第65話 一度くらいはわがままを……
1
『……くしゅん』
『寒いの? 春樹』
『うん』
『じゃあ、お母さんの布団に入りなさい』
『うん』
私は小さな春樹の体を抱きしめる。
『あったかい?』
『うん、あったかい』
2
二人だけで生きてきた思い出の数々が、走馬灯のように私の頭の中を駆け巡る。楽しい時も苦しい時も、私たちはずっと二人きりで生きてきた。
「春樹」
私は玄関に急ぐ。
大丈夫、あの子は私の下へ帰ってくる。
そしてそこには春樹がいた。
が、しかし――
「……え?」
全身に不快な感覚が走る。私の目に映ったのは、春樹だけではなかった。
華山初子とその娘、小春が一緒だった。
心臓にナイフを突き立てられたような心地だった。ショックと悲しみが同時に沸き上がり、私の胸の内で不愉快に混ざり合う。
春樹は、私を選んでくれるものだと思っていた。
信じていた。
血の繋がりよりも、二人きりで過ごした時間を大事にしてくれると思い込んでいた。
「お母さん、大事な話があるんだ」
春樹は私を見つめながら、言いにくそうに口を開いた。その言葉を聞いて、私は全てを悟った。
「そう」
「お母さん、僕は――」
「それがあなたの答えなのね」
「え?」
今日、春樹は華山小春との縁を切り、あの援助のお金を返すはずだった。それなのに初子と小春を伴って私の前に戻ってくるということは、この子は、華山家を選んだということではないか。
からん、と乾いた音が足元から鳴り、三人はぎょっとした反応を見せる。
「きゃっ」
小春が春樹の背後にくっつくようにして体を隠した。
「お母さん、それ」
どうやら、全身の力が抜け、後ろ手に隠し持っていた包丁が落ちてしまったようだ。ただまあ、今から使うのだから、どうでもいいか。
私は左手で包丁を拾い上げ、逆手に持つ。そして自分の喉元に切っ先を向ける。
「お、お母さん、なにやってるんだよ!」
本当はもっと前に死ぬはずだった。
両親の葬儀が終わってから、生家の焼け跡で、思い出に包まれながら死ぬつもりだった。
私の命を拾ってくれて、ありがとう。
あなたの母親でいられて、私は幸せだったわ。
「さよなら、春樹」
私は左手に力を込めた。
3
飛び散る血しぶき。
鮮烈な痛みが走る。
「ぐっ……」
血で濡れた包丁を取り上げると、僕はそれを部屋の奥に投げ捨てた。
「は、春樹?」
間一髪間に合った。
母の懐に飛び込み、その左腕を引き戻すように掴んで引っ張った。同時にもう片方の手で包丁を叩き落としたが、しかしその反動で包丁は僕の右腹部を切り裂いた。
「うぐ……」
ワイシャツが血で滲む。
「きゃあああああああ」
小春の悲鳴が背後から聞こえる。
「春樹、大丈夫?」
初子が駆け寄る。
「ああ、ああああ」
母はその場に崩れ落ち、声にもならない声を漏らしながら涙を流し始めた。
「小春。き、救急車呼んで。119番」
「う、うん」
「大丈夫だよ、かすめただけだから。それより、いきなり、なにをしてるのさ、お母さん」
母は涙で濡れた瞳で僕を見つめる。
「あ、あなたが私の下から去ったら、私は生きていけないから……」
「僕がお母さんを選ばないわけがないでしょ。ああ、そうか、この二人と一緒に来たから、華山家に行くって話をしに来たと思ったんだ……馬鹿だなぁ。僕はそんな話をしに来たんじゃないよ」
「春樹、これを」
初子がどこから調達したのか、タオルを持ってきた。傷を抑えつけるようにしてタオルを体に当てる。
「け、警察も呼んだ方がいいかな」
小春がそう呟くのを聞いて、
「だめっ!」
と僕は叫んだ。
「痛っ」
声を張ったら、傷が痛む。
「はぁ、はぁ、お母さん、こっちに来て」
僕が優しくそう言うと、母はよろよろとこちらに歩み寄る。
「お母さんに、聞いてほしいことがあるんだ」
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