第27話  水も滴るいい女

 1



 日曜日。


 今日は小春とプールに行く日だ。彼女と一緒にプールに行くことは、絶対に母に知られてはならない。僕はできる限り物音を立てないように身支度を済ませると、こっそり部屋を出た。


 母は居間で家計簿をつけている。足音を立てないように、そーっと……


「春樹、出かけるの?」


 母は僕の気配に気づいたようで、左手に持ったボールペンをテーブルの上に置いて振り返った。


「え、あ、うん。ちょっと、遠藤たちとプールに」


「そう。じゃあ、お金持っていきなさい」


 そう言って母は立ち上がり、鞄から財布を取り出すと、千円札を二枚抜いて僕に渡してきた。


「いいよ。お小遣いはまだ残ってるから」


「いいから、取っておきなさい」


 ぐいっとお札を押し付けられる。


「お昼とか向こうで食べるんでしょう?」


「あ、ありがとう」


「でも晩御飯までには帰ってくるのよ?」


「うん、分かった。行ってきます」


「いってらっしゃい」


 僕は急ぎ足で駅に向かった。


 最盛期を迎えつつある夏の日射しが、容赦なく降りかかってくる。濃い青空に薄く広がる白い雲、北に臨む富士の山は、太陽の光を受けててっぺんまで青々としている。


 絶好のプール日和だ。


 小春はもうやってきていた。ベンチにちょこんと座りながら缶ジュースを飲んでいる。


「お待たせ。待った?」


「いえ、全然」


 黒い帽子をかぶり、無地の白いTシャツに七分丈のデニム。足元はビーチサンダルを履いている。シンプルだが、小春が着るとなんでもお洒落に見える。


 暑かったのか、首元にうっすらと汗の粒が浮かんでいるのがなんとも……


 ああ、なにを考えているんだ僕は。


「それじゃあ、行きましょう」


 駅の北口からバスターミナルへ降りることができる。これから向かう市民プールは駅からだと距離があるため、バスで行くのが無難だ。


 二十分ほどバスに揺られ、目的地に到着する。


 バスから降りると、青臭い夏の香りに混じって、塩素のツンとくる匂いが周囲に立ち込めていた。


 目の前がプールなのだからそれは当然だろう。子供たちのはしゃぐ声と水のぱちゃぱちゃする音が高いフェンス越しに聞こえる。


「ここが市民プールですか」


 小春はここに初めて訪れたようで、きょろきょろと周囲を見回している。


「ほうほう、なかなか趣きがありますねぇ」


「どうってことない、ただのプールだってば」


 チケットを買い、更衣室へ向かう。


「じゃあ春樹先輩、また後ほど」


「うん」


 入ってすぐ右手に更衣室があり、男女で別れている。小春はピンク色のマットが敷かれた女子更衣室へ入っていった。僕も男子更衣室へ向かい、着替えを済ませる。


 更衣室前の壁にもたれて数分待っていると、小春がやってきた。


「お待たせしました、春樹先輩」


 現れた小春の水着姿に僕は息をのんだ。


 白地のビキニで、左の胸のところに赤いハートが描かれている。下はなんとタイサイドで、腰の横辺りで蝶結びになった紐が垂れているではないか。


「どうですか?」


 ひいき目抜きにしてもスタイルがよく、白い肌にはシミ一つない。はち切れそうな胸、きゅっと引き締まった腰回り、そしてかなりお尻が大きい。というか、大きすぎないか?


