第30話  しっくりこない

 1



 これでいい。


 このまま小春との縁も切れてしまえれば、万々歳だ。


 最初から無茶な話だったんだ。二兎を追う者は一兎をも得ず、ということわざがあるように、二つ同時に、なんてが張りすぎている。


 ただ、一か月弱というほんの短い間だったけれど、小春と共に過ごせて、僕は本当にうれしかった。


「ただいま」


 家に帰りつくと、母が出迎えてくれた。


「おかえりなさい。疲れたでしょう、すぐご飯にするからね」


 そう言って微笑む母。この笑顔を守るためなら、僕はどれだけ嫌われようと構わない。


「うん」


「手を洗ってきなさい」


「分かってるって」


「今日はハンバーグにしたわ」


 ずっと母のそばにいて、母を支える。それが僕にできる最大の恩返しなのだから。



 2



「同じ名前、ねぇ」


「……うん。だから無理なんだって」


「難しい話ね」


 美月は苦い顔をして唸る。


 春樹先輩に改めてフラれた翌日。私の家に美月が遊びに来てくれた。


「プールデートの成果を聞くために来たのに、すごい方向に話が転がったものね」


「名前って、そんなに気になるかなぁ」


「人によるとしか言えないわ。でもまあ、男の子なら、色恋の最中に母親が連想されちゃうのは嫌かもね」


「んー、そうなのかなぁ」


 たしかに、私もお父さんと同じ名前の人が彼氏だったら、ちょっと嫌かも。いや、嫌だっていうか、なんか変な感じ……?


 でもこれで完全に脈がないってことが分かってしまった。名前なんて変えようがないし、お母さんに貰った大事な名前を変えたいとは思わない。


 もう、春樹先輩のことは諦めるしかないのかな。


「それより、他に何か言ってなかったの?」


「他って?」


「フられた理由はそれだけ?」


「うん、それだけ」


 正直、他の理由ならまだ納得ができたというか、素直に受け入れることができたように思う。タイプじゃないとか、彼女がいるとか、他に好きな女の子がいるとか。


 まさか名前が理由でフラれるなんて、想像の範疇を越えすぎで、予想もしなかった。


「そう……」


 考え込むように、美月は顔を下に向ける。


「なに? どうかした?」


「いや、ちょっとね。ことが――」


「お姉ちゃん、お友達だよ」


 その時、凛が部屋に入ってきた。


「おっ邪魔しまーっす」


 続いて、ゆとりが現れる。


「あ、ゆとりん、いらっしゃい」


「遅かったわね」


「いやぁ、うちって富士市の方は全然来ないからさぁ、迷っちゃったし」


 ゆとりは空いているところに腰を下ろす。


「なにそんなにしんみりしてんの?」


 私と美月は顔を見合わせ、事の経緯を説明した。



 3



「いやいやいや、意味分かんないし。名前がお母さんと一緒だから付き合えないって……ギャグ?」


 話を聞き終えて、ゆとりは少し怒り気味で言った。


「春樹先輩は大まじめに言ってたよ」


「たったそんだけのことで付き合えないとか、器小さすぎっしょ」


「ちょっと、春樹先輩を悪く言っちゃダメ」


「ええ、はるっち、まさかまだパイセンのこと?」


「……」


 私は無言で頷く。


「マジか……」


「あっ、でももう春樹先輩に付きまとったりするのは止めるし、フラれた事実はちゃんと受け止めるよ」


「ずっと片思いのままでいるってこと?」


「……うん」


 今でもまだ春樹先輩を好きでいる気持ちは私の中に残っている。電気をオンオフするように、簡単に消せるものではないのだ。

 先輩が卒業すれば、もう会うこともなくなるだろう。そこまで我慢していれば、この恋心もいずれは消えてくれるはず。


 気づくと、自分の膝が濡れていた。


「あ、あれ?」


 知らぬうちに涙が溢れていた。


 拭っても拭っても、涙は止まらない。


 ああ、これが失恋か。


 なんて痛くて、苦しいのだろう。


 なにより苦しいのは、自分ではどうにもならない名前ことを理由に、恋をあきらめなくてはいけないという理不尽さだった。


「はるっち」


 ゆとりが横に座って肩を抱いてくれた。


「きっといい人が見つかるって」


「……うぅ……ぐす」


「小さなことにこだわらない人がさ」


「……ひっく」


「はるっちは学園一の美少女でしょ」


「知ってる」


「そこは即答かい」


 ゆとりの肩に頭を預け、私はわんわん泣いた。


 

 *



「……ねぇ」


 ひとしきり泣き終えたところで、美月が口を開いた。


「なに?」


「ちょっと前から気になってたことがあるんだけど」


 そう切り出した美月の目は、今まで見たことがないほど鋭いものだった。



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