第33話/嗚呼、夏休み②

 夏祭り当日、西に傾いた太陽を横目に俺は家を出た。

 門扉もんぴに手を掛けた所でお隣から、いってきまーす、と元気な声が響く。路地へ出た俺の身体は固まった。そこには浴衣に身を包んだ、千絵の姿があった。


 紺の浴衣に濡羽色ぬればいろの髪がつやを放っている。流れるような白で花模様が描かれたその浴衣は、薄い桃色の帯と相まって決して派手なものではなかった。むしろ地味といえる。しかし、しなやかな肢体と色白な肌、上品な顔立ちを際立たせるには最高の逸品に思えた。


千絵と目が合う。お互いの時が止まった。


「おぅ、久しぶり……」


「えぇ、元気?」

 ぎこちない微笑みで、千絵は答えた。


 険悪がピークを迎えていた春の日から、千絵とは何度か顔を合わせている。それでも交わすのは短い言葉だけで、最近どう? とか、今日は暑いね、くらいだった。夏休みに入ると相対することは殆どなかった。部屋の窓から外を見た時に、着飾って出かける千絵を何度か目撃した程度だ。友達と一緒の時は安心した。しかし、一人で出かける千絵を見かける度に、俺の脳内には大里の姿が浮かんだ。そんな時には、一層激しいトレーニングで誤魔化すのであった。


「今から……夏祭り、行くの?」


「えぇ、そうよ」


「俺もそうなんだ。亮介と一緒にな。良かったら、途中まで一緒に行かないか?」


「そう……。いいよ」

 一瞬、考え込むような素振りを見せた千絵は小さく首肯した。誰と一緒に回るつもりなのかは明らかにしない。俺たちは並んで歩きはじめた。


「臨時バスに乗るんだろ?」


「うん。そう。市役所から」


 市役所までは、近い。貴重な時間だ。何を話そうかと考えはじめた俺に、意外にも千絵の方から声が掛けられた。


「なんだか……たくましくなったね」


「あー、トレーニングしてるからな」


 事実、春からの四か月で十キロ以上は絞っていた。今では、身体の重さも感じない。


「結構、走りに行ってるよね。たまに見かける」


 俺が千絵を見ていたように、千絵も俺を見ていたことが嬉しかった。


「どれくらい走ってるの?」


「そうだな。一日二十キロくらいかな」


「二十キロも⁉」

 千絵は素直に驚きの声を上げた。


「慣れたら、苦じゃないぞ」


「私には無理だなー」


 はにかんだ千絵の顔が過去の記憶と重なる。久しぶりに、後光が差して見えた。

他愛のない話を続けているうちに、市役所へ到着した。バスは俺の期待とは裏腹に、すぐにやってきた。花火大会までまだ時間があるせいか、満席ではなかった。一つだけ空いていた座席に、千絵を促す。その隣に立ち、つり革を握ると、緩やかにバスが出発した。


「勉強も頑張ってるみたいね。まさか、学年一位とは驚いたよ」


「あぁ、そうだな……」

 俺は言い淀んだ。ズルをしているようで、罪悪感がかる。


「以前の爽哉じゃないみたい……」


「生まれ変わったんだよ。千絵にたくさん迷惑を掛けたからな。悔い改めたんだ」

 千絵は目を伏せて、コクリと一つ頷くと顔を上げて笑った。


「反省してるのなら、良し……」


 やっと許されたと思った。俺は肩の荷が下りるのを感じていた。


 解き放たれるようにたくさん話をした。千絵の好きな歌手の話、芸人の話、テレビの話、最近めっきり見なくなったテレビだが、過去の記憶を辿ってなんとか話題に食らいついた。千絵は笑っていた。失った時間を取り戻すように、俺も笑った。


 楽しい時は、過ぎるのが早い。残酷にも、バスは会場へと到着した。バスから降りた千絵は、辺りを見渡して、小さく呟いた。


「……じゃ、私、こっちだから」


「あぁ、気をつけてな」


「もう、友恵さんに心配かけないようにね」


 捨て台詞を残して、俺たちはあっさりと別れた。千絵が消え去った人ごみの先には、大里の姿があった。予想はしていたものの、笑顔で話す二人を見ると胸が締め付けられる。


「ヘイ、ヘイ、なぁに浮かない顔してんのー」

 後ろから声を掛けてきたのは、亮介だった。振り返って見たその口元には、ピロピロ笛が踊っている。すでに出店を満喫していたらしい。


「お前ってやつは……」

 笑いが込み上げていた。今は笑い飛ばすしかない。


「なになに、何がそんなに可笑しいの?」

 愛すべき親友に、俺は心の中で感謝を告げた。

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