 あんなボリューミーな爆弾を細い紐で留めていられるのだろうか。


 目のやり場に困るというのは今のような状態なのだろう。僕は小春に欲情するわけにはいかない。できる限り首から上に視線を固定しながら、僕は小春と向き合う。


「か、可愛いよ」


 そう言うのが精いっぱいだった。


「えへへ、嬉しいです」


 小春は右手で前髪をいじりながらはにかむ。


 なんだか変な沈黙が二人の間に流れ始める。それを断ち切ろうと、僕は足を踏み出した。


「じゃ、行こっか」


「はい」


 正面にある消毒槽とシャワーで体を清め、僕たちはプールへ向かった。



 *



 えへへ、春樹先輩に可愛いって言われちゃった。


 ていうか、春樹先輩の半裸姿もたまらない。シュッとした華奢な体に透き通るような白い肌、浮き出た鎖骨がなんとも……


 思わず舌なめずりしそうになっちゃった。


 美月とゆとりと一緒に選んだこの水着。


 私の可愛さとナイスバディを存分に味わってもらうんだから。


 プールって合法的に半裸になりつつ、自然に接触もできるなんて、素晴らしい場所すぎる。


 覚悟しておいてくださいね、今日こそは落としてやるんだから。



 2

 


 見渡す限りの人、人、人。建物側の空きスペースはレジャーシートが所狭しと並び、家族連れで占拠されている。


 懐かしい。昔はよく母と一緒に遊びに来たっけ。


 この市民プールは特別広いわけでもなければ、プールの種類が豊富というわけでもない。売店で売ってるラーメンは麺がくたくただし、流れるプールは常に人でいっぱいだ。


 でも僕にとっては母との思い出が詰まった大事な場所なのだ。


「うわー、混んでますねぇ」


 太陽の下で見る小春の水着姿は、いっそう刺激的に見えた。


 僕らはまず北側にあるプールへ向かう。しっかり準備運動をして入る。


「気持ちいいですねぇ」


「そうだねぇ」


 水温はぬるすぎず、冷たすぎず、ちょうどいい。深さは大人の腰の辺りまだ。


 小春は水面を手でちゃぷちゃぷしながら僕を呼ぶ。


「春樹先輩、えい」


 小春に近づいていくと、彼女は手を水中に沈め、勢いをつけてすくい上げた。水が斜め下から迫り、僕の顔面に直撃する。


「わぷっ」


「あはははは」


「やったな」


 僕も負けじと水をかける。


「きゃあ」


「待て!」


 逃げていく小春。人を避けながら小春の背中を追いかけ、水をかけあう。


 このプールの北側には壁の上部が屋根のように張り出し、そこから水がカーテンのように薄く流れ落ちる滝のような場所がある。小春はそこに逃げ込んだ。


 水のカーテンを通り抜け、滝の裏側へ。


「行き止まり、ですね」


 ほかに人はおらず、僕と小春の二人きりだ。


 振り返った小春はいつもと雰囲気が違って見えた。髪が濡れ、おでこが露わになっている。呼吸のたびに大きな胸が上下に動き、綺麗な肌の上で水滴が煌めいていた。


 じっと僕を見つめる瞳はまるで宝石のように美しい。


 改めて、彼女が美少女であることを認識する。水に濡れた女の子はどうしてこうも美しいのか。


「春樹先輩」


 小春は僕に一歩詰め寄る。


 あれ?


 な、なんかまた変な空気になってないか?


 流れ落ちる水は外の世界の景色を不透明にし、中から外の様子を窺うことはできない。逆もまた然りで、二人きりという状況がいっそう強調される気がした。


 だ、誰か入ってきてくれ。


 この急造のエモいムードをぶち壊してくれ。


 僕に迫る小春。その蠱惑的な瞳から逃れようと視線を下げると、今度は彼女の大きな双丘が目に入る。


 張りのある胸が水で濡れ、谷間に水溜まりができているではないか。


 目に毒だ。


 そして小春が僕に抱き着こうとした瞬間、





『――まもなく、休憩時間です。皆様、プールから、上がってください』





 遊泳時間の終了を伝える放送が流れた。


「あら、もうですか」


「来てすぐだったね、タイミングが悪かった」


 再び入れるようになるのは十分後だが、僕にとってはベストタイミングだった。


 た、助かった。


「ほら、行こう」


「はーい」


 滝を出て、僕たちはプールサイドに上がった。



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