第37話  兄と妹

 1



「お兄ちゃん、帰ってたんだ。ほかのみんなは?」


「母さんは遊起と凛の迎えに行ってるってよ」


 聞くところによると、どうやら小学校のプールが午前中だけ解放されているらしく、二人はそこに遊びに行っているそうだ。


「ふーん」


 華山陽太、二十歳。華山家の長男で、現在は京都の大学に通っている。黒髪のツーブロックに浅黒く焼けた肌。父親譲りの掘りの深い顔立ちに、よく通るはきはきとした声。名前の通り、性格も明るく、優しい。


「そうだ、お土産があるぞ」


「え? なに?」


「ほら、パ〇コ」


 そう言って陽太はチョココーヒー味のパ〇コを冷凍庫から取り出し、私に手渡した。


「…………」


「お前、昔からこれ好きだったもんな」


「……私、高校生なんだけど!?」


 まあ食べるけど。椅子に座って袋を開ける。しゃりしゃりとした食感に、すっきりとした甘さ、昔から変わらない懐かしい味。やっぱりアイスといえばパ〇コだな。


「しっかし、いい家だな」


 ソファーに体を預け、陽太は言う。ゴールデンウィークは彼女と旅行に行っていたらしく、今回のお盆休みが今年初の帰省だった。


「富士山も綺麗だし、緑も多いし、就職はこっちにしようかなぁ」


 その時、玄関の方が騒がしくなった。母たちが帰ってきたようだ。


「ただいまー、あっ、小春帰ってたの?」


「おかえりー」


「あれ? 兄貴だ」

「お兄ちゃん!」


 遊起と凛が塩素の香りを振りまきながら陽太に突撃する。


「おお、お前ら久しぶりだな」


「兄貴、ゲームしようぜ」

「お兄ちゃん、遊ぼ遊ぼ」


 数か月ぶりに会った陽太に、まるで犬のようにまとわりつく二人。


「小春、ご飯食べた?」


「まだ」


「陽くんは?」


「俺もまだ」


「それじゃあ今から作るわね」


「じゃっ、私、先にシャワー浴びてくるよ」


 体中が汗でべとべとのままだった。浴室に入り、ぬるめのシャワーを頭から浴びる。


「ふぅ」


 体の疲労がお湯と一緒に流れていく感覚。その後、頭と体を洗った。排水溝に吸い込まれていく泡と、そこに交じる茶色い毛をぼうっと見下ろす。


 春樹先輩への想いも、この泡と一緒に流れていってくれないかなぁ。



 2



「いただきまーす」


 昼食は夏の定番手抜き、素麺。程よい塩分とつるっとした食感が食欲をそそるが、実のところほぼ毎日昼食に食べているため美味しく感じるのは最初の一口だけだったりする。


「ねぇねぇ、お兄ちゃん、いつまでいるの?」


 凛が尋ねる。


「八月いっぱいまでかなぁ。休みは九月の十日までだけど」


「いいなぁ、そんなに休めて」


 大学生は長いところでは二か月近く夏休みがあるという。なんて羨ましいんだ。


 食後、陽太は遊起と凛と一緒にリビングでゲームを始めた。


「お姉ちゃんもやろー?」


 凛が言う。


 それから夕方頃まで兄妹四人でテレビゲームをしたり、ボードゲームをしたりと、楽しい兄妹の時間を過ごした。


 夜になって父が帰ってきたので、久しぶりの家族六人揃っての夕食となる。いつもより一人多いだけなのに、何倍もにぎやかな気がした。


「親父、ちょっと太ったか?」


「え? やっぱり分かる?」


 父は少しショックそうな顔をして言った。


「春から五キロも太ったのよ」と母が横から言うと、父は気恥ずかしそうに味噌汁をすする。


「じゃあ、ビールは没収だな」


 陽太は父の缶ビールをひったくり、一気に飲み干す。


「ぷはぁ」


「あぁ、陽太、それはあんまりだ」


「ナイス陽くん」


 笑顔に包まれる食卓。


「そうだ、明美あけみちゃんとはどうなの?」


 話題が兄の彼女の話に移った。


 今は他人の色恋沙汰――それも上手くいっているもの――なんて聞きたくないので、私は席を立った。


「ご馳走様」



 3



 ベッドの上に寝転がり、ぼんやりと天井を眺める。


 こんこん、と乾いたノックの音が耳に届く。


「小春、入るぞ」


 陽太だった。手には缶ビールとサイダーのペットボトル、そしてスナック菓子の袋が。


「なに? お兄ちゃん」


 ベッドの縁に座る私にサイダーを渡すと、陽太はその場に座ってテーブルの上にお菓子を広げた。


「なんか悩んでんだろ、お前」


 言って、ビールをグイっと飲む。


「えっ!? いや、別に……」


「嘘つけ。ずっと難しい顔して、遊起や凛と遊んでる時も、飯の時も、無理して笑ってたじゃねーか」


「わ、分かるの?」


「当たりめぇだろ。俺はお前がこーんな小っちゃい頃から見てんだぞ」


 そう言って陽太は顔の横辺りの空中に手のひらを横にして置く。やっぱり兄は優しいな。私が子供の頃、辛くて悲しくなったり、寂しくなったりすると、ずっとそばに寄り添って慰めてくれた。


「なんだ、学校のことか?」


 私は無言で首を振る。

 

「勉強か?」


「ううん」


「じゃ、まさか、恋か!?」


 恋、という言葉を聞いた瞬間、顔が熱くなった。それが表情に出てしまったのか、陽太は納得したように頷いた。


「あー、小春もそんな年か。高校生だもんな。ま、女ってのは失恋して綺麗になってくもんだ」


「……勝手に失恋って決めつけないでくれる?」


「違うのか?」


「……違わないけど」


 私は観念して、これまでの経緯を説明した。これまで心の底に沈殿していた泥水をすくい上げるように、吐き出していく。


「そうか、それで先輩のお母さんとお前が一緒の名前だから、付き合えないってことか」


「うん、生理的に無理なんだって」


「なるほどなるほど」


「お兄ちゃんだったらどう?」


 聞くと、少し反応に困ったように陽太は目を移ろわせる。


「俺か? あー、まあたしかにおふくろと一緒の名前の子は、ちょっとなぁ」


「やっぱりそうなんだ」


「きついわな」


 私はサイダーを一口飲み、ポテチをつまんだ。


「なんてやつだ? 可愛い妹を泣かすやつは俺がしめてやる」


「ちょっと、やめてって」


「冗談だよ。で、なんてやつなんだ?」


「教えない。もうどうでもいいんだもん。終わったことだから……」


 陽太に話したことで、だいぶすっきりした。


 でもやっぱりまだ、春樹先輩への想いが心の奥底に残っていることに、私は寝る前に気づいた。


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