第32話 幸せな日常
1
ピピピピピ、と目覚まし時計が甲高い音を立て、朝の静寂を切り裂く。
ぼんやりとした視界。夢と現の境界線に立っていた私の意識は再び夢の世界に旅立とうとする。
「うーん」
重たい瞼をなんとか開けて、私は目を覚ました。
「ふわぁ」
あくびをしながらぐっと体を伸ばす。
時刻は午前五時半。
窓の外はもう明るく、柔らかな朝の日射しが街を照らしていた。太陽の光を見ると、起き抜けの気だるい体がだんだん目覚めてくる。
「ふう、いい朝」
洗濯機を回してからシャワーを浴びる。
熱めのシャワーが心地よい。
着替えを済ませ、キッチンへ。
夏といえど、朝は少しだけ肌寒い。でも冬の凍えるような朝に比べたら、断然マシだ。
「ルルル、ラララン」
炊飯器を開けてご飯がきっちり炊けていることを確認する。鍋を火にかけ、味噌汁を作り始める。春樹は汁物がないといつもぶつぶつ文句を言うんだから。困った子だわ。
「ルララララ」
出汁のいい香りでキッチンに満たされる。
そうだ、今日は卵焼きを作ろう。春樹の好きなツナとネギの卵焼き。あの子は子供の頃からこれが大好きだったから。お弁当にも入れてあげなきゃ。
「ふんふんふーん」
卵を取り出し、ボウルのふちに打ちつける。白い殻にひびが入り、とろっとした白身が垂れてきた。そういえば、春樹が子供の頃、上手く卵を割れなくて、テーブルの上を卵の残骸でぐちゃぐちゃにしたことがあったっけ。
懐かしい。
「ルルル、ラララン」
私の可愛い春樹。
あの子のためなら、早起きも苦ではない。
私の人生の象徴。
「ルルル、ラララン」
朝食が出来上がったのは六時十五分を少し回った頃だった。そろそろ春樹を起こしに行かなくちゃ。
春樹の部屋に入ると、あの子はまだ眠っていた。布団の上で横向きになって寝息を立てている。
可愛い寝顔。
ふと思い立ち、私は春樹の横に寝転がる。右腕に頭を乗せた肘枕の姿勢になり、春樹の頭を撫でる。懐かしい。あの子が小っちゃい頃、よくこうしてお昼寝させたっけ。
春樹の頭を撫でながら、私はついつい子守唄を歌ってしまった。
2
なんだかいい匂いがする。
甘くて落ち着く匂い。
それになんだかいい気分だ……
「ふぅ……ん?」
目が覚めると、目の前に大きな胸があった。
「へ? え?」
白いTシャツはパンパンに膨れ上がり、下着の形がくっきり浮き出ている。
「おはよう、春樹」
母の声がする。
「お、おはよう。お母さん?」
「朝ごはん出来てるわよ」
顔を少し上に向けると、母の顔が見えた。母が布団の横で添い寝をしているではないか。
「わわっ、びっくりした。な、なにやってんの?」
僕は慌てて体を起こし、母から距離を取る。
「ちょっと懐かしくなっちゃって、添い寝しちゃった」
そう言って母は笑う。
「僕もう高校生なんだけど!」
「もう、照れてるの?」
「そういうんじゃないけど」
いつまでも僕のことを子供扱いして、母は過保護すぎな気がする。距離感が近すぎて心臓に悪い。
「今日はいい天気よ。富士山が綺麗に見えるわ」
長い茶髪を結い、右肩にかけている。少し疲れた顔がなんだか色っぽく見えた。
「ご飯にしましょう」
母と一緒に朝食を摂る。いつものことながら、手の込んだ食事だ。
わかめと玉ねぎの味噌汁、ツナ入り卵焼きに甘鮭の塩焼き。和風ドレッシングのかかったサラダは山盛りで、タコときゅうりの酢の物が食欲を促進させる。
デザートに出てきたのはみかんの入った牛乳寒天。
全て僕の大好物だ。
「今日はお弁当にも卵焼きを入れておいたからね」
「ありがとう」
食事を終え、身支度を済ませた。今日も夏季補講がある。今日はまるまる一日なので、しっかり勉強をしなくては。
食後のお茶を飲みながら、朝のニュース番組を眺める。
ふと携帯を確認すると、遠藤からメールが届いていた。遊びの誘いだ。それ以外には未読のメールや着信はなかった。
あれほど来ていた小春からの連絡はぱったり途絶えた。寂しいけれど、この平穏な日常を守るためには仕方のないことだ。
「じゃあ、いってきます」
「いってらっしゃい」
母に見送られ、僕は家を出た。
3
掃除機をかけながら私は考える。
「ルルル、ラララン」
もし、春樹がいなくなってしまったら。
そんなことがあるわけがないのだけれど、最近、嫌な夢を見ることが多い。
私の春樹。
もし私から春樹を、この幸せな日常を奪おうとする人間が現れたら・・・・・・
「ルルル、ラララン」
絶対に許さない。
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