第33話  すれ違う関係

 1



「ご馳走様」


 家族五人での食事を終え、部屋に戻る。今日は午前練習の日だ。クローゼットから練習着と着替えを取り出す。


「姉ちゃん、お腹痛いの?」


 身支度をしていると、心配そうに凛が顔を覗かせた。


「そんなことないよー」


 私は笑顔を作る。


「ご飯の時、元気じゃなかったから」


「あはは……」


 凛は目ざとい子だ。


 幼いくせに、人の感情の微妙な機微を察知することができる。私や遊起が喧嘩をしたら、二人の間に割って入って仲裁をしたり、誰か家族の中で落ち込んでいる者がいたら、そっと寄り添ってくれるのだ。


 だから彼女から見て、今の私はひどく落ち込んで見えるのだろう。


「最近、ずっとそうだよ?」


「大丈夫だって」


「本当に?」


「ほんと、ほんと。元気盛り盛りだもん」


 言いながら、私はこれからのことを考える。


 これから、私は春樹先輩のいない日常を過ごさないといけないのだ。もう彼に会いに行くことはできない。名前が原因だなんて、どうすることもできないのだから。


「お姉ちゃん、しゃがんで」


「はいはい」


「いいこいいこ」


 凛の柔らかい手が私の頭を撫でる。この子は、落ち込んだりへこんでいる相手によくこれをしてくれる。


「元気出た?」


「出た出た。もう今ならなんでもできちゃう」


「なに? うんこ出たの?」


 笑いながら部屋を覗いた遊起がからかう。


「なんですってー」


 私は生意気な弟に教育チョークスリーパーを施すと、玄関へ向かった。


「それじゃ、行ってきまーす」


 いつもより少しだけ早く家を出て、わざと駅とは逆方向の道を歩く。


 夏の熱気を孕んだ生ぬるい風が、アスファルトの上を渡っていく。そこかしこから聞こえる蝉の声。夏休みを楽しむ子供たちの元気な笑い声。街が歓声に溢れている。いつもは耳障りな車の排気音ですら、なんだか快活な印象だ。


 一年の間で一番楽しい季節、夏。


 しかし、私の心はどんより曇り、今にも一雨降ってきそうな空模様だった。


 向かった先は、数か月前に春樹先輩と劇的な出会いを果たしたあの路地。


 右手に林、左手にブロック塀が連なるその細い道で、あの人に手を引っ張られた感触を思い出す。


 あの日から何度も何度も繰り返し泣いたはずなのに、気を抜くとまた目から涙がこぼれ落ちそうになる。家にいても学校にいても、友達と遊んでいても、頭の片隅には春樹先輩の顔が浮かんでは消える。


 ああ、失恋ってこういうことなんだ。


 ただ関係を断つだけじゃ終わらない、終われない。


 その人が心の中から消えるまで、ずっとこの悲しい気持ちが続いていくんだ、と考えると、最初から好きにならなければよかったとさえ思ってしまう。


 しばらくその場でぼうっとしていると、ちりんちりんと背後から音が聞こえた。自転車に乗ったおじいさんが、汗を垂らしながら横を通り過ぎていく。


 凛に撫でてもらったところがあったかい。夏の暑さとはまた違った熱を感じた。



 2



『次は富士宮、降り口は左です』


 ホームに降り、人波をかき分けて先頭に出る。あの路地で長居をしすぎて、遅刻をするところだった。危ない危ない。


「暑い……」


 北口から外に出ると、雄大な富士山の全景が望めた。


 歩きながら学校へ向かう。途中、コンビニでアイスを買い、体力を回復した。学校に到着し、部活に勤しむ。


「小春、今日はいつもより気合入ってるね」


「ありがとうございます」


 先輩に褒められた。


「でも、あんまりとばすとバテちゃうからね」


「はーい」


 春樹先輩のことを忘れようと、必死に体を動かす。


 でも、どれだけ体を苛め抜いても、春樹先輩のことを忘れることはできない。いっそのこと、嫌いになれたら楽なのに。


「はぁ」


「小春、危なーい」


「へ?」


 声のする方へ振り向いた瞬間、顔面に強い衝撃を感じた。


「ぷぎゃっ」


 顔面にボールが直撃したのだ。


「いったぁ」


 じんじんと、痛みというより熱い感覚が顔の中心に広がる。部員たちが駆け寄り、私を取り囲む。


「ご、ごめん。小春」


 同じ一年の子が頭を下げる。


「いや、大丈夫。よそ見してた私が悪いから。あはは」


「おいおい、大丈夫か」


 顧問の先生が駆け寄ってくる。


「あーあ、鼻血が出ちゃったな。上向いてろ。ちょっと抜けるぞ、歩けるか?」


「はーい」


 その後、先生に連れられて保健室へ向かった。


 白を基調とした清潔な室内。


 どこか漂う薬品の匂い。


 保健室はいつ来ても苦手だ。


「指は何本に見える?」


「一本です」


 保険の先生が人差し指をぴんと立てる。


「血は止まったし、異常はないみたいなので、戻っても大丈夫ですけど、念のために今日は安静にしててね」


「はーい」


 帰り道、トイレに寄って鏡で一応確認をする。私のプリティフェイスは無事だろうか。恐る恐る鏡を覗き込む。するとそこには、ちょっと赤くなった顔の私がいた。


「うーん」


 ふむ、鼻に脱脂綿を詰めた姿も可愛いなんて、自分で自分が恐ろしい。でも血は止まったみたいだし、もういいか。ゴミ箱に脱脂綿を捨ててトイレを出る。すると――


「――っ!」


 背筋に緊張が走る。心臓が鼓動を速め、脇の下を汗が伝う。


 一瞬、トイレの中に戻ってやり過ごそうと思ったが、それをするのはなんだか負けた気がして嫌だった。


「……」


 廊下の奥からやってくる一人の男子生徒――春樹先輩。向こうもこちらに気づいたようで、一瞬体の動きが止まったが、すぐに歩みを再開した。


 気まずい感情と、久しぶりに春樹先輩の顔を見ることができた嬉しさが入り混じる。意図的に避けていたわけではないが、プールデートの日以降、私たちは顔を合わせていなかった。


 メールも電話もしなかった。


 会いたくても会えない、求めても手に入らない、そのことがすでに分かっている相手が、目の前に……


 私はゆっくりと歩を進める。


 どうしよう、声をかけるべきかな。見知らぬ関係ならまだしも、知らない間柄じゃないんだし、一言二言、なにか会話をすべきだろう。さすがにスルーはないでしょ。


 だんだんと縮まる二人の距離。


 十メートル、九メートル。


 ここまで近づけば、表情がはっきり見えるようになる。


 春樹先輩もこちらを意識しているようで、なにか言いたげな顔をしていた。


 四メートル、三メートル。


 ほんの数秒が、恐ろしく長く感じる。


 なにを言うべきか。


 こんにちは?


 ご無沙汰してます?


 休み時間ですか?


 それとも、今さっきの顔面レシーブで鼻血を出したことを笑い話にするとか……?


 自分をフった男の子への接し方なんて、分からないよ。


 あっ、でももしかしたら、向こうの方から声をかけてくるかも。


 二人の体が線上で重なり、そしてすれ違う瞬間――



























「……」


「……」


 私たちは言葉を交わすことなく、互いに反対方向へ足を進めるばかりだった。


 耳に届くのは廊下に反響する二人分の足音だけ。


 校舎の廊下の端、外に繋がる渡り廊下のところで振り返ると、もう春樹先輩の姿はなかった。



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