第25話/小澤詩織③

 俺は足を引きるようにして、校庭へと向かった。授業は全く頭に入ってこない。ただただ千絵を奪われる焦りと、詩織が遠のいていく妄想だけが脳内を支配していた。


 どうすればいい……。考えろ。考えろ! 考えろ‼


 俺の思考は、出口のない迷宮に囚われている。次の体育は水曜日、二日後だ。それまで待っていると、手遅れになる可能性がある。今は一刻の猶予も許されない。考えろ……。


 校庭の反対側では女子が体力測定をしていた。俺は千絵の顔を見ることができなかった。その代わりに、香奈の姿をしっかりと見た。今にも泣きそうな、はかなげな雰囲気で佇んでいる。香奈ならどうにかできるだろうか。いや、できる事はすべてやっただろう。俺と同じように悩み、行動した果ての絶望に違いない。


 既に俺の中で答えは出ていた。目を背けていただけなのだ。用いるに足る唯一の手段……。ただ、その覚悟が無かった。これなら詩織を救えるかもしれない。しかし、俺が救われない。ただ、それだけの事だった。




 体育の授業が終わった俺は、再び大里に近づいた。


「またか……。何度言っても、協力はできないよ」

 大里は明らかに警戒の色を深め、機先を制してきた。

 俺は腹を決めて語りはじめる。


「落ち着け。よく考えたんだが、これはお前にも悪い影響がある。というのも、次の矛先は千絵に向く可能性があるんだ。既にお前たちの雰囲気を察して、書き込みがあった」

 俺はでっち上げたばかりの書き込みを大里へ見せた。


「なっ……」


「お前の言う通り、大袈裟な騒動になってしまった今、誰にだって飛び火する可能性がある。それを収束できるのはお前だけなんだ。千絵と……」

 俺は言葉に詰まった。これ以上は言いたくなかった。


「……千絵と穏やかに過ごしたいだろう? 不肖ながら、俺は千絵の幼馴染だ。彼女に何かあるのは気分が悪い」

大里は書き込みに見入って、暫く黙っていた。


「……何をすればいい?」

 大里は神妙な顔つきで静かに呟いた。


「昼休み、時間をくれ。図書室で待ってる。千絵には内緒だ」


「あぁ。わかった」

 大里は口を引き結んだまま、去っていった。俺の心の中にはわだかまりのおりが広がっていた。




 俺にはまだ為すべきことがあった。休み時間を告げるチャイムが鳴り響くと、足早に本八幡香奈の席に忍び寄る。香奈はうれいを帯びた表情のまま、姿勢よく席に着いていた。


「本八幡さん」


 俺は平静を装って声を掛けた。香奈は警戒と嫌悪を露わにする。わかってはいたが、そこには俺を慕う以前の様子は微塵も見られなかった。心のきしむ音が鳴る。


「なんでしょう? あなたは誰?」


「俺は中間爽哉。小澤さんの事で……」

 香奈へ顔を寄せると、周りに聞こえないように静かに言った。


「……何か?」

 香奈は逃げるような素振りで距離を取りなおすと、刺々しい声で応じた。


「警戒しないでくれ。俺は大里の遣いみたいなもんだ」


「大里くんの……」

 香奈の表情が少し緩んだ。しかし、その顔は複雑な感情をはらんでいる。


「大里は、小澤さんを助けたいと思っている。少し時間をもらえるか?」


 俺は事実を歪曲しつつ、廊下へと促した。不信感を宿したまま立ち上がった香奈だったが、大人しく従ってくれる。人目につかない防火扉の蔭で、俺は香奈へ話しはじめた。


「昼休みに大里がSNSで、誹謗中傷をするなと発信する。だから、その事を小澤さんに伝えて、アカウントの鍵を解除しておいてもらいたい。悪いようには、絶対にしない」

 簡潔に伝える。時間がない。


「……なんで鍵アカの事を知っているの?」


「それは……」


 香奈の瞳は明らかな嫌悪に満ちている。行き場のない怒りをぶつける鋭さがあった。


「失礼だが、色々と調べさせてもらった。気持ち悪いとは思うが、今は問題の収束が先だ。取り返しがつかなくなる」

 俺は敢えてハッキリと言った。

 ここまで来たら、覚悟を貫き通すのみ。もう、引き返すことはできない。香奈は逡巡していた。


「どういう理由で、そこまでしてくれるの?」


「このクラスには小澤さんが必要だ。誰とでも分け隔てなく接する事ができる彼女の魅力を、こんな下らない事で失わせてはいけない……」

 俺は、しまったと思った。


 自らの容姿を考慮に入れず、以前と同じ感覚で口走ってしまった。こんな歯の浮くようなセリフ、醜男ぶおとこの口から吐き出されたら気持ち悪いに決まっている。俺は後悔した。

 しかし予想に反して、香奈はフッと小さく笑った。


「残念ながら、あなたは詩織のタイプじゃないと思うけど」

 はっきり言ってくれるじゃないか! その切り捨てるような物言いに、俺は清々しさすら感じていた。


「クラスメイトとして! クラスメイトとして、だ! 俺の事はどうでもいい。それは大里の意思だ」


「大里くんの、ね……」

 一瞬目を伏せた香奈は、覚悟したように顔を上げた。


「わかりました。少し待ってね」


そう言うと、懐からスマホを取り出し、振り返って電話をかけはじめる。詩織はすぐに電話に出たようだった。簡潔に事情を説明をすると、約束を取り付ける。詩織と話す香奈の少し甘えるような声に、俺は懐かしさを感じていた。


「そう。昼休みまでにね。何とかしてくれるって。うん。安心して。大丈夫よ。じゃ、また連絡するから」

 通話を切った香奈は、向き直った。その顔には前向きな明るさがほのめいていた。


「詩織の方はOK。あとはお願いします」

 香奈は深々と頭を下げた。


「あぁ。任せろ」


 休み時間の終わりを、チャイムが告げる。俺は香奈へ教室へ戻るように促した。少しの間を空けて、俺も教室へ戻る。午前の最後の授業が始まった。

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