格好だった。でもよく見ると、Tシャツの胸元にワンポイント、黒糸で刺繍が入っている。横向きの豚の上に、小さな文字で「HELPヘルプ MEミー」と。

「どこで買ったの、こんなTシャツ」

「覚えてない。もらいものかな?」

 一瞬「ヒモ」という言葉(意味はしっかりググった)がよぎったが、もちろん口には出さなかった。

「もし今日この後マナちゃんが失踪したら、警察の人に『豚が助けを求めてるTシャツ着てました』って証言してあげるね」

 これはクラスの友達の間でお決まりのやり取りだ。こういう変なTシャツや、派手すぎる服や、失敗コーデの子に言う。相手が「おう、頼むわ」と軽く応じるまでが、ワンセットになっている。

 四十歳のマナちゃんは、薄く笑ってこう返した。

「おれみたいなおじさん、いなくなったって誰も探してくれねえよ」

 私が哀愁かそれに近い何かを覚えるより先に、「行こうぜ」とマナちゃんはエレベーターのボタンを押した。

 地下から乗ったのは私たちだけだったが、階が上がるごとにどんどん人が乗ってきて、フードコートに着くころには満員だった。お目当てのタピオカ屋さんには行列ができていて、一時間以上待たなければならないらしい。多少の行列は覚悟していたが、まさかここまでとは。

「いいじゃん、並ぼうぜ」

「でも」タピオカに興味があるのは私だけだ。マナちゃんを付き合わせるのは申し訳ない。「そのうち、ブームが過ぎてからまた来るよ」

「何バカなこと言ってんの。いま興味があるんだ、いま並ばなきゃ意味がないだろ。『そのうち』なんて言ってたら、本当に欲しいものなんて一生手に入らないよ」

「は、はい」

 妙な迫力に負けて、私はマナちゃんと一緒にタピオカを待つことにした。周りは若者だらけで、おじさんと小学生女子のペアは明らかに異質だ。

「マナちゃんだって他に食べたいもの、あるんじゃないの」

 同じフードコート内には餃子や唐揚げのお店もあり、ビールも飲める。うちの父さんなら、タピオカより断然そっちだろう。

「ビールは飲みたいな」

「じゃあ、後で行こう」

「飲むのかよ」

「飲まないよ」小六しょうろくの女子だ。飲むわけがない。「でも、唐揚げは食べたい」

「よし、買ってやろう」

 気前はいいけれど、大丈夫なのだろうか。モデルのお仕事は、ちゃんと儲かっているのだろうか。だとしたら家族に職業を隠す必要もないし、ただのサラリーマンに過ぎない父さんにまでとやかく言われる筋合いもないんじゃないか。

 タピオカを待つ間、マナちゃんは自分からあまり喋らなかった。八王子の実家ではあんなに饒舌じょうぜつだったのに、今日は人が変わったみたいだ。

「そういえばマナちゃんて、どこに住んでるの?」

 黙ったままなのが気まずくて、適当な質問をしてみた。

「世田谷と杉並の間ぐらい」

「分かるような、分からないような……」

「特に何にもないとこだよ。家がいっぱいあって、スーパーとコンビニがあって、それだけ」

 具体的に最寄り駅の名前か、近くの有名な街の名前でも言ってくれればいいのに。もしかしたら、あまり話したくないのかもしれない。

「別に私、お父さんとかにバラしたりしないよ?」

 マナちゃんはハッと息を吐いて笑った。かすかに煙草たばこのにおいがしたが、いまのところ吸っているのを見たことがない。

「おれ、俊介しゅんすけになんだと思われてんだよ」

 俊介というのは父さんの名前だ。私が口を滑らせてしまったのは明らかだった。

「ちゃんと親に言ってきた? おれと遊びに行くって」

 私は素直に首を振った。

「やっぱりなー」

 マナちゃんは頭を掻きながら、小さく舌打ちをした。

「あの、タピオカ待ちながらする話じゃないと思いますけど」

 ええいこの際だ、と覚悟を決めた。前置きをして、一番気になることを聞いてみる。

「なんかみんなに嫌われるようなこと、したんですか?」

「急に敬語」

 マナちゃんは苦笑いを浮かべたものの、気分を害した様子はなかった。

「タピオカ待ちながら話すことじゃねえけど、逆だよ。なんにもしないでブラブラしてるから、みんなに嫌われるんだよな」

 よく分からなかった。父さんや綾子さんみたいな会社員ではなくても、ちゃんとモデルの仕事をしているなら「ブラブラしている」のとは違うんじゃないか。

「この話はおしまい。もうすぐタピオカ買えるよ」

 話は一方的に打ち切られ、間もなく私たちはタピオカを注文した。私が黒糖入りのタピオカミルクティーを選ぶと、マナちゃんも同じものを頼んだ。たぶん、どれでも良かったんだろうと思う。

 タピオカはなかなか高級品で、ちょっとした定食くらいの値段がした。もっちもちした歯ごたえで、ドリンクの甘さと相まって私たちの満腹中枢を刺激した。確かにおいしかった。でも、これが本当に私が欲しかったものだろうか。

「帰ろうか」

 氷の下に入り込んだ最後の一粒を諦め、マナちゃんが席を立った。

「ビールは?」

「おじさんはもうおなかたぷたぷだよ。唐揚げ食べたきゃ、買ってあげるけど」

「私も、もういい」

 タピオカ以上に、おなかにたまるものがあった。

「マナちゃん、ごめんなさい」

「なんで謝る?」

 なんで謝るのだろう。答えあぐねていると、マナちゃんはあの転職サイトの写真みたいに、歯を見せて笑った。

「親に許可取らずに来たのは、よくなかったな」

 そういうことにした。そういうことにしてくれたのだ。

 その晩、改めてお礼のLINEを送ったら、「OK」と猫のスタンプが返ってきた。何もOKだとは思えなかった。

 そのまま、マナちゃんとのやり取りは途絶えた。

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