第9話 朝寝坊
当直の日の朝はいつも憂鬱な気分だけど、今日はなんだか気持ちがスッキリしている。ここ何回か池谷に話を聞いてもらっているからかな。
これまで人に相談なんてしようと思った事もなかったが、こうして話をしただけでこんなに気持ちが楽になるなんて、初めての経験だ。梅雨の雨音さえ弾んで聴こえてくる。僕はこれまで、何に迷っても自分で考えて自分で決断を出してきたのだから。大体、自分のことを他人に聞くなんて変なことだし、カッコわるい。ましてや恋愛相談なんて自分がするとは思っていなかった。でも今回は、自分をコントロールすることが出来なくて、どうする事もできないので、話してみようと思ったし、なんだか池谷は聞いてくれそうな雰囲気をもっているんだよね。
「私よくそう言う相談されるので大丈夫ですよ。」と池谷は言っていたな。確かに、誰にも漏らしたりしなさそうだし、なんかいい答えを出してくれそうな、こちらの事をわかってくれそうなそんな安心感がある。そう言えば、後輩だと思っていたら、僕より一つ年上だと言っていたっけ。それもあるのかな。いつの間にか僕の頭の中は池谷に占領されていた。
患者の把握でもしようかとCCU(循環器集中治療室)に行ったら、うっちー先生とのんたんがベッドサイドで何やら話をしている。
「何してるの?」
僕は興味がないが社交辞令的に聞いてみた。
「このおばあちゃんの顎が外れちゃって。整復お願いしようと思って外科の先生をコールしたんですけど、なかなか来ないんですよ。」
のんたんが言う。ベッド上で大きく口を開けたまま天井を見つめている高齢女性はしゃべろうとしているのか、喉からカーカー変な音を出している。
「みんな集まって何してるんですか?」
いつ来たのか、池谷がのんたんとうっちー先生の後ろから覗き込んだ。
「あ、顎外れてる。はめないの?」
池谷は何事もないように言った。
「え?池谷、直せるの?」
うっちー先生が驚いて言った。
「え? みんなできないんですか? 年寄りなので整復するの簡単ですよ。若いと筋がしっかりしてて大変だけど。」
池谷はそういうと、ベッドサイドによって4本の指を患者さんの下顎に掛けて親指を耳の下におき、軽く押した。かくっとした後、おばあさんは口を動かし始めた。
「のんたんの患者さん? 頭と顎を固定するようにお顔にぐるぐると包帯巻いておいてね。しばらく癖つけないとすぐにまた外れちゃうから。」
なんでこんなこと知ってるんだろう。僕がそう思っていると、のんたんが
「みーちゃんすごーいいっ!なんで知ってるの?」
と目をキラキラさせて聞いてくれた。
「えー? 救急でやらなかった? 私の大学、こんなに都心じゃないから、ひとたりなくてさぁ。それに近くに大きな病院がないからたくさん変なの来たよ。研修医の時になんでもやらせてもらったから他科のことも一通りできるかな。やらせてもらうっていうか、やらされてたんだけど。」
ハハハッと笑いながら、池谷は自分の患者を見に別のベッドの方に行ってしまった。
・・・野生なのかお嬢さんなのか。頼りになるのは間違いない。頼りになる?女子に何言ってんだ、僕は!普段の僕がたしなめた。
静かな夜で、雨の音が妙に響く。でも心地よい響きだ。CCUの患者も落ち着いてるし、救急隊からの電話もない。時々かかりつけ患者からの相談の電話や病棟からの相談があるくらい。なんとなくぼーっとしていると、いつの間にか池谷のことを考えたりする。すっかり僕の中で元カノのことを考えることは無くなっていた。池谷が出てくるのは不本意だと頭では思うのだが、実際は池谷と話していると楽しいし、一緒に何かをしたいと思ったりする。これって恋なのかな? 今まで告白されてからしか付き合ったことのない僕にはよく分からなかった。当直用のベッドで横になっていたら、いつの間にか眠ってしまった。
ドンドンと扉を叩く音で目が覚めた。
「神田先生、ピッチずっと鳴らしてるのに、ちゃんと出てくださいよね。当直なんだから!もう朝ですよ!」
CCUのリーダーである辻さんが冷たく厳しい声で言った。
「2ベッドの心不全の男性が、昨夜からほとんど尿が出てないんでコールしたんですけど、来ないから、ウロウロしてたうっちー先生に指示出してもらいましたよ!」
やばっ。寝過ごした。一回寝ちゃうと起きられないんだよなぁ。でも当直でこんなにぐっすり寝る事もあまりないんだけど、どうしたんだろう、僕は。
「すみません。気をつけます。」
「あら、先生。今日は珍しく素直ですね。いつもは何かしら理由つけるのに。」
辻さんにそう言われたが、この状況をどうやって言い訳すると言うのだろうか。でも確かに、あまり人に謝る事もないかもしれない。だって僕はいつも完璧なのだから。僕はそんなことを思いながら、当直日誌に申し送り事項を記載し、CCUを出た。
医局に行くと、うっちー先生がパイプ椅子を並べた上で寝ていた。お礼を言わなくてはいけないのだが、起こしていいのかどうか迷ってしまった。
コーヒーでも飲むか。そう思ってコーヒーメーカーのボタンを押した。ポタポタと音をたててカップにこげ茶色の液体が満たされていく。いい香りが周囲に広がった。
コーヒーの香りで目が覚めたのか、うっちー先生が大きな伸びをしている。
「おう、かんちゃん。おはよう。昨日は良く眠れた?」
ぼくが眠ってたことをしっていて、いやみで言っているのかな?そう思ったが、僕はまずあやまった。
「すみません、先生。僕が当直なのに呼ばれても起きてこなくて。」
なんだか今日は気持ちが素直になれる気がする。
「いやいや、よかったよ。よく眠れて。かんちゃんちょっと前まで疲れてる感じがしてたからさ、少し元気になったのかと思って。ガハハハッ。」
うっちー先生もなにかしら僕の不調に気づいていてくれたのかと思うとなんだか心が熱くなった。
僕はこれまで周囲の人たちとどんな風に付き合ってきたのだろうか。どれだけ人の優しさに気づかずに過ごしてきたのか、そんな不安とも反省ともいえない苦い気持ちが胸の中に渦巻いていた。
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