第8話 曇りのち雨
今日も朝からじめっとした空気が漂っている。ササー ササーと雨の音が窓から伝わる。不快度90%以上の天気だね。そんなことを思いながらカーテンを開けると、鮮やかな青紫色や赤紫色が視界に飛び込んできた。
紫陽花だ。私の部屋は3階だが、隣にある日本家屋の広い敷地内に植えられている紫陽花が、柵を越えてこちらに届きそうなほど見事に咲いている。陰気になりがちな梅雨の雰囲気をこんなにも美しく変えられるものが他にあるだろうか。
植物になれたらいいのになぁ。時々そんなことを思ったりする。
綺麗に手入れの行き届いている庭の植木達は、季節ごとにしっかりと計算され、その季節にあった色に景色を描いていくのだろう。このマンションに住み始めてからまだ3ヶ月だが、水仙、桜、杜若、菖蒲などなど途切れることなしに庭を彩ってきた。
こんな日本家屋にはどんな人が住んでいるんだろう。私もこんな所に住んでみたいなぁ。住まなくてもいいから、中に入ってみたい。考えているとワクワクしてきて、梅雨の不快な気持ちも飛んでいってしまった。「単純なヤツ」と自分でで自分にツッコミを入れたくなる。
私は古い建物が好きだ。やっぱりなんと言っても生活の中にもちゃんと美意識があって、それが散りばめられている。それに比べて現代の建物は機能的なのだろうが、どれもただの箱のようでつまらない。その辺は骨董好きの父親の影響だろうか?それとも蔵のある田舎の屋敷に住んでいた祖母方の影響だろうか?
ふと美大時代を思い出してしまった。あのまま美大に行ってたら、こんなにバタバタした生活ではなかったよね、きっと。でも性格を考えたらこれでよかったんじゃないかな。・・・と結局ぐるっと回っていまの生活に満足していることを実感し、仕事に向かった。
テニスをした週末の翌日から、神田先生は仕事を休んでいる。体調が悪いと医局からは報告があったけど、どうしちゃったんだろう。そういえばテニスの後にご飯食べに行こうって言っても来なかったし。今日で3日目だけどなぁ。私は医局のドアを開けた。
瞬間、すごい光景が飛び込んできた。うっちー先生と井澤先生がパイプ椅子を並べてその上に横になって寝ているのだ。二人は医局の入り口正面の壁ぞいにくっつく形で横になり、足を向かい合わせるような位置関係でひどい格好だ。こわっ・・・。だいたい、なんでこの人たちは毎日ここで寝てるんだろう。どうしていいか分からずにそっと医局を出ようとしたら、神田先生が入ってきた。
「あ、神田先生!おはよ・・・うござい・・ま・す。」
あまりに暗い、梅雨の雲より重そうな雰囲気を醸し出しているので声が小さくなってしまった。
「おはよう。」
神田先生はいつものようにこちらを見ずに返事をした。この暗さは、体調というよりメンタルのように見える。プライベートで何かあったかな。どうでもいいけど、あまり関わらないようにしよう。そう思って医局を出ようとしたら神田先生に話しかけられた。
「池谷さ、今日仕事終わったら時間ある? ご飯ご馳走するから、ちょっと話聞いてくれないかな。」
きたーーーーーーっ! やっぱり彼女の相談か? 予定も特にないので断る理由も見つからないし。嘘も下手だし、返答に困りながらもOKしてしまう自分が嫌だぁっっ、もう。
「あーーーー、わかりました〜。のんたんにも声かけときますね。」
「池谷だけがいいんだけど。」
答えた瞬間にそう言われてしまった。返事を見つけられずにいると、
「夕方7時、交差点のところのカフェで待ち合わせよう。」
それだけ言って、神田先生は出て行ってしまった。
勝手に決めるなーーーーっ! そう思ったが、OKしたのは私だ。なんの話だろう。どれくらいかかるのかな。明日は当直だから早く家に帰りたいんだけどな。などと色々考えていると落ち着かなくなってきた。考えてもどうにもならないのだから!と自分に言い聞かせて仕事に専念することにした。
「のんたんさぁ、神田先生今日はきたけど、調子どんな感じだった?」
いつも通り、のんたんと食堂で定食を食べながら探りを入れてみた。今日のランチは甘い玉ねぎがいっぱい入った豚の生姜焼きだ。小鉢にはキャベツのおひたしがついている。
「どうしたの?風邪ひいてたみたいだけど、今日はいつもと変わらない感じだったよ。みぃちゃん、神田先生のことが気になるの?」
