幻術士第二部第十五章
ウムルタ商会ネッサ支部に関する報告書を読むと、クレイアさんは苛立たしげに眼鏡のずれを直した。
「これだから商人という人たちは……!」
たぶん、細かいグレーな部分に怒ってるんだと思う。
「まぁいいでしょう、今は関係の無いことです。レイジさん。私はセヤロカに戻ろうと思います」
セヤロカにある商会の事を調べてるんだもんね、そりゃセヤロカにいた方が情報が速いよな。
「では向こうのワンディリマ寺院から直接そちらに報告書が行くよう言っておきます」
クレイアさんが怪訝な顔をする。
「それではレイジさんより私の方が先に情報を得ることになりますが?」
「まだ疑ってたんですか。俺は『失われた空術』に興味はありませんよ。あれを利用して悪魔の召喚が行われては困るんです」
「困る?」
あ、マドレヴァルファスがそう言ってたから、つい同じような言い方をしてしまった。俺、あいつに毒されてきてるな。気を付けよう。
「言い方がおかしかったですね。悪魔の召喚は阻止すべきです」
「その通りです。ところでレイジさん。リラは召喚術を身に付けています。くれぐれも、監督の義務を怠りませんように」
突然名指しされてリラが身をすくませる。
「……はい」
リラが自分の意思で悪魔を召喚することは無いだろう。まずはリラが召喚を行えることがバレないように気を使って、その上で誘拐とかを警戒しておこう。
「リラは俺が守ります」
クレイアさんが眼鏡をくいっと上げる。
「ところでクレイアさん。ルソルさんやエトナさんに挨拶してから帰りませんか? 食事ぐらいしましょうよ」
「いいえ、結構です」
「セトー砂漠にはガヨマアクっていう珍しい魔物がいますよ、見ていきませんか?」
眼鏡を押さえたまま動きを止める。
「……いずれ機会もあるでしょう。今は猊下のために聖務を遂行中です。個人的な興味を優先すべきではありまん」
ありゃ、乗ってくると思ったんだけどな。いつ気が変わってリラを捕縛するとか言い出すかわかんないから仲良くしておこうと思ったんだけど。
「それじゃあ、また会いましょう。次に会う時には俺も貴族になってます。おもてなししますよ」
「相変わらず妙な人ですね。いいでしょう。バラダソールに来ることがあれば協力を要請させていただきます」
あくまで聖務のためか。まあいいや。
「それじゃあお元気で」
「レイジさんにナクアテン神の加護がありますように」
ナクアテン寺院を出た俺とリラは少しネッサの街を見て回ることにした。アマルナはネッサと比べられるような規模じゃないけど都市だ。きっとネッサで見ることができる問題はアマルナでも起こる問題だろう。ということで、貧民街を見に来た。
臭い。浮浪者の匂いだ。あちこちに座り込んでる人たちは体を拭くことすらできないんだろう。まだ若そうな五体満足な人も多い。仕事さえあればまっとうな生活ができるんじゃないかな。手前にお椀を置いてる人には銅貨を施しながら歩く。
アマルナは街の大きさに比べて人口がとても少ない。仕事さえあればこの人たちをアマルナに連れていって人口増加に繋げられたりしないだろうか。
リラに意見を聞こうと思って右を向いた瞬間、不意にドスっという衝撃を左肩に受ける。見ると鎖骨の左下辺りから金属の棒が生えていた。血が滴り落ちるのを見て、初めて激痛が走る。ナイフで刺された……!? 投げナイフだ! リラが俺の異変に気付いて血相を変える。まずい、リラが危ないかもしれない。右手で剣を抜いて構える。魔覚に集中しろ。敵はどこだ? 異変に気付いて近くにいた浮浪者たちが逃げていく。離れていく魔力と動かない魔力。すぐ手前の樽の裏、少し離れた右手の角、二ヶ所に人間のものらしき魔力がある。どっちが敵だ? それとも両方か? 手前の樽の裏には〈不可視の衣〉が届く。他の幻術は姿が見えていないので掛けるのは無理だ。いや、ダメだ、〈不可視の衣〉を使えばリラが無防備になる。まいった、最強の幻術士なんて言われても、射程外からの攻撃には対応できない。肩に刺さっているナイフは柄が無い、たぶん投げる専用のナイフだ。こんなものを使う敵はただの強盗じゃない。それに、ちょうど右を向こうとしたタイミングで肩の辺りに刺さったってことは本当は心臓を狙ったんじゃないだろうか。暗殺者だ。ナイフは深く刺さってるから強化術を使って投げてきたんだと思う。二投目が来ないのはどうしてだろう。暗殺者が投げナイフを一本しか持ってないっていうのは考えにくい。きっと一撃で倒し損ねたから隠れてるんだ。
閑散としたスラム街でじりじりとした時間が過ぎる。血が流れていく。時間が経てば出血多量で倒れるかもしれない。痛みが酷い。……そうだ、刺さったナイフの角度、この向きは右前方から飛んでこないと説明がつかない。敵は右手の角に隠れてる奴だ。一か八か近付こう、〈意識の途絶〉なら射程が短いけど相手が破術を使えても関係ない。魔力を散布して一歩踏み出す。樽の陰も角の裏もどちらも反応が無い。リラを庇える角度を意識しながら一気に樽の裏が見える所まで進み、樽の裏にいた奴に〈意識の途絶〉を掛ける。ちがう、これは浮浪者だ、ここで寝ていたらしい。注意が浮浪者に向いたせいで隙ができたんだと思う。角から人が飛び出して投げナイフが飛んでくる。俺は体の正面を庇い、右肩を前にして走り出した。二の腕にナイフが刺さった衝撃で剣を取り落とす。だけど十分近付けた! 三投目を放つ姿勢の暗殺者に〈意識の途絶〉を展開する。布で顔を覆った暗殺者がその場に倒れた。魔力での防護は無かったし、〈精神保護〉も掛かっていなかった。俺が幻術を使うと知らなかったのか……?
