第278話 緋色の部屋8
「湯浅先生。早いねぇ」
時計の針は九時五十分。
まだ待ち合わせには十分早い。しかし、砂橋は赤い軽自動車を待ち合わせ場所の近くの有料駐車場に見つけるとそう呟いた。その車の隣の駐車場が空いていたので俺はそこに駐車することにしたが、砂橋がすぐに湯浅先生とやらの車だと気づいた意味が分かった。
赤い軽自動車には炎の形のステッカーが所狭しと貼られていた。
「もしかして、この車……」
「うん。車自体は変わってるけど、先生はずっと赤い車に炎のステッカーだからねぇ」
どうやら、これが湯浅先生とやらの車らしい。そして、件の湯浅先生は運転席に座っていた。座席を目一杯後ろに倒して、顔に赤い炎のプリントがされているハンカチをかけている。
砂橋は助手席から降りると手の甲でコンコンと二度赤い車の運転席の窓を叩いた。
すると、両腕を頭の後ろで組んでいた男が右手をあげて、ハンカチを摘まみ、右目だけ運転席の窓へと向けた。
そして、その目が砂橋を捉えると彼はすぐにハンカチを手の中に握りしめて、倒した座席はそのままに起き上がった。
窓を開けないまま、何か言っているらしく、外にはもごもごと不明瞭な音しか漏れてこない。その様子を見て、くすくすと砂橋が笑う。
「聞こえないよ、先生」
俺は車のエンジンを切って、運転席から降りた。
ようやく、湯浅先生とやらが赤い車から降りてきたところで、彼と俺はほとんど同じタイミングで車のロックをかけた。
「砂橋くん!久しぶりだね!」
実験の爆発後のように髪の毛が盛り上がって、顔には丸眼鏡がかけられていた。白衣こそ着ていなかったが、彼が実験をしている人間だと今ここで初めて砂橋に言われたとしても俺は信じているだろう。
「久しぶり、湯浅先生」
「隣の彼は、友達かい?」
「はは、先生も冗談言うんだね」
俺は砂橋の笑いに顔を顰めながら、軽く湯浅先生に会釈をした。
「弾正です。今日は同行するのでよろしくお願いします」
「よろしく!探偵事務所の人かい?」
湯浅先生はにこにこと屈託のない笑みを顔に浮かべると、俺に手を差し出してきた。俺も手を差し出すと湯浅先生はしっかりと俺の手を握って、軽く上下に振った。
「いえ、探偵事務所の人間ではないです。しがない小説家をやってます」
「なるほど!君も砂橋くんに暇なら来いと呼び出された仲間というわけだ!」
その見解は合っている。
それ以上の最適解はないだろうというぐらい合っている。
「お互い頑張ろう!砂橋くんに嫌味を言われないように!」
「先生~?弾正と一緒に何か企んだりしないでよ~?」
砂橋が眉尻を下げて、肩を竦めた。湯浅先生は俺から手を離して、砂橋の方に向いて「そんなことしないよ!」とぺこぺこと砂橋に頭を軽く下げていた。
第一印象は、無害そうな男性だが、果たして俺が感じた第一印象は覆されるだろうか。
もしかしたら、湯浅先生はいい人を演じているだけかもしれない。
俺が出会った中で一番性格が悪いかもしれないのは砂橋だが、それ以外にも性格に難がある人間がたくさんいすぎる。湯浅先生もその中に入らなければいいが。
「それで?依頼人の女性はもうすぐ来るのかな?」
「うん。十時に待ち合わせだから来るはずだよ」
湯浅先生が「ちょっと飲み物を買わせて」と有料駐車場前の自動販売機に移動するのを砂橋と一緒についていく。
「湯浅先生は火事の報道は見た?」
「見たよ」
湯浅先生は微糖の缶コーヒーの下のスイッチを迷わずに押した。がこんと缶コーヒーが取り出し口に落ちる。
「2LDKの一室での火事。報道ではストーブからの引火かって言われていたけど、実際にそうなのかい?」
「さぁ?でも、依頼人はストーブでこんな時季に火災だなんておかしいって言っていたよ」
湯浅先生はかがんで取り出し口から缶コーヒーを取り出すと、かがんだまま、缶コーヒーを開けて、飲み始めた。
「んー……、まだなんとも言えないけど、ありえないことではないよ。そもそもおかしいっていうこと自体、ないと思うからね」
「おかしいということ自体がない?」
俺が思わず鸚鵡返しにすると、湯浅先生はかがんだまま俺の顔を見上げた。