のんたんは生姜焼きの入った口を上品に押さえながら答えた。
「んなわけないじゃん。私はもう少し人情のある感じの人がいいし、大体彼氏いるよ。」
そう言い放って、豆腐とわかめの味噌汁をすすった。出汁の旨味が口に広がる。ここの定食はバランスが良くていい。
「えぇっ⁈ みーちゃん彼氏いるのっ?」
のんたんが驚いて立ち上がった。驚きすぎじゃない?失礼なヤツ。
「何?その反応。ひどくない?」
私は冗談っぽく答えた。のんたんは、ちょっと恥ずかしそうに座った。
「ごめんごめん。だって、みーちゃんって美人で強そうだから近寄り難いでしょう。僕なんて好きになったとしても、怖くて付き合ってくださいなんていえないよ。はぁ?って言われそうで。」
アハハと笑っているのんたんは、きっと本気でそう思っているのだろう。
「確かにねぇ。まぁ、付き合ってるって言っても6歳年下だから、可愛がってると言った方が正しいのかもしれないかなぁ。同じ医療者で6歳違ったら、対等になれないよね。」
言うつもりもない言葉が私の口から出てきた。これはきっと私の本音なのだろう。
「あ、そう言うことなら納得できる。相手もお姉様って感じで一緒にいるんだね、きっと。」
のんたんは妙に納得して、微笑んでいた。のんたんはどうしてこんなに癒しのオーラを放てるのだろうかと思う。でも彼は真面目に対等でありたいと思っているようなんだけどね。そう言いかけたが、言う必要もないのでその話は終わりにした。
7時、待ち合わせの場所に行ったが神田先生はまだきていなかった。新宿の街中は平日にもかかわらず、賑わっているた。車の音、人が集まる音、いろんな人が話す声、全てが混ざり合って
空を眺めていたら、後ろから、肩をポンと叩かれた。神田先生だ。
「傘持ってないの?」
神田先生は言った。自分から約束しておいて遅れたのにそんな言葉? まずは「ごめん、待った?」じゃない?ふつうは。私は心の中で思った。
「持ってますよ、梅雨ですから。ただ傘さすほど強い雨でもないし、面白いので見てたんです。」
私は不機嫌に答えた。しかし神田先生は全く気にならないのか、気づいていないのか、こっちに店があるからと先を歩いて行った。おいおい、ふつうは並んで歩いて少し話とかしないか? 私、何しにいくんだっけ? よく分からなくなってきた。
新宿の高層ビルの中、入って行ったのは上層階がホテルになっているビルだった。エレベーターに乗る。高速のエレベーターは私の三半規管を刺激して、耳の奥が痛くなる。エレベーターは52階で止まり、神田先生はまっすぐレストランの入り口へ向かっていった。追いかけるように後についていくと、席を予約してあった様子で、ウェイターに大きな窓のそばの席に案内された。雨で遠くまでは見えないが、新宿の夜景が一望できた。
「歩かせちゃったけど、いい場所でしょう。新宿内でもここには流石に知ってる人は来ないと思う。」
神田先生は言った。 なるほどね、聞かれては困ると。確かにこんなオシャレな場所は大人なカップル以外は来ないだろう。うちの医局にそんな人がいるわけないもんなぁ。なんだか笑ってしまった。
「何か変?」
神田先生が聞いてくるので、私はそのままを伝えた。
「そうなんだよね。あんまり人に知られたくなくて。彼女のことで相談したかったから、まあ医局内では最も女子らしい池谷に聞くのがいいかなと思って。」
神田先生はそう言うと、何か食べたいものがあるか私にきいた。初めてこちらが何をしたいか聞かれた気がする。私は前菜とワインに合いそうなパスタを頼んだ。
「池谷は普段ワインを飲むの?じゃあ、まずはシャンパンにしようか。」
そんなことを言う神田先生はさっきとは違って少し楽しそうに見えた。
胸にブドウのバッヂをつけた男性が、フルートグラスを持ってきた。目の前で注がれるシャンパンはライトの光を弾いて花火のように見えた。
「乾杯!・・・乾杯でもないんだけどね。」
神田先生は自分の彼女の話をし始めた。一方的に喋り続ける神田先生の話を半分くらいの気持ちで聞いていた。こう言う時は聞くだけに限る。話すことに満足するまで、うんうんと相槌を打ちながら時間が過ぎるのを待った。雨はさらに強くなり、新宿のネオンがゴッホの星月夜の絵のように光っていた。
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