第28話/木崎優子①

 放課後の図書室で、俺は迷っていた。自習机に三年手帳を開いて、ページをっては虚空に視線を彷徨さまよわせる。




 俺は優子との出会いを思い出していた。それは、夏休み明けの図書室だった。文字を追うと眠くなる。読書なんて門外漢もんがいかんの俺だったが、その日は文化祭準備の調べ物で亮介に付き合っていた。図書委員だった優子は、貸出カウンターに姿勢よく収まっていた。暇を持て余していた俺は、優子に声を掛けて図書委員の仕事について話をした。恥ずかしがってうつむき、囁くように話す優子の仕草が無性に可愛くて、その後も俺は暇を見つけては図書室へ通った。


 他愛のない会話を重ね続けた末、優子は俺に理想の自分を語った。引っ込み思案な性格を治したい、本条先輩のように毅然とした立派な人になりたい、と。俺は生徒会長をやってみないか、と勧めた。軽い気持ちだった。当初は大きく首を左右に振って拒絶していた優子だったが、その心が揺れはじめたのは本条鈴音と引き合わせてからだった。


 生徒会長を務めて鈴音は、変わった。それまでも真面目で、強かな女性だった。しかし、生徒会長となった鈴音は、芯の強さをそのままに丸くなった。雰囲気も変わった、と思う。ともすれば我が強い神経質な印象が、包容力の溢れるしなやかさをまとうようになっていた。俺は優子にも鈴音と同じように変わってほしい、生徒会長を務めることが優子に良い影響を与えると確信していた。余計なお世話も甚だしいのだが。


 俺は、優子に鈴音と話をすることを勧め、その機会を用意した。鈴音の話に感銘を受けた優子は、生徒会長、やってみようかな、と小さく呟いた。俺は全力で後押しした。推薦人を集め、応援演説は詩織にお願いした。俺はさながら、選対本部長だった。この高校の生徒会長は一年生の末に選挙があり、学年が繰り上がった四月より二年生が一年間を務める。立候補者はもう一人いた。しかし、圧倒的得票数で優子が生徒会長となった。




 俺は、再び優子を生徒会長へ推すべきかを迷っていた。優子と仲良くなれれば、鈴音と引き合わせ、生徒会長を目指すように説得することは可能だろう。


 しかし、俺はその後の結末をも知っていた。知ってしまっていた。優子はかなり苦労する。様々な問題が持ち上がって、心身ともに疲弊することになる。そんな仕事を勧めるべきではないだろう。

しかし、優子以外の生徒が難題をクリアできるかと言われれば、不可能だろうと確信していた。学校運営を揺るがす問題も含まれている。今は秘められている優子の才覚でなければ、崖から駆け落ちるトロッコのように未来が闇にとらわれるのは明らかだった。


 そして、俺は思い出していた。卒業式の後の図書室で優子の放った言葉を。


『私たちはかけがえのない絆を手に入れた。過程はどうだっていいの。それを手に入れられただけで、私は誇らしい気持ちでいっぱいよ』


 優子はその場しのぎの誤魔化しは言わない。その言葉が本心であれば、今の優子を見過ごしていいものだろうか。成長の糧を、そこへ向かうキッカケを与えるのは、俺なんじゃないか。ボールは俺の手の内にある、自らの余計な老婆心にうんざりしながらも心が猛っていた。




とりあえず、俺は優子に話しかけることにした。優子が露骨に他人を拒絶するとは思えなかったが、醜男のすることである。今のうちに親しくなっておいて害はないと考えた。


「あのー……」


「……はい。なにか?」

 貸出カウンターに相変わらず姿勢正しく収まっていた優子は、眼鏡を外して応じた。


「宮沢賢治の詩集はありますか? この間、棚にあったと思ったんだけど、無くって。準備室にあるのかな、って」

 宮沢賢治は優子の大好物である。彼女はハッとして、おずおずと口を開いた。


「それは、その、私がいま借りていて……。もう少しで読み終えますので、明後日にまた来て頂けますか?」

 動揺を隠せないままに、静かに答えた。


「あぁ、そうだったんだ。ごめんごめん。急がないから、ゆっくり読んでよ」


「童話集ならあるんですけど……」

 優子は申し訳なさそうに目を伏せた。


「じゃ、それを借りようかな。同じところにはなかったみたいだけど……」


「ちょうど返ってきたところなので、持ってきますね」

 優子は静かに席を立つと、返却棚を探る。間もなく、一冊の本を手にして戻ってきた。


「こちらです。どうぞ」


「ありがとう。じゃ、貸し出しをお願いします」

 優子は何かもの言いたげに口を開いたり閉じたり繰り返したが、何も言わぬまま黙って処理を終えた。


「童話集は読んだの?」

 その瞬間、優子の顔が輝きで満たされた。


「えぇ、もちろん。大好きなので」


「俺は『銀河鉄道の夜』が好きなんだけど……」


「私も! 大好きです」


「あとは『注文の多い料理店』くらいしか読んだことが無くってね。他の話も読んでみたかったから、童話集があってよかったよ」

 嘘だった。童話集は既に繰り返し、読んでいた。ついでにいえば、中原中也も谷川俊太郎も読破していた。


「おすすめはある?」


「『セロ弾きのゴーシュ』とか、『よだかの星』もいいですよ」


「そっか。ありがとう。楽しみに読ませてもらうよ」

 俺は傷つけないように童話集を鞄へしまった。


「えぇ。是非、感想を聞かせてください」


「あぁ。明後日、また寄らせてもらうよ。邪魔したね」

 そう言って、きびすを返す。


 俺は嬉しかった。外見を気にせず、分け隔てなく接してくれる優子の変わらない優しさが、身に染みる。同時に、後ろめたさも感じていた。嘘をついてまで引き出した笑顔に罪悪感を感じている。俺は迷いを振り切るように、図書室を後にした。

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