第287話 緋色の部屋17
俺はココアの粉をマグカップの中に入れて、お湯を少しだけ淹れるとスプーンでマグカップの底に円を作るようにしてかき混ぜる。
事務所からまた軽快な通話の呼び出し音が聞こえた。今回は先ほどの山内の時よりも長く呼び出し音が鳴り、その後に眠たそうな男の声が「はい」と返事した。
「こんにちは、緒川さん。僕は今回高瀬帆奈美さんに依頼をされた探偵の砂橋と言います」
先ほどとは名前をすり替えただけの挨拶。
『話は聞いてるけど……俺は何を話せばいいんですか?』
「では、早速お聞きしたいことがあるんですが、火事が起こった日が十七日の午前だったのですが、その前日の夜に木村結人さんと通話などはしましたか?」
砂橋の質問に「えー、十六日の夜?」とがさがさと何かを探すような音が聞こえた。
『あ、通話してないみたいっすね。十六日の夜は高校の頃のダチと一緒に飲みに言ってました』
「そうですか」
ココアの粉が全て溶けたようなのでお湯を追加で注ぐ。スプーンを流しに置いて、ココアを持って、事務所へと戻り、笹川の向かいのデスクの椅子に腰かけた。
「緒川さんは、このように木村さんとビデオ通話などをしていましたか?」
『してましたよ。あ、でも、ビデオ通話じゃないな』
画面の向こうには髭を剃り忘れた男の顔があった。よれよれになっているTシャツを見る限り、彼も今日は休日だったのだろう。
『俺と木村はよくゲームをしてたんで、ゲームをやってる時に通話はしてたけど、ビデオ通話はみんなで飲み会をしてた時ぐらいかなぁ』
「なるほど。ゲームということはノートパソコンじゃなくて、デスクトップパソコンでやってたんですか?」
デスクトップパソコン?
木村結人の家のリビングにはそのようなものはなかったが、もしかして、砂橋が他の部屋を物色している時に見つけたのか。
『そうっすね。一緒にやってるオンラインゲームは、デスクトップじゃないと重たすぎてできないやつだし』
「なるほど。あ、そうだ。木村さんとの通話中に、彼が寝てしまうことってありました?」
『えー、あぁ、ゲーム中は寝るなんてことなかったけど、ゲームを切り上げて、世間話になったらすぐに寝ちゃってたなぁ。まぁ、世間話と言っても、彼女の話ばっかりなんすけど』
彼女というのは高瀬のことだろう。
『木村の奴、高瀬にゾッコンで、二人と一緒に同期でバーベキューとかもしたことがあったけど、その時だって、俺が高瀬に必要以上に近づかないように釘差してくるぐらい高瀬のこと好きだったみたいでー。たいていゲーム終わると惚気話が始まるからいつも長くなる前に木村が寝てくれて俺も助かってたよ』
緒川がこちらにも分かるほどの大きなため息をついた。
一緒にゲームをするほどの仲の緒川も牽制するほど、高瀬のことが好きだったのか。
それもそうだ。大学も一緒に行こうと決意して、大学に受かったくらいなのだ。高瀬にこれでもかという程惚れていたのだろう。
その話の当事者である木村はもうこの世にはいないが。
「お話しありがとうございます」
『高瀬に依頼されたんだろう?その……あんまり高瀬に現実を突きつけないでやってくれよ?彼氏が死んじまったばっかりだし……』
砂橋は目を細めてから、にこりと微笑んだ。
「大丈夫ですよ。それでは、失礼します」
一方的に砂橋が通話を終わらせた。その場で両手を天井に向かってあげて伸びをする。
「驚いた。砂橋くんでも余計なことを言わずにちゃんと仕事をしているんだね……」
今まで黙っていた湯浅先生がそう呟く。砂橋は怒ることもなく、あげていた腕を下ろしてくすくすと笑った。
「先生、言い過ぎだよ」
確かに、砂橋の余計な言葉によって頭を抱える事態には今のところ陥っていない。湯浅先生も人に配慮できない人でも、火に興奮するような異常者でもないと分かった。
この依頼はこのまま何事もなく、終わるのだろう。
ただ、依頼人の恋人が火事によって死んでしまったという残酷な事実だけ残して。
「もう一人、佐川英雄だっけ?彼との連絡はついたのかな?」
「まだ高瀬さんからの連絡はないね」
湯浅先生が首を横に振った。砂橋はちらりと俺の方を見た。
「僕もココア飲もうっと」
「僕も飲みたいな」
「飲みたいなら先生も自分で淹れてね」
「これは手厳しい……」
笹川は砂橋から渡された青色のカバーのスマホをデスクの上に置いて、デスクトップパソコンとスマホをコードで繋げると、眼鏡をかけて、がたがたと先ほどからキーボードに向かって作業をしている。
邪魔をしたらいけない雰囲気だ。
「一気にやることがなくなっちゃったねぇ」
砂橋の言葉に俺は黙って、ココアの最後の一口を飲み干した。
今回の依頼は事故について調べることだ。もうすでに警察が事故だと断定しているのだから、調査できることも両手の指で数えられるほどしかないだろう。
「とりあえず、今日は解散かな?」
左手首の時計を見る。午後三時。
こんな時間に仕事を切り上げて、家に帰るなど、フルタイムで働いている人間からすれば信じられないだろうが、砂橋や俺に限っては、どんな時間で仕事を終わらせようが罪悪感はない。
「それじゃあ、僕も帰らせてもらおうかな。高瀬さんから連絡があったら、砂橋くんにすぐに報告するよ」
「先生は、この調査が終わるまでは付き合ってくれるよね?」
ソファーを立った湯浅先生に砂橋が問うと、湯浅先生は「うーん」と首を傾げてから、少し止まって、それから「うん」とうなづいた。
今の間はなんだったんだ。
「いいよ。久しぶりの教え子との調査なんだから、最後まで僕も付き合うよ」
「それならよかった」
湯浅先生は「それじゃあ、今日はみんなお疲れ様」と言うと自動ドアを通り、探偵事務所から出て行った。
「弾正、帰ろうか。昨日のゲームの続きしないと」
「……また俺の家に来るのか」
向かいのデスクから激しい歯ぎしりの音が聞こえたのは気のせいではないだろう。
今更、砂橋が俺の家に来ることにいちいち反応しないでほしいものだ。
「笹川くんも何か分かったら報告お願いね」
「分かりました」
先ほど聞こえた歯ぎしりの音などなんでもないかのように澄ました顔で笹川は砂橋に答えた。
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