Composition 🎶♩匠の場合♩♬

 重くなった買い物袋を床に置いて、匠は鍵をかけた。玄関のチェーンは、手袋越しでも冷たい。確か大寒波が来るとの予報だったか。

 革ジャケットを脱いで壁に引っ掛け、キッチンに直行する。家に誰もいないのはいつものことだが、冷え込んで空気が澄んでいるせいか、さらに静かに感じられる。買ってきたものを紙袋から出すガサガサという音が、硬質なキッチンの壁にぶつかって妙に響いた。

 食材をステンレス台の上に並べていると、外からピアノの音が入ってきた。バッハのインヴェンション。そしてほんの数小節ですぐに止まる。


 ——始まるな。


 匠がそう思った直後、単純な音階が鳴り始めた。


 ——こっちも、取り掛かるか。


 生クリームのパックから中身を小鍋に空け、弱火にかける。続けて適当に置いた品々の中から板チョコレートを取り上げた。カカオ七十パーセントのビター・チョコレート。銀紙を剥がしてまな板に置き、包丁を取り出した。硬いチョコレートに当てて力を加えると、カツ、という音とともに腕が抵抗を感じ、薄い切片がまな板に倒れる。

 響子の音階はまだ続いている。その単調な音の流れに合わせて、匠も包丁をまな板に降ろす動きを繰り返す。音階の粒が揃うにつれて、チョコレートも匠の手先でどんどん細かくなっていく。板チョコレートの端まで刻み終えて琺瑯ほうろうのボールに入れる。


 すると、音階が和音の反復に変わった。


 匠は小鍋の生クリームをチョコレートの上に注ぎ、ホイッパーを手にした。狭い音域内で動く三度の和音。旋回する音の移動に合わせて、匠もホイッパーをボールの中で回す。金属同士がぶつかるリズミカルな音が、和音の響きと調和する。

 カカオの濃厚な香りが空間に満ちていく。ざらついたチョコレートの表面が見る間に滑らかになり、そこに入った生クリームの白とマーブル状の渦を描く。オレンジリキュールを入れてさらに混ぜれば次第に白い色は消え、もとより少し薄くなったカカオ色が艶やかな光沢を見せてくる。

 和音が途切れたところで匠はホイッパーを止め、持ち手をボールの端に打ち付けた。ぽてりと落ちたクリームは、手で扱うにはまだ柔らかい。ステンレスパッドにクリームを流すと冷蔵庫を開け、庫内を塞いでいた天板を取り出す。入れ替わりにパッドをしまうと、庫内温度を一段下げた。


 プリン型にバターを塗ったり、材料を計ったり、無心に作業を続けていたら、ピアノはいつしかチェルニーを終え、クラーマー・ビューローに変わっていた。


 ——前に聞いた時より速くなってる。


 そう思うと、匠がふるいを揺らす速度も加速した。小麦粉とココアの粒子が、溶かしバターと卵に降りかかる。木べらに持ち替え切るように混ぜれば、徐々にもったりとした重みが手首に加わった。


 生地を型に流し入れたところで、再びバッハが始まった。

 一度手を止めて、耳を澄ます。落ち着いた声部の進行。初めの主題提示が終わるまで聞いて、先のクリームを冷蔵庫から出す。

 チョコレートのガナッシュは冷え固まってちょうどいい硬さになっていた。指で押すと跡が付くが、離した指にクリームがベタつき過ぎることもない。十六分音符に耳を傾けながら、スケッパーで一口大に切っていく。


 匠は極度の末端冷え性だ。手指の先は常に冷たく、特に冬場は、素手で人に触ると文字通り引かれる。もしかすると、響子よりもずっと重度かもしれない。

 しかし、冷えを治したいとも思わなかった。特にショコラティエになってからは。


 調理用の手袋を嵌め、正方形に切られたガナッシュをつまみ、手早く丸める。一般的にガナッシュ・クリームを扱う時には氷水を用意するが、匠には必要ない。ホイッパーを動かして多少温まってしまった手の温度は、洗い物に続けて冷やしたパッドを持ったおかげで、再び十分に下がっていた。手の上で転がるガナッシュは、硬さを保ちながらつるりとした球に変わっていく。ころんと丸い珠が弾むようなモーツァルトの音がちょうど良い。甘い香りが漂うクリームを手のひらの上で球にしたら、プリン型の中に一つ一つ、生地の中央へ埋めていく。


