第16話/混濁③

 気付くと、屋上にいた。これじゃ、入学式には間に合わないな……。他人事のようにそう考えていた。広い屋上のど真ん中に膝から崩れ落ちる。


 本当に悔しい時は涙すら出ない。


 俺の今までの悔しさたちを否定するような教訓が、胸に染み渡った。


 風が吹き、冷静のとばりりた頃、俺の頭の中はさっきの千絵の顔で埋め尽くされていた。不安、嫌悪、軽蔑。負の感情の贅沢詰め合わせセットが、俺の頭と心を堂々巡りにむしばんだ。


 眠っていたようだ。それとも失神か……。俺はゆっくりとまぶたを開いた。空は朱に燃えている。うつ伏せたまま、スマホを取り出す。たっぷりと八時間くらいは意識を失っていた。やはり、スマホの暗い画面に映るのは、醜男ぶおとこの顔だった。


 死のう……


 俺はゆっくりと立ち上がった。これ以上、千絵の平穏を奪ってはいけない。そして何よりも、俺自身から奪われたくなかった。これ以上、何かを奪われてしまったら、俺の心が死ぬ。そんな残酷を俺は許容できない。


「おい……」


 ふらつくように屋上の転落防止柵まで歩み寄ると、靴を脱いだ。


 なんで靴を脱ぐんだろう。何の意味があるんだ? 少し疑問が残ってはいたが、そんなことはどうでも良かった。俺は素直に礼儀作法に従うことにした。


「おい、ってば!」


 呼ぶ声に振り返ると、屋上に設えられた貯水タンクの上に、一人の少女が立っている。その超俗的な雰囲気に、息を呑んだ。


「死神か……」


「そんな半端な存在ではない」

 少女は貯水タンクから足を踏み出した。自由落下を否定するようにゆっくりと、少女の身体が屋上の床へ降り立つ。俺は目をみはった。床から十五センチほどの距離を残して、少女は宙に浮いていた。信じられない光景に頭を抱える。


「……俺の頭もいよいよ限界、だな」


「そうではない。お前を取り巻く状況は非常に切迫しているが、目の当たりにしているのは現実だ」


「お前は、何者なんだ……」


「私は、黄昏たそがれの魔女。審判者である」


 ここにきて、ようやく俺は少女の観察を始めた。

 非常に小柄だ。小学生高学年くらいの背丈だろう。上半身を覆う焦げ茶のマントとフードを目深まぶかに被り、顔のおおよそは見えない。わずかに覗く口元はいびつな笑みを浮かべている。おかっぱに切り揃えられた髪がフードの隙間からたなびいていた。黒いタイツに、血を思わせる赤黒いスカートが風にひるがえっている。手には古ぼけた木の杖を携えていた。


「で、魔女が、なんだって?」


 魔女という、普段はおおよそ使わない言葉を口から吐き出して気づいた。そういえば、学校の七不思議にあったな。黄昏の魔女……。合わせ鏡の前で三時間、待ちぼうけさせられた……。結局、暴けなかった最後の一つ。それが今、目の前に姿を現しているという。


「中間爽哉。お前は今、審判のさ中にある。それを伝えておこうと思ってな」

 魔女の言葉に、俺の意識が覚醒した。


「この状況! お前が何かを知っているのか!」


「お前の魂は今、六道りくどうの狭間、冥府にある。審判は、その魂の重さによって成される。天秤の片側には被告であるお前の魂、もう片側には原告である大里拓馬の魂が囚われている」


「冥府? 魂? いきなり胡散臭くなってきたぞ……。そんなのは宗教の勧誘か、三流科学雑誌の特集だけにしてくれ」


「お前を取り巻く今の状況を、自らの言葉で説明できるのであればそうするんだな」


「……」

 俺は何も言い返せなかった。

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