Esercizi 🎶♬響子の場合♪🎶

    ♩ ♩ ♩


 人気のない家の中、パタリと扉を閉める音が暗い玄関に響く。靴を脱いで上がると、昼間に陽が当たらなかったせいか、フローリングの床が足先から身体の体温を奪っていく。響子は、脱ぎ捨ててあったファー付きのスリッパに足を突っ込み、廊下を家の奥へと急いだ。

 部屋に入って電気をつけ、コートとマフラーをハンガーにかけて手袋を外す。素手になった指先が冷気に反応し、皮膚に痛覚が走る。外の空気が家の中にも侵食してきたようだ。身体の芯まで侵食される前に、急いでエアコンをオンにする。


「さて」


 部屋の中央、照明の白い光の真下で黒光するグランド・ピアノ。毎日見ているものだが、しんとした室内に佇む様子はなんとも厳かで、泰然と響子が近づくのを待っているようだ。演奏会近くなると常に感じるこの威厳。対峙する心持ちで近づくと、響子は音を立てずに鍵盤の蓋を開け、フェルトの覆いを取って椅子に座った。膝に手を置き、姿勢を正す。

 身体からだの中心にひとすじの芯が通った。白い鍵盤に指をそっと置く。一日中、室内で冷やされた鍵盤は、触れた途端に指の神経を凍らせていこうとする。


 冬の、いつもの感覚。


 息を細く、ゆっくり吸って、響子は腕の筋肉に力を込める。そして右手の親指から順に、鍵盤を押し始めた。


 ヨハン・セバスチャン・バッハ、《インヴェンション》第一番ハ長調。


 演奏会本番まであと少し。舞台の上で、一番初めに弾く作品。全ての声部が補い合って、十六分音符のリズムが途切れなく、規則的に続いていく……はずの曲。


「っ……やっぱ駄目かぁ」


 二声部目の主題提示から展開していくべき旋律に軋みが出た。冷え固まった親指と薬指は本来の自由を奪われ、鍵を叩く役目を交代する瞬間に、本来あるべきリズムを壊す。

 鍵盤から離した指を曲げ伸ばししてみると、どうも関節の動きに抵抗を感じる。折り曲げた指が空中で目に見えない何かに引っかかっている。


 バッハは怖い。誤魔化しが効かない。ただでさえ全ての声部を意のままに弾き分けるのが難しい曲だというのに、温度と共にしなやかさまで失った手指ではなおさら、各声部が一本の線を成さなくなってしまう。


「それじゃ、いつものいきますか」


 よっ、と小さな掛け声とともに響子は椅子に座りなおし、再び両手を鍵盤上に揃えた。


 ユニゾンのドの音をスタートに、両手の指が順番に鍵盤を押さえていく。ハノンの音階の練習曲。両手を平行に、白い鍵盤を余さず抑えて、左から右へ、右から左へ滑らせる。続けて今度は黒鍵を混ぜて、同じ強さに均等に。


「さてさて」


 オクターブの音の粒が揃ってきたところで、響子は両手を鍵盤の中央へ戻し、今度は左手の小指と中指、右手の親指と中指を同時に下ろした。


 カール・チェルニー《毎日の練習曲》。三度和音の上下運動を狭い音域で執拗に繰り返す。楽譜上に書かれているのはほんの数小節。たったそれだけの音楽なのに、はじめはコンマのずれを含んだ和音が反復のうちに調和度を増していく。


 響子が一年間に出演する演奏会の中で、一番大きな出番はいつも冬だ。極度の末端冷え性である響子がピアノを弾くには最も不利な季節。北風が身体を縮こまらせる外から室内に入ってしばらくは、手が響子の意のままにならない。響子のものではなくなってしまう。

 それでも、自分の思う音楽を作り出すにはどうしたらいいのか。毎年毎年のことにどう対処しようか、そう試行錯誤して身につけたのが、この練習曲のルーティン、指の準備体操だった。どれだけ弾けば指が動き出すのか。どの曲を弾けば、手が響子のものに戻ってくれるのか、身体全体で覚える。その年その年で、響子の腕も外の気温も変わる。だから演奏会の会場での本番前にどれほどの時間が必要かを見積もるためにも、毎年演奏会よりずっと前からこのルーティンでチェックし、調整する。


 三度和音がいきつ戻りつするうちに、同時に鳴る音が全て同じ強さに揃い始める。それを耳が捉えると、響子は左手を鍵盤の端へ動かした。右手の和音を合図に、左手の指が低音から走り出す。カール・チェルニー《左手のための練習曲》。右利きの響子の左手は、どうしても利き手と比べて御しにくい。指に言うことを聞かせるには、準備運動も右手より多く必要だった。


 指の返しに違和感が減ってきたのを確認し、譜面台の上に楽譜を開く。動き出した両手は、典型的な音型を左右様々な組み合わせで紡いでいく。クラーマー・ビューロー《練習曲》作品六十、第四十三番。タイトルに引きずられてはいけない「練習曲」。単に機械的な動きに注力するのでは足りない。もっと音楽として、その一曲が持つ独自の曲調を出すように。


「こんなもんかな」


 改めて両手をむすんでひらいて、鍵盤の上に気紛れに遊ばせる。さっきまでは五本の指の上にテープが貼りついているようだったのに、いまは柔らかに空気を包み、響子の思う通りに放てた。


