第12話  二人だけの家族

 1



「本当にいいの? 春樹」


 母は右手に持ったティーカップに目を落とし、辛そうな声で言った。


「うん、もうずっと前から決めてたことだから」


 僕は声を落としてそう告げる。


「でも――」


「大丈夫。僕はそれでいいんだ」


「春樹……」


「ちゃんと考えて、その上でそうするって決めたんだから」


「でもお金とか――」


「本当に大丈夫だから、心配しないで」


 母は眉根を寄せ、気まずそうにカップを口に運ぶ。


 これでいいんだ。


 何度も悩んだ。悩んだ末に決断したことだ。ただ、後悔はないといえば噓になる。きっと、僕はこれから先の人生で何度も後悔することだろう。


 でも、もう決めたことなんだから。



 2



 明日は三者面談の日。


 僕たち三年生は夏休みを前に親と教師を交え、進路についての最終確認をするのだ。といっても、僕の希望進路はすでに決まっているから、大した重要性はないイベントである。


 就職だ。


 大学に行けるだけのお金はうちにはないし、僕は奨学金を貰えるほど優秀な生徒でもない。成績はまさに中の中。何より、早く家にお金を入れて母の助けになりたいのだ。


 母は女手一つで僕を育ててくれた。


 父は僕が幼稚園の年長の時に失踪した。いい儲け話があるんだ、と鼻息荒く家を出たきり、二度と戻ってこなかったそうだ。


 父が蒸発し、幼児だった僕と共に残された母。母はとても悩み、苦労したはずだ。父の両親はすでに他界しており、ほかに頼れる人間もいない。


 僕を育てるために自分の時間を犠牲にし、新しい恋愛もせずに、僕の母親でいてくれた。


 裕福ではないけれど、不自由のない生活をさせてもらった。母のおかげで、僕は今日まで生きることができた。だから、僕はそのをしなくてはいけない。


「春樹」


 居間で暖かいお茶を飲んでいると、母がやって来た。お盆に紅茶とお茶請けのお菓子を乗せている。


 少し疲れ顔の母は運んできた紅茶に口をつけると、真剣なまなざしを僕に向けて再び僕の名を呼ぶ。


「春樹」


「なに? 母さん」


「進路、どうするつもり?」


「前にも言ったろ。就職するよ」


「春樹」


 母は優しい目でこちらを見る。


「受験勉強なんてまっぴらごめんだしね。さっさと就職を決めて、三月まで遊びまくるんだ」


「聞きなさい、春樹、やっぱり大学はちゃんと行った方がいいわ」


「いやいいって、第一うちは貧乏だしそんなお金――」


 その時、僕の言葉を遮るように母は通帳を差し出してきた。


「お金の心配ならしなくていいわ。お母さん、いっぱい貯金してきたから」


 母は通帳を開く。たくさんならんだ0の数字に、僕はぎょっとする。


「えっ?」


 こんなお金、いつの間に……


「学費のことなら何の心配もいらないから、春樹は春樹のやりたいことをやってほしいの」


「でも、やりたいことなんて決まってないし」


「今すぐ決めなくたっていいのよ。将来のことは大学に通っていろんな経験をして、いろんなことを学んでから決めればいいの。それまで、お母さんがちゃんと守ってあげるから」


「母さん……」


「お母さんはね、春樹が幸せになってくれることが一番嬉しいの。だって、二人だけの家族なんだから」


 二人だけの家族。


 その言葉を聞いた時、僕の胸に鋭い痛みが走った。


 そうだ、母の家族は僕だけなんだ。


 母の両親もまた他界しており、母方の親類や兄弟もいない。クリスマスや正月、プールに夏祭り、様々なイベントを母と共に二人だけで過ごしてきた。


 楽しい時も苦しい時も、あれから僕たちはずっと二人だけで……


 ふと視界が霞む。


「あれ?」


 涙が溢れて止まらない。


「春樹……」


 母が僕を抱きしめる。


 幸せだった思い出たちが、僕の中で混じり合う。


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る