第35話/嗚呼、夏休み④

 盆が明け、俺の地獄のような夏休みが戻ってきた。

 気を引き締め直し、ランニングに出掛ける。景色は変わらない。暦の上では秋だというのに、暑さは増すばかりだ。それでも朝方は幾分、過ごしやすくなった印象を受ける。


「……やくん……」

 朝の住宅街に控えめな声がこだまする。振り返った俺は驚いた。


「爽哉くん!」

 優子がいた。俺を追い駆けて、息を弾ませている。


「姿を見かけて、追ってきたんだけど……速すぎるよ……」

 眼前まで来て項垂れると、恨めしそうに呟いた。


「おぉ、奇遇だね。そういえば、家、この辺りだったな」

 分かりきった嘘を述べ立てた。よくそんな白々しいことが言えるな、と自分でも呆れてしまう。


「そうそう。前にも見かけたんだけど、見失っちゃって。それからこの時間に散歩するようにしてたの」

 俺は自らの身体能力を甘く見ていたようだ。今度からはゆっくり走ろう。


「そう、なんだ。元気だった?」


「うん。爽哉くんは……なんか、ガッシリしたね、体つきが」


「あぁ。トレーニングしてるからな。変かな?」


「いや、そんなことないよ。本は、読んでる?」


「読んでるぞ。最近は、『檸檬』とか」


「梶井基次郎?」


「そう。読んだことある?」


「あるよ。私は、読んでて息苦しくなっちゃった」


「悲しくなるくらい美しい文だよな」

 久しぶりに交わした優子との会話は、他愛のないものだった。しかし、終業式前日の帰り道のようなぎこちなさは、そこには無かった。表面上は平静を装いつつも、心の中で安堵の溜息を吐いた。


「爽哉くんは図書館へ行ったりする?」


「あぁ。ほぼ毎日、行ってるぞ」


「そうなんだ……。私も図書館へ行ったら君を探すんだけど、見当たらなくて。時間帯が違うのかなぁ」

 なんてこった。優子が俺を探してくれていた? その嬉しさよりも、驚きが上回った。


「そうなんだ……。俺は昼過ぎくらいに行ってるけど」


「あぁー、それで。私は大体、午前中に行くの。暑いから」

 そりゃそうだ。誰が好き好んで、日中の一番暑い時間帯に動き回るだろう。俺は自らの間の悪さを呪った。


「俺、今日からは午前中に行くよ、きっと」


「そっか。良かった。なかなか、こうやって本の事を話せる人がいなくって」

 優子は照れたように笑った。


「そうと決まれば、俺、帰るわ。今日は図書館へ行く?」


「えぇ。もちろん」


「じゃ、このあと図書館で」


「うん。また後で」

 優子は小さく手を振った。俺は軽い足取りで駆け出した。


 それからというもの、一日のスケジュールを変えた。

 早朝のランニングの後は軽い筋トレに留め、開館時間に合わせて図書館へ向かう。図書館で優子と会い、帰宅して昼食を摂ると、筋トレのノルマをこなして瞑想にふける。日暮れからまたランニングへ出かけ、シャワーを浴びて夕食を摂る。夕食後は優子を思いながら読書に励んだ。


 一日二、三時間の逢瀬おうせだったが、俺にとってはかけがえのない時間だった。人はそれだけで変われる。俺は地獄から這い出したような気持ちで、残りの夏休みを過ごした。

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