第47話 たった一つの理由
1
『もう一緒には暮らせないんだ』
父の声が聞こえる。
『ほら、ばいばいしろ』
去っていく車に向かって僕は決して手を振らなかった。
もしここで『ばいばい』をしてしまえば、それが一生のお別れになってしまうと、無意識のうちに感じ取っていたのだろう。
2
どうして私の告白を断ったのか、そしてなぜフった私とそれ以降も仲良く関係を続けてくれたのか。
春樹先輩が私の兄ならば、その謎は解ける。
兄妹だから付き合うことはできない。でも、兄妹だから関係を断つこともできないのではないか。
私の問いかけを受けて、春樹先輩はその場で足を止めた。
時間そのものが止まってしまったように、私と春樹先輩はその場で動かずに、じっと沈黙に抱かれていた。
「……」
「……」
それを破ったのは、すぐそばにある踏切の甲高い警報音。
「なにを言ってるの? 僕がお兄ちゃん?」
小馬鹿にするように、春樹先輩は笑う。その背中に向けて、私は言った。
「あの写真には、茶髪の男の子が写っていました。年齢は私の一個か二個くらい上でした」
「それがなんの証拠になるっていうのさ。君より一、二歳年上で茶髪の男の子なんて、この世には何人もいるのに」
突き放すように、春樹先輩は叫ぶ。
「私は昔、あそこで暮らしていました。はっきりとは憶えてないけれど、あの場所で、色んなことを思い出したんです」
「……」
「その思い出に触れているうちに、だんだんと、思い出してきたんです。私には、今、陽太っていうお兄ちゃんが一人いますけど、その人とは違う、もう一人のお兄ちゃんがいたんだってことを」
「……」
「アイスを半分こしてくれたり、私が滑り台の階段から落ちた時、泣いてる私を慰めてくれたり……」
「……」
「そのお兄ちゃんの名前も思い出しました。お兄ちゃんの名前は『はるき』っていうんです」
「……」
声に涙が混じり、だんだんと鼻声になっていく。私は涙を拭い、声を絞り出す。
「もう一回だけ、聞きます。それで違うっていうんなら、もう諦めます。私はあなたに関わりません」
「……」
駅に停まっていた列車が動き始める。
私は深く息を吸い、その音にかき消されないように言った。
「お兄ちゃんですか?」
3
僕にとって、『家庭』とはあの藤沢市の小さなボロアパートで四人で過ごした、たった数年の日々のことだった。
両親がいて、妹がいて……
今となっては、もう記憶の底に沈みかけているあのわずかな時間。年を取るにつれて、幼い頃の記憶が色を失い、薄れていく。
父――
離婚の理由はよく分からないが、お互いが離婚してすぐにパートナーを見つけていたという点から考えて、そういうことなのだろう、と想像する。
僕は父に、小春は母にそれぞれ引き取られた。離婚後、僕と父は東京に、母と小春は熊本に移り住んだ。
母と小春とは、離婚後も時折面会をしていた。が、東京と熊本の距離なので、会う回数は二か月に一度あるかないかだった。父は母には会いたくないようで、いつも店の外で煙草をふかしながら待っていた。
その面会は次第になくなった。というより、僕が面会を拒絶し始めた。
ある時、面会を終えて別れた小春が、迎えに来た知らない少年を「お兄ちゃん」と呼ぶのを見てしまったから。
僕よりも年は少し上で、あとになって知ったことだが、陽太、という名前だそうだ。
小春にとって、お兄ちゃんはもう僕ではないのだ。それは幼い僕を打ちのめすには十分すぎる出来事だった。
小春にとって、『家庭』は華山家になってしまっていたのだ。
もう手に入らない、もう過ごすことのできないあの思い出の日々に恋焦がれながら、僕はこの先も生きていくのだろう。
そう思っていた。
小春が同じ高校に通うのだ、と久しぶりに会った実の母に聞かされるまでは。
*
駅に停まっていた列車が走り去り、警報音が鳴りやむ。広場は再び静寂を取り戻す。
「小春……」
僕が振り返ると、小春は勢いよく抱き着いてきた。涙で濡れた顔を僕の胸に押し付ける。
「うわああああああん」
気づけば、僕の目にも涙が溢れていた。
「お兄ちゃああああん」
「そうだよ、僕は、君のお兄ちゃんだ」
「うわああああん」
「今まで、辛く当たってごめん」
僕は妹の体を抱きしめる。こんなに、大きくなったんだな。
「いいんです、いいけど、わああああん」
それから僕たちは夜の駅で子供のようにわんわんと泣いた。
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