第15話/混濁②

 俺はゆっくりと教室へ歩を進め、後ろの引き戸から中を覗き込んだ。


 ホームルームの終わった教室は、束の間の休憩時間に騒がしさを増している。まず、目に飛び込んできたのは、詩織だった。紅茶色に染める前の黒髪の詩織の周りには、数人の男女が寄り合っていた。相変わらずの大声が響き渡っている。そういえば、あいつは初日からコミュニケーションお化けの才能を如何いかんなく発揮していたな……。しみじみと思い出すと、心が少し軽くなった。千絵の席を見てみると、いない。空席になっている。トイレにでも行ったのかな。恐る恐る室内へ入ると、亮介が声を掛けてきた。


「おい、中間!」


 その大声に注目が集まる。俺はたまれなくなって、自分の席に駆け寄った。


「お腹でも痛かったのか? 先生には保健室へ行ったと言っておいたぞ」


「あぁ、ありがとう。体調が優れなくてな……」

 亮介に礼を言うとクラスメイトの注目は散らばり、元の騒がしい教室へ戻っていった。しかし、一人の視線に俺は気づく。千絵が困ったような表情でこちらを見ていた。


「ち……」

 声を掛けようとして俺は息を呑んだ。千絵はある机の横にはべるように立っていて、席に着いた男との会話を再開している。その男の顔は、俺が生涯で一番見知った顔だった。


 そう、イケメンの中間爽哉の顔だった。


 またしても、俺は自分の意識が遠のくのを感じた。なんだって……。あの席は……。記憶を辿り、席の主を思い出す。廊下側の前から三番目。大里……。いつも机に突っ伏して、猫背でうつむいていた大里の過去の姿が蘇る。大里が俺の顔で、俺が大里の顔で……。俺は大里に刺されて、大里の隣には千絵がいて……。


 次の瞬間、俺の身体は無意識に動いていた。椅子を鳴らして立ち上がると、大里の元へ駆け寄った。


「お前……その顔!」

 掴みかからんばかりに大里に肉薄する。


「僕の顔が、なにか……」

 明らかに困惑したように大里は怯んだ。


「ちょっと! やめてよ!」

 叫んだのは千絵だった。


「千絵……」

 すがるような俺の眼差しに、千絵は呆れるように息を吐いた。


「爽哉、なんなの? 大里くんに変なちょっかいを出さないでくれる?」

 そう言って、俺を押しのけるように大里との間に割って入った。


「ごめんね、大里くん……。幼馴染なんだけど、なんだか様子がおかしいの。たぶん緊張してるんだと思う、人見知りだから」

 千絵は大里に向き直ると詫びた。俺が人見知りだって……? この俺はそういう人間なのか。千絵は、そういう嘘や冗談は吐かない。


「や、やぁ、まぁ、落ち着きなよ。僕は大里拓馬おおさとたくま。仲良くしよう」

 大里は立ち上がり、手を差し伸べて握手を求めてきた。


 俺は大里の手と、千絵の顔を何度も交互に見た。千絵の顔には不安の色が広がっている。俺にとってはついさっき、サバイバルナイフを突きつけられた手。へし折ってやった指。そんな痕跡は微塵も見られず、俺の見慣れた色白の手がかすかに震えながら差し出されていた。


 俺の生存本能が告げている。卑屈な笑みを浮かべてこの手を握れば、ちょっと言動のおかしい日陰者としてでも生きていけるのだろう。取り返しのつかないことをしないで、今を受け入れろ、って。……俺はどうしても、握り返せなかった。全てを奪った奴の差し出した手を。そして、これからも奪い尽くすであろうその手を。


 俺はきびすを返すと、教室を飛び出した。

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