8月19日

1

「あったかねえ、爺さん。」

「ねえな。ラインさ過ぎとるでな。」

「悪いねえ。お兄ちゃん、お雛様の時期には『菱餅』置いてるんだけどねえ。」


 島のスーパーで「ピーチジュース」を所望すると、親切な店主夫婦は10分ほど奥に探しに行ってくれた。だが彼らは「菱餅」だと聞き間違えていたらしい。


「すみません、『菱餅』じゃなくて、桃味のジュースなんですけど。」

「ああ、”peach juice”かね。爺さん、確かあったよな。」


彼らの発音はネイティブに近く、僕のカタカナ英語では伝わらなかった。ここで英語の未熟さを思い知らされるとは思ってもいなかった。

ジュースは2本でよかったのだが、無駄働きさせてしまった申し訳なさから6本買った。たかがジュースだから財布には響かなかったが、3kgを手にぶら下げて上り坂を進むのは楽ではなかった。

山上神社の社には、真っ白い着物を着た熊沢さんがいた。死に装束みたいだと思ったが、あながち間違いではないようだった。


「飯出君、どうしたんだい。」

「これです。」


 僕はジュースの入った袋を持ち上げた。


「陣中見舞いに来ました。」

「オオカムズミだね。気が利くね。」


 袋からボトルを取り出した熊沢さんが言った。


「ジュースですけど。」

「こういうのは案外気の持ちようなのかもしれないよ。」


 巨大イモムシの実在を唱えていた彼がそういうこと言っているのは可笑しかった。

 床に川凪さんの血がまだ残っていた。昨日の今日なのだから当然である。葬式はすでに済ませてあるという。ほとんど寝ていたから気が付かなかったが、昨日も留衣山では鐘や太鼓を打ち鳴らしての乱痴気騒ぎが行われていたらしい。


「常世神へ祈るときは、打楽器を打ち鳴らして狂ったように踊っていたらしい。」


 熊沢さんはジュースを一口飲んでから続けた。


「常世神信仰がなぜ弾圧されたのか、不思議に思わないかい。」

「秩序を乱したからでしょう。」

「しかし、その時代において単なる流行り神を祀る教団が討伐されることはまれだった。それどころか、国津神やアラハバキ、ミシャグジのような、明らかにヤマト朝廷とは違う流れをくむカミを祀るのにも寛容だった。諏訪では独自の現人神を崇敬していた時期さえある。さらに物部氏と蘇我氏が争ったあとも、仏教と神道は併存していた。」

「確かに、この国の歴史において弾圧されてきた信仰は、相当な過激派ばかりに思えます。」

「過激派という表現は危なくないかい。」

「ええ。でも世界の支配者にならんとする神を崇めることは時の為政者たちから嫌われてきたと思えませんか。」

「まあ、そういうことだろうね。」

「この前言っていた、ヒルコとの関係はあるのでしょうか。」

「あくまで仮説なんだが、私はあると考えている。葦舟に乗せられて流されたヒルコは、常世の国、つまり五神山のどこかにたどり着いた。そして非時香菓とともに日本に戻ってきたヒルコは自分と違って島になれた兄弟たちを嫉んで、この国を支配しようと、常世神となり財宝や食物で人々を惑わした。その意図に気づいてか、秦河勝によって信仰を弾圧され、逃げた先がこの夷島だった。以上が私の仮説だ。」


 彼の言ったことは荒唐無稽な説として看過しそうだが、この島で見聞きしたことが夢でないとすれば、到底妄言だと言い切れなかった。

イザナギとイザナミの間に生まれたヒルコは、島や支配者になった他の兄弟と違い、流されてしまった。 ヒルコが自身の王国を作ろうとするのもうなづける。


「熊沢さんは何をするつもりなんですか。」

「何って常世神を再び鎮めるんだよ。私ならそれができるかもしれない。」

「そのために命までも捧げるつもりですね。」


 少しの沈黙の後、熊沢さんは口を開いた。


「そのつもりだよ。」


 彼ははっきりと肯定した。僕は彼を引き留めるための文言で頭が埋め尽くされたが、どれも言葉にはしなかった。僕は彼を死なせたくなかった。だが、僕が何を言おうと彼は進んで常世神と対峙するつもりなのだと、彼の目はそう語っていた。

 もう僕が彼のために出来ることはなかった。気の利いた言葉も思いつかなかった。

 反対に、彼は僕に何か言いたいことがあるようで、なんだかそわそわしていた。だが、決意しかねているようで、何度か口を開きかけては、何事もなかったかのように、ボトルを口に運んでいた。

 じれったくなって僕が口を開いた。


「何か僕に出来ることはありませんか。」


 熊沢さんは少し考え込んでいた。ようやく気持ちが固まったのか、口を開きかけたのだが、またジュースを飲んでごまかした。


「気を使わなくていいよ。もう昼食の時間だろう。宿に戻ったらどうだい。」


 彼はジュースで口から出かけた言葉を飲み込んだ。僕はそんな彼が嫌になってきた。何かを言いかねている様子を見せられると、見ている側がイライラしてくる。僕は立ち上がると黙って歩き始めた。


「待ってくれ。最後に一ついいかな。」


 僕は待っていたはずの言葉が聞こえた。僕はゆっくりと熊沢さんの方を振り向いた。


「何でしょうか。」


 僕は恐る恐る聞いてみる。彼も僕の方をまっすぐに見据えていた。


「この国には世が世なら支配者たり得た者の怨霊がまだ残っている。この島に流れ着いたヒルコのようにだ。だから、君に頼みがある。」

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