「私っ! 人を呼んできます!」
リラが走り出す。
「待ってリラ! ひとりじゃ危ない!」
追いかけようとしたけど痛みで走るどころじゃない。窮地を脱したと思った途端に激痛が襲ってくる。このナイフ、抜きたいけど確かこういうのって、抜くと一気に血が出るんだよね。なんとか身を屈めて剣を拾う。左手は動かせない。もちろん右腕も痛くてあまり力が入らない。剣を引きずりながら暗殺者に近付く。目を覚ました時に備えて魔力は散布したままだ。
暗殺者の顔を確認したいけど、今の腕の状態じゃ難しいな。他に人の気配は無い。こいつは単独で俺を狙ってきたみたいだ。樽の裏で寝ていた浮浪者も怪しいと言えば怪しいけど、寝たふりをしていたなら〈意識の途絶〉が効いてるはずだ。問題は誰が何のために俺を狙ったかだ。俺が幻術士だと知らずに襲ってきたのが気になる。
「こっちです! 急いでください!」
警戒しながら待っていると、リラが警備兵を連れて戻ってきた。良かった、リラが狙われてたわけじゃないみたいだ。
「大丈夫ですか!? アムテリン寺院へお運びします!」
警備兵が肩を貸してくれる。植物と医術の神アムテリンの寺院に連れていってくれるなら、きっと治癒術を施してもらえるだろう。他の警備兵は暗殺者に縄を掛ける。
「レイジさん! 大丈夫ですか!?」
リラが必死な顔をしている。下を向くとかなり血が流れてるのがわかる。これ、結構危ない状況かも。ふっと意識が途切れる。
嗅ぎ慣れない匂いで目が覚めた。小綺麗な個室。ベッドに横になっている。どこだここ?
「レイジさん、目が覚めたんですね!」
リラだ。そうか、俺、暗殺者に襲われて、運ばれる途中で気を失ったんだ。
「どのぐらい寝てたの?」
「一日です。血が足りないそうで、安静にしていてくださいって司教様はおっしゃってました」
そういえば頭がくらくらする。刺された所は痛くない。傷は治癒術で治してもらえたのか。
「ここはアムテリン寺院?」
「はい、そうです。起きたらこれを食べさせるようにって言われてます」
リラがスプーンと木のお椀を見せる。変わった香りはこれか。
「失った血を取り戻すための薬草粥です。食べられそうですか?」
お腹は空いている。うん、と答えて手を出す。よし、ちゃんと動くし痛くないぞ。
「安静にしていてください。私が食べさせてあげます」
「わ、わかった」
口を開けてリラに食べさせてもらう。うっ、不味い。不味いよ薬草粥。
「セラエナさん、さっきまでいたんですよ。着替えを取りに戻られました」
ああ、セラ姉、心配しただろうなあ。
「レイジさんを襲った犯人なんですが、今は街の詰め所の牢に入れられてるはずです」
何者だろう? 俺の事を知らずに襲ったっていう予想が正しいなら、昨日の行動にヒントがあるかもしれない。
「レイジさんに投げられたナイフ、毒が塗られてたらしいです」
「えっ」
「血が止まらなくなる毒だとかで、アムテリン寺院の治癒術士じゃなければ危なかったそうです」
本当に殺す気だったんだ。いざという時にはそれどころじゃなかったけど、今さら怖くなってくる。
「犯人は自分が襲った相手がレイジさんだって知らなかったんじゃないでしょうか」
「リラもそう思う?」
「幻術の対策をしてなかったみたいですから。レイジさんを襲うなら幻術への対策を第一に考えると思うんです。破術士ぐらいは連れてくるんじゃないかなって」
だよね。……頭がくらっとする。今、考え込んでもダメそうだ。薬草粥の最後の一口を飲み込んで、リラにありがとうと言う。
