第43話 いざ行かん
1
車窓を流れていくのどかな風景。ガタンゴトンと座席からお尻に振動が伝わる。
私たちは今、電車に乗って神奈川県藤沢市に向かっている。
あの写真に写っていたアパートがまだ現存しているのなら、一目見たい。行ってなにかが分かる保証もないし、私にとっては記憶の埒外の場所だ。しかし、このままなにもせずにじっとしているのは性に合わなかった。
「でもさぁ、なんで昔住んでた場所を知られたくないのかなぁ」
別に我が家は見栄っ張りなわけではない。古アパートに住んでいたことを恥ずかしく思うような器の小さい家族でもない。
アパートについて尋ねた時の、母のあの反応……
恐ろしいものに相対したように体の動きを止めた。まるで蛇に睨まれた蛙のように。
「なにかが床の下に埋まってる、とか」
「……」
「……」
「……」
「……」
「ちょっ! なに言いだすの美月ちゃん。なにかってなに?」
「そりゃ、桜の木の下に埋まってるようなナニカよ」
「怖い怖い怖い」
「冗談に決まってるでしょ」
いやでも、もしこれが推理小説とか刑事ドラマだったら、そういう展開もあり得るかもしれない。床の下に眠る死体。それを隠蔽した家族。十数年経って、娘が過去に住んでいたアパートのことを思い出し、事件が急展開を迎える……なんてね。
「そういえば」と美月。
「なに?」
「その写真って、たしか男の子も写ってたのよね」
「うん。でも知らない子。まあ、知らないっていうか憶えてないだけだと思うけど」
「……」
「それがどうかした?」
「もしかしたら、なんだけど」
どこか神妙な面持ちになって美月は言う。
「その写真を家族の誰が隠したかは知らないけれど、その誰かがあんたに見せたくなかったのは、アパートじゃなくて、その男の子の方だったんじゃないかしら」
「なんで?」
「いや、なんでって言われると答えに詰まるんだけど……でも気になる存在じゃない?」
「まあ、たしかにね」
男の子か。
たしかにあの男の子は謎の存在だけれど。そんなことを言ったら、幼い頃に会った人間の顔なんて憶えている方が不思議ではないか。
「ってことは、写真を隠した誰かは、その男の子の正体を知ってるってことになるのかな?」
「そういうことになるわね」
「でもやっぱりさぁ、それだと『なんで?』って感想しか出てこないんだよね」
「……小っちゃい頃に喧嘩したってのは苦しいわね。変な仮説出してごめんなさいね」
「美月ちゃんはいつも思わせぶりなことばっかり言うからなぁ」
「じゃあ、この男の子は実は女の子で、実はこっちの方が小春だった。で、小春だと思っていた赤ちゃんは昔に病気で亡くなってしまった」
「もう、なにそれー。全然現実味がないって。じゃあ、実はこのアパートは呪われたいわくつきで、その写真を私に見せると大変なことになるとか?」
「そっちのがよっぽど現実味がないわよ」
それから私たちは突拍子もない仮説を遊び半分で考え、発表し合った。やがて藤沢駅に到着した。
「へい、タクシー」
「停まってるタクシーにそれ言う人初めて見たわ」
駅の乗り場でタクシーに乗り込む。
「すいません、ここに行ってほしいんですけど」
と運転手に例のアパートの住所を伝えた。
現在時刻は午後二時四十七分。この分なら、静岡には六時か七時ごろに帰りつくことができるだろう。
窓の外の街並みをぼんやり眺めていると、なんだか胸の奥がぽかぽかしてきた。
十分ほどで私たちは車を降りる。
「あっ、ここで大丈夫です」
「小春、ここでいいの?」
「うん、知ってるから」
これは錯覚でなく、確信だった。
私は、この街を知っている。
「行こ」
私の足は、自分でも驚くほどスムーズに動いた。スーパーを右に曲がり、路地に入る。空き地のあるところまで歩いたら、そこを左に。
「小春、あんたここに来たことあるの?」
「ないよ」
認識としては初めて訪れる街だし、目に入る風景も全て初めてのものだ。しかし、なぜだろう。体が憶えている。物心つく前の記憶というものが、どれだけ残るかは定かではないが、私は憶えていた。
そしてその感覚は、私があのアパートに住んでいたというなによりの証拠だった。
やがて住宅街に入る。
そして……
「着いた」
あの写真と同じアパートが目の前に現れた。
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