それでもこの冷えた手が〜ピアニストとショコラティエ〜

佐倉奈津(蜜柑桜)

Introduzione 末端冷え性の二人

 ホームから階段を上がって駅の改札を出ると、もう日暮れに近いはずなのに空には淡い茜色すら見えない。頭上ははどんよりと鈍色の雲に覆われ、いまにも雪が降ってきそうだった。

 スマートフォンをトートバックに滑り入れ、入れ替わりに手袋を出して嵌める。吐いた息を白くする十一月の空気は革手袋を一気に冷やし、どこからどう入ってくるのか知らないが、内布の中まで侵入してくる。束の間ののちにはもう、突くような痛みで指先が圧迫されてきた。


「さむ。」


 響子は手袋を嵌めたまま、コートのポケットに両手を突っ込んだ。


「ほんとにな。去年も相当だったけど、今年の冷えはヤバい」


 響子に続いて改札を通り抜けた匠も、パスケースをしまった手で革ジャケットのポケットから手袋を取り出した。


「たくちゃん、寒いのなんともないくせに」

「ん? 温泉は好きだよ」


 改札を出て目の前にある横断歩道の信号が赤から緑に変わった。スマートフォンを叩いたり話をしたりしていた人々が揃って顔を上げ、群れとなってバスのロータリーを横切り始める。その動きと連動して、二人の足も小走りになった。


「別になんともなくはないけど、まぁ末端冷え性だからって響子みたいな辛さはないかな」


 道路を渡り終えて互いの歩調が整うと、匠が再び口を開いた。


「それほんと羨ましい。末端冷え性、たくちゃんにとっては強みだもんね」

「まぁね。響子、カイロ全然、効かないんだっけ」

「背中とかはともかく、どうも指先だけは駄目みたい。もうすでに痛くなってきた」


 手袋に包まれた爪の周りに焼けるような感覚を感じる。ポケットに入ったカイロの熱は、素手だろうが手袋の上からだろうが、響子の皮膚の裏まではたどり着けないらしい。

 バスロータリーの雑踏を抜けてしばらく大通りを行き、コンビニの角を曲がると住宅街になる。車の行き交う音や人の話し声は二人の背後で遠く離れていき、さっきまで聞こえなかった足音が耳に響く。近くの公園から《ふるさと》の旋律が流れ始めると、家々の塀に沿って並んだ街灯が明滅し、白熱灯の明かりが点いた。

 もう一つ、角を右に曲がって三軒目の家の前で、響子は家の鍵を取り出す。冷たい鈴の音がチリンと空気を震わせた。


「でも、この寒さも毎年のことだもん。もうだいぶ慣れたもんです。ちょっと長めに動かしたら指も言うこときかせられるようになってきたよ」

「本番、たしか来週だっけ」

「うん、金曜日の夜」

「じゃあ、景気付けにあとで実験台やってもらうかな。買い物も付き合ってもらったし」

「ほんとう?!」


 響子はぱっと瞳を輝かせ、「待ってるね」と言って扉を開けた。その姿が中に消えるのを見届けると、匠も向かいの家の門に手をかけた。


 ♩♪♬attacca subito♩♪♬

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