 もう一度はじめと同じように、ゆっくりと息を吸って、止める。


 右手の親指を再びドの音へ。

 バッハのインヴェンション。今度はすんなりと指が動く。チェンバロで弾いていると思って、手首を使って音を切る。バッハがこの曲を弾こうと思っていただろうチェンバロは、ピアノのように長く残響が続かない。モダン・ピアノなら意識的に短めになるように。音が濁って混ざらぬよう、全ての声部がそれぞれ、対等に主題を主張するように。


 続けてモーツァルト、ピアノ・ソナタ第十一番、ハ長調。右手の装飾音を転がして、優しく軽く鍵を弾く。指の先を使って音は丸く、玉粒が煌めくようなモーツァルトに。

 彼の時代のピアノはコンサート・グランドよりもチェンバロに近い。でもモーツァルトがバッハになってはいけない。ペダルを使うのは避けながら、モーツァルトが使ったウィーン式のフォルテ・ピアノの音が出るように。真珠のようだと形容された当時の音を、曲の最後まで想像する。

 

 そして、次の曲。


 ——転ばずに行けるかな。


 ベートーヴェン、ピアノ・ソナタニ短調、通称「テンペスト・ソナタ」。嵐の到来を思わせる第一楽章、雨は降らずとも黒雲を遠くに見るような緩徐楽章を過ぎたあとで、休むことなき第三楽章。単調なアルペジオの連続ばかりでありながら、練習曲ではない。冗長にならないよう、強弱と、アクセント。指を押し出すのに手首のスナップを連動させながら、最高音を際立たせる。だからといってきつくはせずに、旋律線をあくまで歌う。


 鍵盤に当たる指先にはもう、刺すような感覚はない。指の腹で押さえるレガートに、飛び跳ねるスタッカートに、心地よい抵抗を感じる。


 バッハ、モーツァルト、ベートーヴェンが味方になれば、もう止まることはない。響子は分散和音を一気に低音まで弾ききると、一呼吸おいて五指の関節を丸め、宙に待機させた。


 ラフマニノフ《道化役者》。


 手を緊張から一度に解放させる。指を滑らせ、つまむように鋭く鍵盤から離していく。またたきのような前打音が和音を飾って上がっていけば、翻って低音に落ちて同じところをおどけて揺れる。

 遊んで、弾んで、からかって、上へ下へと気紛れに。左手、右手、両手一緒に、あっちこっちを飛び回る。

 モーツァルトあたりの十八世紀頃の曲とは違って、どこへいくのか予測はできない。あっと驚く技を繰り出す道化役者の芸みたいに。


 身体ごと鍵盤に近づいて、時に離して、また近づく。踊るように弾ききると、響きが残ってピアノが振れた。

 空気の振動を感じながら最後の音の余韻が消えきるのを待つと、響子は左ペダルを踏みこんだ。鍵盤がずれて、ハンマーが叩く弦の数が減る。


 演奏会の最後の曲。ドビュッシー《ダンス スティリー風タランテッラ》。響子の大好きなロンド。


 最初の主題はピアニッシモ。耳を澄まして聞かせるつもりで。鈴のようなアルペジオが跳ねる指先から零れ落ちる。レガートはハーフ・ペダルで音を濁さず、内声の歌声をしっかり聞かせる。リズムのずれに不意のアクセント、クレッシェンドに突然のピアノ。何が出てくるのか分からない。プレゼントを開けるどきどき感。

 冒頭主題の繰り返しでボリュームを上げ、エネルギッシュに駆け抜けたら、今度は低音から密やかに同じ音のひたすらな連打。左手の練習が効いて快感なほどによく動く。静かに爪弾かれる音に乗せて、右手の和音をちりんっと鳴らす。


 回帰するごとに表情を変える軽快な主題と、個性豊かなエピソード。ほんの六、七分程度の長さなのに、いくつもの曲が詰め込まれているみたいだ。次々に情景を変える楽譜上の音楽に、指先、腕、背中を連携させる。

 レガートに変われば身体が自然についていく。ゴンドラに乗るような揺れる伴奏は、響子の身体も一緒に乗せてくれる。

 一番好きなのは最後のエピソード。手を交差させ、低音から高音まで両手が滑らかに分散和音を紡いでいく。少しメランコリックで、なのに甘くて。全身で波を感じるように、たゆたうように身を任せる。指もいまや自由に泳ぐ。響子の頭が歌う旋律を、指がそのまま音にする。


 じりじりと高まる興奮が突如、総休止ゲネラルパウゼでせき止められると、一呼吸ののちに最後の主題。抑えに抑えたピアニッシモから徐々にエネルギーを解放しつつ、ラヴェルの管弦楽編曲を思い描く。ピアノをフル・オーケストラに変身させて、急速な拍子変化とオクターヴ・ユニゾン。手指の間に汗を感じながらも、勢いのままに疾走————


 両手が鍵盤の端と中央にジャンプし、最後の和音が部屋中を震わせた。


 息が上がり、気持ちの良い疲労感に四肢の末端まで支配される。身体全体が熱を帯び、壁で跳ね返った残響に包まれて、響子自身が曲の一部になったみたいだ。


 


 ピーンポーン……



「たくちゃんだ」


 インターホンが、響子を音の膜から解放する。自由になった身体で、ピアノと椅子の間から飛び出した。


 手をついた鍵盤が冷たくて、いまは指に心地よい。


 Da capo del Segno ♩♪continuo♩♪

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