第44話  〈コーポ吉原〉

 1



 胸がざわめき、心臓の鼓動が速くなる。


 色褪せたぼろぼろの白い壁。鉄階段はさび付き、つたが絡まっている。二階部分の手すりに看板が取り付けられており、そこには〈コーポ吉原〉という文字が並んでいた。


 階段の下は自転車置き場となっており、赤いママチャリが一台と三輪車が停まっていた。手前には駐車場があり、軽自動車が二台停まっている。


 全体的に、あの写真よりも古く、くたびれた印象を受ける。それもそうだろう。写真の時代から十数年以上が経っているのだから。


 そしてなにより特筆すべきは、先ほどから私を支配してやまない。タクシーを降りてから、私は初めて訪れたはずの街の中を、勝手知ったる調子で歩き詰め、このアパートに辿り着いた。


 事前に下調べをしたわけでも、以前に訪れたことがあるわけでもないのに。


 直感、という言葉で片づけるにはあまりに不自然だ。やはり私は知っているのだ。この街を、このアパートを。


「ここがそうみたいね」


 美月はアパートを見上げる。


「かなりボロボロだけど、人は住んでるみたい」


 一階と二階にそれぞれ二部屋ずつあり、空き室となっているのは、二階の向かって左側の一室だけのようだ。


「みたいだね」


 足を進め、鉄階段を上ってみる。


 



『ほら、おいで』





 その時、どこからか声が聞こえたような気がした。


「美月ちゃん、なに?」


 振り向くと、美月は少し首をかしげて、


「なにも言ってないわよ?」


「え?」


 たしかに人の声が聞こえたような。


 空耳だろうか。


 階段の上を見上げると、そこにはおぼろげな人影が佇んでいる。小さな男の子が手を差し伸べて……


「誰?」


 しかしそれは幻のようにあっという間に消えてしまう。


 もしかすると、今のもまた、思い出がフラッシュバックしたのかもしれない。


 胸にじんわりと広がる懐かしい感情。


 その正体に追いつこうと、私は階段を駆け上がる。


 カン、カン、カカン。


 段を上がるたびに、乾いた音が鳴り響く。


 そして私はこの音も知っている。


 そうだ、この階段は音がよく響いて、上るたびにカンカン鳴ったんだ。それが面白くて、何度も何度も上り下りを繰り返したら、足を滑らせて転びかけたんだ。


 一番上までたどり着き、周辺を一望する。


 懐かしい、なんて懐かしい。


 少し離れたところに立つマンション、森のように繁る神社の木立に、建物に隠されて角が少しだけ見えるスーパーの看板。


 私はこの風景を見たことがある。



『小春』



 再び私を呼ぶ声。


 暖かくて優しい、子供の声。



 2



 すっかり長居をしてしまった。もう三時すぎだ。


 猫モードの光先輩は接し方が面倒でなかなか帰してもらえなかった。今日も猫ちゃんたちと遊びまくってやったが、エロ助のトランクは相変わらずうちのスカートの中に潜り込んでくる。あの癖はどうにかならないものか。


 光先輩の家から帰る途中、うちはイ〇ンに寄った。


「っしゃっせー、新鮮だよー」


 まだ夕方の買い物ラッシュではないが、客はけっこう多く、混み合っている。食品売り場をぶらぶらしながら夜食を品定めをしていると、見たことのある顔が人混みの中に。


「……パイセンだ」


 肉売り場のところに影山春樹がいたのだ。


 制服姿のところを見るに、夏期補講の帰りだろうか。それともただ単に着替えてないだけかも。


 相変わらずパッとしない地味な男だ。


 うちは向こうのことを知っているけれど、向こうはうちのことは知らないはず。声をかけることはできないな。


 というか、あんな理由ではるっちをフった影山先輩に対して、うちはかなりのヘイトを溜めている。文句は言いたいが、はるっちは失恋を忘れようと必死になっているのだから、うちが蒸し返したら元も子もない。


「あっ、お母さん、こっち」


 と影山先輩は洗剤売り場の棚の方へ声を投げる。


 影山先輩のお母さん、か。


 はるっちと同じ、小春という名前だそうだが。いったいどんな人なんだろう。


 うちはその場に立ったまま様子を窺っていると、やがて一人の女が棚の陰から出てきて影山先輩に合流した。


 あれが影山小春……ん?


「……はぁ?」


 はてなマークが頭に浮かぶ。


 脳が状況を理解できずにパニクっている。


「ほら、バラ肉が安いよ」


「本当ね」


 うちは目を疑った。


 それはついさっき下村家で目にした、むちむち姉ちゃんこと、雪美だった。



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