第347話 殺人ヘアカット11
「まず、おかしいのはナイフ」
砂橋は鏡の目に置かれたビニール袋に入っていた血塗れのナイフを指さした。
「僕がずっとナイフを持っていたのなら柄に血の跡がついてるはずないでしょ」
「血だまりに落としたのかもしれない」
今まで押し黙っていた一の字の口が開かれた。島津の言葉に砂橋はにっこりと微笑む。
「それもそうだ。でもまぁ、僕には小松くんをこの通路で殺した上で奥のシャワーベッドまで連れて行くような腕力はないよ」
「それは自己申告でしょう。本当は運べる可能性もある」
島津が喋り始めると今度は、噛みつくように話をしていた西片が押し黙ってしまった。この様子が今だけのものではないと分かったのは西片と島津が視線も交わさずに相手の口が開いたのを察していたからだった。
「それもそうだ」
砂橋はあっさりと島津に言い負かされる。それでも余裕の表情を消さない砂橋は両腕を持ち上げて、島津と西片を指さした。
「僕が殺人犯だったら、目撃者の君たち二人を殺してないわけがない」
「警察が来たから殺せなかったんだろ?」
今度は西片が反論する。しかし、その反論はいささか不出来だ。
小松が警察に通報して、すぐに警察が駆け付けるのは不可能。しかも、警察が駆け付けた時には、島津も西片も気を失っていた。
気を失った相手を殺すのに、時間は要らないだろう。
「間抜けに倒れてた君たちを殺せる時間ぐらいあるでしょ」
いちいち島津と西片を煽るような物言いをする砂橋に俺はため息をつきたくなる。熊岸警部だけではなく、俺までもが砂橋と二人の間に割り込まないといけなくなるかもしれない。
「分かった。俺たちが秀伸を殺したとしよう」
観念したというように島津は両手を軽く耳の横まで持ち上げた。
「でも、そうすると俺たちはどうやって、秀伸をシャワーベッドまで運んだんだ? 足跡もついていないし、俺たちは君ほど血塗れになってない」
血だまりの上にいる返り血塗れの砂橋と、返り血を浴びていない島津と西片。
第三者がこの状態を見たら、間違いなく砂橋が犯人だと言い出すだろう。俺だって、返り血に塗れた砂橋を見て「こいつはついにやったのか」と思ったぐらいだ。
「返り血を浴びずに小松くんを殺して、シャワーベッドまで運んだ」
「通路にはこんなに血だまりが広がっているのに? 俺たちの靴の裏には血なんかついてないけど?」
そう言って、島津が片足を持ち上げる。スニーカーの白い靴底には血はついていなかった。それに倣って、西片も近くの壁に手をついて、片足をあげた。彼のスニーカーの灰色の靴底にも血はついていなかった。
彼らが気を失ったと主張していたのは待合室とレジの内側。血がついていないのは当たり前だろう。
「スニーカーを履き替えたというのは?」
「店内を調べましたが、そのようなものはありませんでした」
俺の疑問に猫谷刑事が答える。そのやり取りに、島津がふんと鼻を鳴らした。
「ほら。通路には血が広がってる。秀伸を運ぼうと思ったら、血を踏まないといけないでしょう?」
島津は砂橋のスニーカーを指さした。砂橋は今まさに血だまりの上に立っていて、靴底は赤くなっていることだろう。最初から砂橋の靴底が赤かったのか、そうではなかったのかは知らないが。
「僕の靴が血で汚れてるから、なに?」
「だから、俺たちには秀伸の身体を運ぶことはできないと言ってるんです。靴の裏に血がついている君の方こそ、犯人だと断言してるようなものでしょう」
「僕の靴の裏が血で汚れてるのは事実だけど、君は馬鹿なの? 引きずった血の近くに靴の跡なんて一つもないのに、どうして僕が犯人ってことになるの」
俺は、はっとしてシャワーベッドが並ぶ中に掠れた筆を引きずったような赤い跡を見た。確かに、赤い足跡はない。砂橋のものも他の人間の足跡もシャワーベッドの周りにはなかった。
「つまり、靴に血がついているかどうかは、小松くんの死体を運んだかどうかには関係ないってこと」
砂橋は血だまりの中を歩くと床に転がって血の被害を受けている櫛や鋏などの道具の中から、くしゃくしゃになったビニールを広げた。ゴミ袋よりも大きなそれは、美容室で見かけるものだろう。髪を切る際、身体に被せるビニールだ。砂橋がビニールの袖の部分を引っ張って、手を振るような動作をさせる。
余すところなく、真っ赤になったビニールの服の中に砂橋は手を突っ込み、そして、腹にあたる部分から人差し指を出した。
「えーっと、穴はこれで、一、二……三、四、五……六箇所もお腹の部分に穴が開いてるね。このビニールを着せて、ナイフで刺して、返り血を避けたって感じ?」
ビニールの中から手を引き抜いた砂橋は、自身の掌にべったりとついた血を見せてきた。
ビニールの服の内側にも血が広がっている。
くしゃくしゃに丸まって、血だまりに落とされていたビニールの服の中に血が入り込む可能性は少ないはずだ。
「それで返り血を浴びないとして、俺たちは、秀伸をシャワーベッドまで運んだ後、どうやって靴に血を付けることなく、こっちまで来たっていうんだ?」
通路には血だまりが広がっていた。
小松を殺した後、返り血を極力浴びなかったとして、血だまりに占領された通路を渡って待合室とレジまで戻ってきたら靴の底が血塗れになるに決まっている。
いかにして、二人が靴の底を汚さずに移動したのか。
砂橋は堪えきれなくなったのか、声をあげて笑いだす。笑い声に対して、反論する人間がいないからか、もしくはこいつは気でも狂ったのかと口を挟めずにいるのか、美容室内に砂橋の笑い声を止める人間はいなかった。
ひとしきり笑って満足したのか、砂橋は「ふぅ」と息を吐くと、島津と西片の二人を睨みつけた。
「よくも僕のコートを踏み台にしたね」
砂橋は今の今まで羽織っていたコートをゆっくりと、床につけないように脱ぐと俺たちの目の前で広げた。コートの背中側は見事なまでに血塗れとなっており、むしろ、血で濡れていないところがなかった。
それとは対照的にコートの内側には端に血が滲んでいるのみで血の汚れは見られなかった。
「返り血を浴びたとしても、どうしてコートの背中の部分がこんなに血塗れなのかな。例えば、コートを血だまりの上に置いて、飛び石みたいに踏んで血だまりを越えて、寝ている僕にコートを着せたとか?」
砂橋は猫谷刑事に血塗れのコートを突き出した。
「はい、証拠」
「……分かりました」
コートの内側に足跡が残っているとでもいうのだろうか。なんにせよ、返り血を浴びたにしてはやけに不自然なコートだ。
「どうせ、血で滑ってこけたとかなんだろ!」
「僕がコートを着て犯行に及んだと言いたいの?」
西片の噛みつきを砂橋は涼しい顔で受け止める。それに物怖じせずに西片は「ああ、そうだ!」と続ける。
「だったら、君たちは美容室の基本的な接客もできないんだね。髪を切る前に客のコートは預かるべきでしょ?」
砂橋の言葉に西片は何か反論をしようと口を開いたが、そこから言葉は出てこなかった。
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