第31話/木崎優子④

 聞くべきことを聞いたその後は、雑談をした。

 俺たちの幼少期の話が出た。俺は記憶にはない幼い自分の話を、新鮮な驚きとともに聞いていた。


「……で、その時、爽哉に怒られたの。年上のくせに、って」

 鈴音は笑っていた。優子も笑っていた。それが無性に嬉しくて、俺も笑った。


「中間くんが、本条先輩も昔は抜けてたって言ってたの、本当だったんですね」

 空気が凍る。


「ほぅ……」

 笑顔を維持したままの、鈴音の瞳に怒りが浮かぶ。優子が、しまったというように口を両手で覆った。


「どうやら、オネショ事件も話していいようね……」

 見出しだけで八割くらいが暴露されてしまっているスクープに、俺はおののいた。


「すみませんでした……」

 素直に頭を下げて、許しを乞う。しばしの沈黙の後に、優子が噴き出した。


「ぷっ……フフフフ……ハハハハハ……」

 お腹を抱えて笑う優子の姿に、鈴音もつられて笑った。俺は思い出していた。卒業式の後の図書室で、二人で笑い合ったことを。既に懐かしさをはらんだその思い出は、針で刺すようなちっぽけな痛みを俺の胸へ与えている。


「……す、すみません、なんかいいなぁ、って……。私、幼馴染とかいなかったから」

 優子が笑いをこらえながら、言い訳するように言った。


「いやぁ、優子ちゃん、ウケるわぁ。笑いのツボがちょっと変わってるね」


 笑いすぎてにじんだ涙を拭った鈴音は、

「って、もうこんな時間⁉ 帰らないと!」

壁の掛け時計を指して、声を上げた。


「優子ちゃん、おうちはどこ? 帰れる?」


「えぇ、私は近いので大丈夫です」

 外を見ると、すでに夕暮れは尽き、薄闇が落ちようとしている。


「爽哉、ちゃんと送って行って。私は、迎えが来ることになってるから」


「え、あぁ」


「ほらほら、帰った帰った。生徒会だけが下校時間を大幅に過ぎちゃったら、叩かれるんだから。優子ちゃん、いつでも見学に来てね。またお話ししたいし」

 鈴音は追い立てるように、両手を振った。


「はい! 本条先輩。今日はありがとうございました」

 鞄を手に立ち上がった優子は、深々と頭を下げた。


 生徒会室を出た俺は、記憶にない展開に戸惑っていた。以前の記憶では、暗くなる前までには生徒会室を後にして、優子とは校門で別れたはずだ。幼い頃の自分の話に興味を引かれて、話し込みすぎた。未来が変わってしまうかもしれない恐怖を前に、俺は鈍い後悔を覚えていた。


「じゃ、帰ろっか……」


「あぁ」

 並んで廊下を歩き、下駄箱で靴を履き替える。部活の後片づけが進む校庭を迂回するように校門へと向かった。


「じゃ、私こっちだから……」

 別れる素振りを見せる優子を前に、俺は一瞬だけ逡巡する。


「送るよ、家の、近くまで」

 迷いを吹き払うように、優子を呼び止めた。


「でも、君が帰るのが遅くなっちゃうよ……」

 優子は伏し目がちに、遠慮する旨を述べた。


「大丈夫だ。じきに暗くなる。急ごう」

 そう言って、優子が身体を向けていた方へ歩を進めた。半歩遅れるように、優子がついてくる。俺は早足にならないように気をつけながら歩いた。


「今日は、ありがとね。付き合ってくれて」

 優子が静かに言った。細い路地を囲む木々の影が、二人を覆っている。振り仰いだ優子の表情は、暗くてよくわからなかった。


「面白いだろ、鈴ねぇは。また、話の続きをしに行けばいいさ」


「うん」


「今度は俺がいなくても、木崎さん一人でも大丈夫だよ。だいぶ打ち解けてたじゃないか」


「それは、ちょっと……。またついてきてくれると嬉しいな……」


「あぁ……」

 会話はそこで途切れた。しばらくの沈黙が漂う。


「ねぇ、木崎さん……」

 気まずさを払拭するように、話しかけた。


「……優子」


「へ?」

 会話の出鼻をくじく呟きに間抜けな声が鼻から抜けた。


「『木崎さん』って、他人行儀じゃない?」


「えぇー、っと。優子……さん」


「優子でいい」


「じゃ、優子」


「なに? 爽哉くん」

 俺は何を話そうとしていたのかを、完全に忘れていた。


 たぶん他愛のない場繋ぎ的な内容だったに違いない。しかし、一度切れた記憶の糸はいくら手繰たぐったところで、何処にも繋がってはいなかった。

 思考が止まっていた。ただお互いに呼び合った名前だけが、いつまでもリフレインしている。以前の記憶に追いついたような、不思議な感覚だけが身体の中を駆け巡っていた。


「……ごめん。何を言うのか忘れた」

 俺は素直に謝った。


「そう……」

 優子の声からは、どんな感情も読み取れなかった。


 俺は期待した。期待してもいいのかと思った。終業式の前日。二人並んで歩く帰り道。明後日からは夏休みが始まる。俺がここで勇気を出せば、光で満ち満ちる夏休みを迎えられるのだろうか。無為に過ごしたゴールデンウィークを思い出す。あの虚無感をもう一度味わうのかと思うと、身体が震えた。


「あのさ……優子……」

 俺の迷いに反して、口が無意識に開いた。


 すがるように優子を呼ぶ声が洩れ出る。優子が顔を上げる気配がした。依然として影が覆うその顔からは、何の感情も読み取れなかった。


「……いい名前だよね。優子って……」


 本当に言いたい言葉を飲み込み、誤魔化す自分が情けなかった。俺の頭には、自らの醜い容姿と千絵の顔が舞っている。愛の言葉を吐き出す俺の顔と、軽蔑する千絵の顔が、交互にちらついた。

 振り向き、覗き見た優子の顔に、対向車のライトが降り注ぐ。その顔は泣き笑うような表情をたたえていた。


「……いい名前でしょう。お父さんがつけてくたんだ。優しくなれるように、って……」


 俺は取り返しのつかない事をしたと悟った。それでも、言うべき言葉は出てこなかった。あと一片ひとかけの勇気が出なかった。以前であれば息を吐くように紡いだセリフを、今はどうしても言う気になれなかった。


 その後、ポツリポツリと会話を交わしたと思う。俺は上の空だった。それは優子にも伝わっていただろう。気がつくと、俺は一人で帰路を歩いていた。今の今まで隣にいて感じていた彼女の体温は、既にその余韻すら夜の風に吹き消されていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る