第26話/小澤詩織④

 昼休み、俺は図書室へ急いだ。こういう密会には、図書室の自習机が向いている。個々のコンパートメントに分け隔てられているからだ。席が埋まることはないと思うが、万が一に備えて急いだ。自習机の中でも奥の隅の二席を確保する。


 大里もすぐにやってきた。図書室に入ってきたところで、手招きする。時間がない。俺は戸惑う大里を席に着かせると、スマホを出すように促した。許可を取って俺が操作する。アプリを入れて、パスワードの入力の時だけ大里へスマホを返した。ものの五分程度で大里のアカウントは完成した。個人を特定されないように、しかし本人であることが判別できるように、いつも身に着けている時計の写真を撮ってアイコンに設定する。


 詩織のアカウントを検索すると、すぐに出てきた。鍵も解除されている。そこで俺は息を呑んだ。誹謗中傷というのもはばかられる、悪い方に振り切った罵詈雑言がそこには列挙されていた。俺は大里にスマホを渡して、目を通すように促す。


「ひどいな……」

 大里は整った顔を顰めて、小さく息を吐き出した。


「小澤も多少は慣れているだろうが、これじゃ参っても仕方ない。心が折れない方が不自然だ」


「……女性不信になりそうだよ」


「これが人間の本性だ。女だけじゃない。お前の言っていた通り、未熟な俺たちはSNSなんてやらないに越したことはない。だけど、使い方次第だ。人を救うこともできる。今のお前のように……」


「あぁ……」

 大里は複雑な表情をしていた。説教を切り上げて、文面を作成する。


 誹謗中傷はやめろ! 続けるのなら、俺は今後一切、誰とも話さない。 大里拓馬


「個人名を出してはいるが、大きな問題にはならないだろう。気になるなら、騒動が収まった後にアカウントごと削除しろ。何かあったら、全部俺のせいにしていい。でっち上げたと言ってもいい。事実だしな」


 俺は文面を大里へ見せる。大里は黙って頷いた。

 俺は大きく息を吸い込み薄く吐き出すと、投稿ボタンを押す。繰り返される誹謗中傷の嵐の中で、くさびを打ち込むようなメッセージが投稿された。

 俺は続けて、もう一つメッセージ欄を作成して、大里へスマホを返した。


「あと一つ。詩織へのダイレクトメッセージで学校に来るように言ってやってくれ。安心していい、と。これは他の奴には見られない」


「あぁ。わかった」

 大里は簡単に文章を作ると俺に見せた。俺は黙って頷いた。メッセージを送信した大里は、笑顔とともに顔を上げた。


「ありがとう。助かったよ」


「お節介ですまんな。手間を取らせた」

 俺は釈然としない気持ちと達成感の狭間で揺れていた。


「……詩織の事、好きなの?」


「なっ……」

 大里の唐突な質問に俺は口籠った。


「いやね、君は千絵の事が好きなんだと思っていたから。幼馴染なんだろう」

俺はどう答えればいいか悩んだ。答えないという選択肢に縋りつこうとする自分を卑怯だとののしった。


「……俺は、千絵が好き、だった。でも今はわからない。ただ、今は何かを失わないことで精いっぱいなんだ」

 俺は素直な気持ちを吐き出した。大里には伝わらないだろう。事実、大里は不思議そうな顔をしている。


「そんな顔するな。とにかく今は自分の気持ちがわからないんだ」


「そっか。僕も、負けるつもりはないから……」

 俺の言葉に宣戦布告する要素はなかったと思うが。大里の闘志に火を点けてしまったのだとしたら、俺は……。どうするというのだろう。物思いに耽り始めたその時、大里のスマホが通知音を上げた。

 大里はメッセージを確認すると一つ頷いて、それを俺に見せる。


 明日は学校へ行きます。 小澤詩織


 俺は胸のく思いだった。思考の拗れは一瞬で吹き払われた。




「戻ろうか」

 大里が立ち上がった。


「あぁ、そうだな。このままじゃ、飯を食いっぱぐれる」

 俺も立ち上がり、大里の背中を二度叩いて、ありがとな、と小さく囁いた。大里は仄かに笑っている。満足そうな笑顔が印象的だった。

 図書室を出ようと引き戸へ手を掛けると、不意に扉が開いた。目の前には、栗毛の少女が立っている。


「あれ、図書室に用事? 何か借りられます?」


 木崎優子だった。俺は久しぶりに目の当たりにする優子に懐かしさを感じていた。クラスが離れているため、会う機会はない。何度か図書室へ足を運んだものの、当番日ではなかったのだろう。その姿を認めなかった。優子はピンクとシルバーの細いフレームの眼鏡を掛けていた。


「いや、もう用事は終わったんだ」

 上擦うわずりそうになる声を抑えて、なんとか平静を装う。


「そうでしたか。……あ……」


 俺の肩越しに視線を彷徨さまよわせて、優子は小さく声を上げた。振り返ると、大里が笑顔で手を振っている。優子は顔を真っ赤にして目を伏せると、頭を軽く下げて室内へ入った。ぎこちない足取りで、貸出カウンターの椅子に腰かける。


 俺と大里は図書室を辞した。


「さっきの子、可愛かったね」

 並んで歩く大里が呟く。俺はギクリとした。


「そうだな。知り合いか?」


「いいや、初対面。向こうは知ってるみたいだったからさ」

 そりゃ、稀代きだいのイケメン様を知らない女子は、この高校ではモグリだ。


「おモテになるようで。ようござんしたね」


 俺は後悔していた。なぜ待ち合わせに図書室を選んでしまったのだろう。優子と大里の接点を、自らアシストしてしまうなんて。考えなしの不用意さに腹が立った。行き場のない怒りは、刺々しい声色となって吐き出されていた。


「まぁ、僕は千絵一筋だから」

 大里のそんな余裕に安心する自分に嫌気がさす。


「そりゃ、お熱いことで……」


 小声のやっかみしか出なかった。十重二十重とえはたえの情けなさが、詩織の件で得た晴れ晴れしさを塗りかえるように掻き消していた。

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