「たとえば、知ってるかい?ホテルの客の中には、客であるという免罪符で自分がなんでもしていい神様気分になっちゃう人もいるんだ」
今何故ここでホテルの客の話になるのか。
全く分からないが、最後まで話を聞けば、湯浅先生が言いたいことも分かるのだろうか。
「ホテルの中には歯ブラシやタオルとか、持ち帰ってもいいものがいくつかあるだろう。でも、たまにホテルにあるものならなんでも持って帰っていいと思ってしまう輩がいる。過去には部屋に設置していたテレビを客が持ち帰ろうとした事があったらしい」
俺の周りではそんなことをする人間はいないが、世の中にはいるのだろうか。テレビを持ち帰っていいわけがないだろう。
「果たして僕にもどうしてホテルのテレビを持ち帰るのか、その人間の考えは分かったものではないけど、世の中にはその「分からない」ってことをする人は大勢いるんだよ」
湯浅先生は立ち上がって、俺と砂橋を右手と左手でそれぞれ指さした。右手には缶コーヒーを持ったままだった。
「僕と砂橋くんと弾正くん。僕ら三人ともそのことをおかしいと思うこともあるし、僕と弾正くんだけがおかしいと思うこともあるかもしれない。そして、この中では僕だけがおかしいと思うこともまたあるかもしれない」
この話は、もともと、ストーブによる引火が火災の引き金となったことをおかしいと言っていたという発言から出たものだった。
砂橋と湯浅先生は、ストーブによる引火がおかしいと俺と同じように思っているのだろうか。
もうストーブをしまっている俺にとってはストーブによる引火の事故だとは信じることがあまりできそうにない。
「だから、もし、夏にストーブをつけることがおかしいから、亡くなった彼もストーブをつけなかったに違いないと思うのは早計だと言いたいんだ」
湯浅先生の言いたいことは分かった。
彼は俺が頷くと満足したように何度も頷いて、空になった缶コーヒーを自動販売機の横にあるゴミ箱に突っ込んだ。
今は違うようだが、彼が高校の先生だというのはなんとなく分かった気がする。先ほどの生徒に言い聞かせるようなセリフは全て高校教師をやっていた時の名残だろう。
砂橋は、この先生から化学について習っていたのかもしれない。
俺が高校の時はどうだったか。
あまり、教師と必要以上に話すことはなかった気がする。授業と面談の時以外で、個人的な話をした覚えはない。
砂橋はどうだったのだろう。
高校時代、湯浅先生に個人的な話をしていたのだろうか。
「お待たせして申し訳ないです」
「大丈夫ですよ、高瀬さん。僕らも今ついたばかりですから」
高瀬は路地の向こうから走ってくると、俺達の前で立ち止まった。昨日と同じく高い赤のヒールでは短い距離だとしても走りにくかっただろう。
彼女は少しの間、胸に手を当てて呼吸を落ち着かせると、すぐににこりと笑った。
「結人の住んでいた場所はこの通りを進んですぐなんです。案内しますね。えっと、そちらの方は昨日、探偵事務所にいましたよね?」
彼女は俺の方を見た。
そういえば、彼女とは一度も言葉を交わしていない。
お互いに昨日探偵事務所にいたという認識しかない。
「弾正です。今日はよろしくお願いします」
「僕は、湯浅恭平です。よろしくお願いします」
俺の自己紹介の流れに乗るように湯浅先生は高瀬に手を差し出した。彼女は目を丸くしたが、すぐに軽く湯浅先生の手を握った。湯浅先生は軽く上下に手を振るとすぐに手を離した。
「皆さん、今日はよろしくお願いします。それじゃあ、案内しますね」
今日は、火事の原因の調査だ。
その現場に行く道中に依頼人の前で世間話をする程の余裕は持てず、俺達三人は黙って、件の家へと向かうこととなった。
2LDKの部屋が一階ごとに二部屋ある二階建ての建物がそこにはあった。
高瀬はそのアパートのホールに建ち、ホールから見て右側の扉に鍵を差し込んだ。鍵は扉の上と真ん中の高さに二つあり、彼女は持っている鍵二つを使い、扉を開けた。
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