第32話/嗚呼、夏休み①

 夏休みがやってきた。やってきてしまった。俺はゴールデンウィークのてつを踏んだ。予定はない。全くない。壁に貼られたカレンダーには、終業式と登校日、そして始業式しか書き込まれてはいなかった。


 夏休みの初日、目を覚ました俺はベッドの上で身をよじらせる。そして、二日前の帰り道を思い出して、苦悶の声を上げた。


「バカ兄貴! 朝からうるさいよ!」


 隣室から湧き上がる妹の絶叫と、壁ドンの鈍い音が室内に響いている。


 冷静さを取り戻した俺はしずしずと着替えを済ませて、日課のランニングへ出かけた。

 迷いを断ち切るように走った。帰ってくると、筋トレ。行き場のない怒りとやり切れなさを己の身体にぶつけるようにトレーニングに励んだ。終わると瞑想。今までの反省とこれからの行動を妄想して、ただひたすらに目をつむる。ヒントになりそうな事はすべて、三年手帳へ書き殴った。昼食を摂ると一番気温の上がる時間帯は図書館へ向かう。優子の守備範囲である作品群は既に読み終え、興味の向くままに読み漁った。日が落ちる前に図書館から戻り、気温が下がるに任せて、またランニングへと出発する。それでもけたアスファルトは熱気を放ち、汗が噴き出す。自宅へ帰りつくと、水を浴びたように汗ばんだ身体をシャワーで流す。夕飯を摂ると、早々に寝床へ就いて、眠り薬の読書にふけった。


 そんな修行僧のような不気味な行動を繰り返す俺に、両親は何も言わなかった。一学期の成績が良かったこともあるだろう。期末テストでは学年一位だった。そりゃそうだ。タネを知っている手品のようなものである。それでも俺には感動も興奮もなかった。ただ行き場のない焦りと、満たされたいと願う渇望に支配されていた。


 俺の夏休みは日課をこなすだけで過ぎていった。たまに亮介に誘われて、友人の家でゲームをしたり、カラオケへ行ったり、涼香と買い物へ出たりした。満たされることはなかったが、気分転換にはなった。


 ただ、優子に会いたかった。

 高校へ行く用事は無いし、行ったところで優子がいるわけではない。ランニングへ出ても、淡い期待を抱いて優子の家の近くを走り回る自分を客観視して、気持ち悪さだけがつのるばかり。俺は終業式の前日のあの帰り道を後悔していた。あの時、俺に勇気があれば……。あれば、どうなっていたのだろう。優子が受け入れてくれていたとでもいうのか。俺は鏡を一瞥いちべつして、溜息をついた。言葉の出なかった情けなさと、拒まれた時に受けるであろう挫折とを天秤にかけて、どっちつかずの絶望にさいなまれるのが常だった。


 その気持ちは夏祭りの前日にピークを迎えた。必要以上に過去の思い出を引っ張り出さないようにと心掛けてはいたが、夏祭りは別だった。鮮烈な記憶が意思に反して蘇る。千絵と一緒に行った夏祭り、楽しかったな……。優子と行ったら楽しいんだろうな。わかりきってはいたが、千絵から連絡がくる事はなかった。もちろん、涼香に冷やかされる事もなかった。あったのは亮介からの誘いの電話だけだった。一瞬、俺は躊躇ためらった。千絵との美しい思い出を諦めてしまうような気がした。しかし、そんな無駄に潔癖な自分に嫌気がさしているのも事実だ。


 僅かの逡巡の後、俺は亮介と待ち合わせの約束を交わした。

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