 型を並べた天板をオーブンの庫内へセットし、吹き荒れるベートーヴェンに急かされて作業台を片付ける。水道の蛇口をキュッと締めると、同じタイミングで音が止んだ。


 ——来るな。


 不意にくすりと笑みがこぼれる。低い、重みのある二度進行が力強く響いた。《道化役者》、匠の好きな曲だ。気分が高まっていくのを感じながら、先ほど冷蔵庫から出した天板を作業台に置いた。出かける前にテンパリングしておいたホワイトチョコレート。ストロベリーチョコレートと混ざり合い、ほのかなピンク色と柔らかな白のマーブル模様になっている。


 響子の音が飛び跳ね始め、匠もパレットでチョコを削り始めた。台の上に手を滑らせて、表面で剥がれたチョコを細く丸めて筒にする。


 チョコレート菓子を作る時、よくある失敗の一因は温度調節だ。触ったチョコレートが手指の体温で溶け、上手く扱えずに崩れてしまう。ガナッシュの場合はクリームを丸める時に手に残り、纏まらないで悲惨なことになる。チョコレート細工の場合は形を整える際に溶け始め、思い通りの姿になる前にだれるなど、繊細なデコレーションを作るには手の熱が最大の敵だった。そのため、多くのショコラティエは常に氷水で調節しながら作業する必要があったが、匠はその苦労と無縁だった。


 道化役者が鍵盤の上で踊り始めた。匠は少し大きく削り取ったチョコの板を指でしならせ、さっきの筒に巻きつける。少しずつチョコの大きさを変えながら、同じ作業を繰り返す。

 高音域の和音が初めて煌びやかに鳴らされれるのと同時に、パットの上に薄く色づいた薔薇の花が出来上がる。仕上がりを確認してもう一つ。少しずつ、ごくわずかだけ、花びらの向きや大きさを変えながら、頭ではなく感覚で手を動かす。


 冷えた匠の手指はチョコレートを溶かさない。過度の熱を与えずにチョコを変形し、細かな細工を作ることができる。思いのままに形を変えるチョコレートが、花びらのように美しい姿に変わっていくのはいつ何度見ても楽しかった。


 曲が終わる頃には、作業台の上に薔薇の花が満開に咲き誇っていた。今度はオーブンが匠を呼ぶ。ケーキクーラーに型を並べ、そのうちの一つだけ取り上げる。普通なら完全に冷めるまで待つが、今日はその時間はなさそうだ。

 まだ柔らかな生地が壊れぬよう、型の淵にそっとピックを入れて、真っ白な皿の上に取り出した。


 パットに残ったチョコレートにナイフを入れ、細く帯状に切り取る。「組立てコンポジション」。匠の最も好きな作業だ。


 ——今日は一段と、楽しそうだな。


 窓から入ってくる音楽は、スティリー風タランテッラ。弾いていると踊っている気分になる、といつかの響子の言葉を思い出す。音に素直な響子らしいが、音を聞いていれば確かにそうだと頷いてしまう。滑らかなレガートに聴き入りながら、匠はチョコの帯を曲線にしならせ、くるりと回してリングを作る。光沢を帯びた濃茶の帯が匠の指に押さえられ、新体操のリボンのように立体的な輪を描いた。

 デコレーションを進める匠の手も、ピアノの調べも止まらない。キッチンに届く音の連なりは、跳ねたり歌ったり、ころころと表情を変えていく。時に甘美に、時に謎めいて。曲に耳を傾けていたら、自然と匠の手が淀みなく動き、いつしか皿の上のチョコレートケーキが華やかに飾られていた。

 粉糖で白化粧した上にミントの葉をあしらい、アラザンを散らす。オレンジソースでケーキの周りに弧を描いて、そこにもミントを。そして葉の上に薔薇の花を三つ。

 最後にホワイトチョコのリボンをケーキの上に固定させると、最後の主題が聴こえてきた。


 ちょうどぴったり、間に合った。


 心地よい充足感に満たされ、皿にドーム型のガラスの蓋をする。

 エプロンを取ってマフラーを巻くと、匠は皿を手に玄関へ向かった。


 Senza replica, segue...♩♪♬

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