「とにかく睡眠が大切だそうです。〈
「リラ、〈微睡み〉使えたんだ」
生命術の適性があるのは知ってたけど。
「最近、魔術の勉強もしてたので。とは言っても〈微睡み〉は初等生命術ですけど」
「お願いしようかな」
「はい」
リラから流れてくる魔力が心地いい眠気を誘う。
目を覚ますと宮殿の自室にいた。セラ姉が気付いて駆け寄ってくる。
「大丈夫? 気分悪かったりしない?」
「ありがとう、ちょっとお腹が減ったかな。どのぐらい寝てたの? 寺院にいたはずだけど」
寝てる間に運ばれたってことだよね、これ。セラ姉がリラに、お粥お願いと伝える。
「昨日、寺院で一旦起きてから丸一日だよ。レイ君を襲った犯人、たぶん真鍮の鍵だから、警備の甘い寺院から宮殿に移動させることにしたの」
真鍮の鍵か……。じゃあ、黒幕はわかってないな。
「また来るのかな」
「誰が依頼したのかわからないから、可能性はなんとも言えないよ」
まぁ、宮殿内ならなんとかなるかな。キンギスの一件以来、警備体制が見直されてるはずだし、最悪、俺が気付ければ狭い室内なら幻術で身を守れる。
「暗殺者は俺が誰だか知らなかったと思うんだけど、どうかな」
「レイ君、貧民街に行くような予定、誰にも言ってなかったよね?」
「うん。ワンディリマ寺院からナクアテン寺院に行って、帰りの道すがら通ってみただけだから」
「リラから聞いたけど幻術対策されてなかったんだよね? だったら誰だかわかってて襲ったわけじゃなさそう」
ただの強盗じゃないのは確かだ。……そうだ、マドレヴァルファスなら何かわかるかも。
「セラ姉、ごめん、飲み物持ってきてもらってもいい?」
「あっ、気が利かなくてごめん、急いで持ってくるね」
セラ姉が部屋を出て行ったのを確認して呼び掛ける。
「マドレヴァルファス、見てる?」
(災難だったね)
お、返事が来た。この声を聞くのも久しぶりだな。
(〈夢の言伝て〉を試そうかと思ったんだけどね、人間の体は脆いから回復を優先させた方がいいと思って、容態が良くなるのを待っていたよ)
(色々確認したいけど、まずは犯人について何か知ってるかな?)
しばらく連絡が無かった理由も知りたい。
(私が見ていた限りでは、あの日、ワンディリマ寺院を出たところから尾行されていたね)
寺院から?
(私の推測ではウムルタ商会の差し金だろう。自分たちの事を調べようとしている者を狙ったんだと思う。あの時、報告書も持っていただろ?)
確かにそういうタイミングだった。
「レイ君、お水貰ってきたよ」
「ありがとうセラ姉」
体を起こしてカップを受け取る。少し安心した。他の貴族が俺を快く思ってなくて暗殺者を放ったわけじゃないみたいだ。
「まだふらつく?」
「うーん、ちょっとだけ、頭を動かすとくらっとするかな」
(ウムルタ商会も相手がレイジだと知って慌ててるかもしれない。真鍮の鍵も貴族が相手となれば価格を吊り上げるだろうしね)
「無理しないでね」
水を飲んでから、うんと答える。
(ところでマドレヴァルファス、しばらく連絡が無かったのはどうしてだ?)
(おや、もしかして心配してくれていたのかな?)
心配っていうか……。
(『失われた空術』が奪われた状態だからさ、召喚されてたら困る)
(ふふ、だいぶ心を開いてきてくれてるみたいで嬉しいよ。やはり、互いを理解するための対話は大切だな)
マドレヴァルファスは俺の敵ってわけじゃないと思うんだ。まだ、判断はできないけどある程度は信用していいと思う。
(それで? どうして連絡が無かったんだ?)
(……雑談の中でうっかり制約に触れてしまってね。詳しく話すのは危険そうだからやめておこう。制約に触れるとしばらく連絡できないと思っておいてくれ)
この制約がらみのことが、まだいまひとつ信用できないんだよなぁ。
(とりあえず、わかったよ。血が足りないらしいからしばらく静養しとく)
(ああ、またな)
〈遠隔念話〉が途切れた。セラ姉が心配そうに顔を覗き込んでくる。緑の瞳にじっと見つめられると、悪魔と話してたのを隠してる罪悪感が湧いてくる。
「何か隠してない?」
顔に出てたみたいだ。打ち明けるなら落ち着いてからにしたいな。
「そのうち話すよ。大事なことだから」
不思議そうな顔をするセラ姉。
ちょっと気まずい思いをしていると、リラが大麦のお粥を持ってきてくれた。二人にマドレヴァルファスから得た情報をそれとなく伝えよう。
「セラ姉、リラ。思ったんだけど、俺を狙った暗殺、ウムルタ商会に探りを入れたせいなんじゃないかな」
「ワンディリマ寺院の報告書を奪おうとしたってこと? そっか、何を探られてたかわかるし、これ以上調べるなっていう警告にもなるね」
「うん、他に狙われる理由も思い付かないし」
セラ姉は納得したみたいだった。リラも、なるほどと呟く。
「探られると困りますって白状したようなものだよ。『失われた空術』の盗難はウムルタ商会が手引きしたっていう悪魔の話、本当みたいだね」
「今のところ、確認できる範囲ではマドレヴァルファスは俺に嘘を吐いてない。案外、リラに〈反召喚〉を覚えさせて自分たちの出身世界に帰りたいっていうのは本心なのかもね」
リラが複雑な表情を浮かべた。俺が悪魔を信用しようとしてることが心配なんだろう。
「ところで、治癒術士が言うにはあと三日ぐらいは安静にしておいた方がいいみたいだけど、お姉ちゃんが代わりにエトナさんに話してこようか?」
そうか、暗殺がウムルタ商会のネッサ支部の仕業なら、ワンディリマ寺院の調査で裏が取れるかも。
「お願いしてもいい?」
「任せてよ」
俺はセラ姉に頷くと、お粥に手をつけた。牛乳で煮込んで砂糖が入れてある。美味しい。薬草粥とは雲泥の差だ。
その後セラ姉は出掛けていき、俺は満腹になって眠くなってきた。丸一日寝たっていうのにまだ眠いってことは体が弱ってるんだろうな。いいや、このまま寝よう。
夜、ルソルさんが戻ってきた物音で目が覚めた。
「起こしてしまいましたか。申し訳ありません」
「気にしないでください。それより、何かわかりましたか?」
ルソルさんは少し残念そうな顔をする。
「捕縛していた暗殺者が逃亡しました。仲間が救出に来たようです」
まぁ、真鍮の鍵の暗殺者から情報が得られないことは学習済みだ。そこまで問題は無いだろう。
「レイジさんはウムルタ商会を疑っていると聞きましたが、念には念を入れておこうと思います。他に狙われる心当たりはありませんか?」
「心当たりというより、漠然とした不安ですが、貴族の中に俺が伯爵になるのを阻止したい人がいたら嫌だなって思ってます」
「そうならないためのセトー地方です。おそらく大丈夫でしょう」
良かった、ルソルさんも黒幕が貴族だとは思ってないみたいだ。
「そうだ、結婚相手の話、どうしましょう。四人目を決めかねてたところにこんなことになっちゃって」
「花嫁側の準備にも時間がかかります。四人と言っていましたが、三人でも構いませんよ。元気になったらお見合いの続きをよろしくお願いします」
お、良かった。とはいえ、引き続き第四夫人以降を決めないといけないんだよな。
「ルソルさん。最終的に何人と結婚するのがいいと思ってますか?」
ルソルさんは少しだけ考え込むと、申し訳なさそうに口を開いた。
「これまでの会話のやり取りから、レイジさんが妻を多く娶ることに乗り気ではないことは承知しています。それを踏まえた上で……十人でどうでしょうか?」
十人……。エトナさんもそのぐらいじゃないかって言ってたな。正直、どんな生活になるのか想像もつかないけど、ルソルさんがそう願ってるならそれでもいいか。
「わかりました。俺にそんな甲斐性がある気がしませんが、バラダソール貴族としてできる限りのことをしたいと思います」
「ありがとうございます。レイジさんがいてくれるお陰で、私も甥も将来の展望が見えてきました」
そこまで頼りにされてたのか。
「私は神官であり学者でしかありません。歴史から学んだ知識でなんとか摂政の仕事をこなしていますが、貴族たちとの関わりが希薄です。お願いばかりして申し訳ありませんが、我々を助けてください」
俺は強く頷くと、任せてくださいと言った。セトー伯爵として、ルソルさんとアルド王を助ける。そしてセラ姉とリラ、シアさんとカーラさんを養うんだ。そしてもし、リラが〈反召喚〉を習得できたなら、マドレヴァルファスたちを元の世界に帰してやろう。進むべき道は定まってる。
それから三日。俺は安静にして過ごし、バラダソール貴族に必要な知識を得るため、勉強の日々を過ごした。
ボツ供養 泉井夏風 @izuikafu
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