第7話 失恋
じめっと湿った空気と天井が下がってきたような重く分厚い雲。いまにも雨が降ってきそうな天気だ。もうすぐ梅雨か。
あれから1か月、優香からの連絡はない。別れようといわれたわけではなかったので、ちょっと離れて勉強などにも励みたいだけかと思った、というか思いたかった。でもこれだけ連絡がないと、本当にさよならっていう意味だったのかな。自分自身に聞いてみても答えがでてくるわけではない。ただ、僕はこれまで振られたことはなく、今まで多くはないけれど、付き合ってきた子たちと別れを告げるのは僕からだった。それでも彼女たちは僕と別れたくないと言ってくるのが常だった。何が問題だったのか。
僕が失恋? そんなはずはない、とおもいながらやっぱり振られたのかなと思ってみたり、こんなに自分が混乱するのは初めてだった。
どんなに気分が滅入っても、いつもとかわらない病院での毎日は始まり、終わっていく。でもなんだか生きている実感みたいなものがはっきりしない。カタカタカタと音のない八ミリビデオのように白黒の画像が動いていく。恋人からの連絡がないだけで、こんなにも自分の気分が変わってしまうなんて想像したこともなかった。
「おはようございます!」
雨雲さえ吹き飛ばしてしまいそうな、元気のよいからっとした声が、背中からかぶさってくる。池谷か。
「おはよう。」
ぼくは振り向きもせず返事をし、そのままコーヒーメーカーから自分のカップにコーヒーを注いだ。
「神田先生、元気ないですね!」
僕の顔を覗き込むように、コーヒーメーカーの前に顔をだしたので、僕はひっくり返りそうになる。面倒くさく思いながらもその明るさに救われる気がした。
「どうもないけど。」
僕は答える。
「ふうん。やっぱり変わりないんですね。先輩方に聞いてもいつも通りだって言うんですよ。」
池谷は笑いながら言った。僕のいないところで何を話してるんだか。もしかして自分に気があるとか? なんて馬鹿なことを思ったりする。でもみんな僕がちょっと元気がないとか全く気づかないのはひどいと思った。何か一声くらいかけてくれる人がいてもいいのに。ん?付き合いが浅いのに、池谷は僕の少しの変化に気づいてくれてるのかな?頭の中でパズルのようにいろんなピースが飛び交う。
「神田先生、大学ではテニス部だったって聞きましたよ。今度みんなでテニスしませんか?のんたんも行くと思いますよ。」
池谷の言い方が、当然行くでしょ?とでも言わんばかりの威圧感がある。敬語ではあるが、何だろう、この迫力は。でもテニスか。気晴らしにはいいかもしれない。僕が頭脳だけではなく、スポーツもできるところを証明できるし。いつも堺先生達は、僕が頭だけのような言い方するからいい機会だ。僕はそう思った。
「テニス、いいね。今週末は池谷先生も野口先生も当直じゃなかったね。でも梅雨時だけど、天気は大丈夫かな。」
言ってしまった後で、ネガティブなことを言ってしまったと少し後悔する。
「私、晴れ女なんで、天気気にしたことないんですよね。多分大丈夫ですよ。」
あっけらかんと池谷は言った。 晴れ女って、サイエンスのかけらもない発想に僕は唖然とした。天気予報では今週から雨続きだぞ。まあ、前日になったら確認すればいいか。僕はそう思ってテニスコートの予約を取るつもりで話をした。
「テニスコートだけど・・・。」
「あ、コート私が予約しておきますね。いい所あるんですよ。ちょっと離れますけど、私車あるんで。」
僕が最後まで言う前に、池谷が言うので、またコーヒーをこぼしそうになってしまった。女の子にお膳立てしてもらうことはこれまでなかったので、動揺したのだ。
「池谷。回診するよ。」
医局の入り口から堺先生が顔を出した。
「はい、今行きます!」
池谷は堺先生に返事をした。
「時間だけ教えてくださいねー。迎え行きますから。のんたんにも言っておきます。」
池谷は振り向いて僕にそういうと、堺先生を追っかけて行ってしまった。嵐のようなやつだなぁ。そう思うと、なんだか笑ってしまった。窓の外が少し明るくなっている。近づいて外を見ると、分厚い雲は拡散されて、青空が見え始めていた。気づくと白黒の八ミリビデオの景色は色のついたものになっていた。
遠くからピアノの音がする。ベートーベンのピアノソナタ『月光』だ。悲しい旋律が徐々に力強くなる。さらに音がだんだんうるさくなると思ったら、スマホが鳴っていた。そうだ、今日はテニスの約束をしてたんだった。コールを受けると、勢いのある声が響いた。
「神田先生、おはようございます!のんたんと下で待ってますねっ。」
そういうとすぐに切れてしまった。どうやったら朝からこんなに元気でいられるのだろうか。心の底から羨ましく思う。そういえば昨日まで雨の予報だったけど、今日は晴れているのかな。カーテンを開けると、半地下の部屋でさえ光がしっかりと届くほどの良い天気だった。
テニスウエアに着替えて下に降りると、赤のプリウスが停まっていた。ダークレッドマイカメタリック、ちょっと前の20系プリウスだ。 女王様系のあの池谷がエコカーというのもなんだかしっくりこない。古い型番なのがさらに違和感を強くする。
「神田先生〜。」
野口が後部座席から手を振っている。
「先生、助手席でも後ろでも好きなところに座ってください。」
池谷は自分のトートバックを荷台に移しながら言った。
「プリウス乗ってるんだ。」
と僕が言ったすぐに、野口が池谷に聞いた。
「そうそう、みーちゃん。看護師さん達が池谷先生は赤のアルファロメオに乗ってるって言ってたよ。車変えたの?」
「そんなわけないじゃん。前からこのプリウスだよ。勝手なイメージじゃない?赤しかあってないし。ハハハ。」
池谷は笑って答えた。看護師さん達のイメージから見間違ったのだろうけど、プリウスがアルファロメオかぁ。確かにアルファロメオの方が池谷のイメージにはぴったりで、気持ちはわかる。だけど、プリウスとアルファロメオを見間違うか?
女の贔屓目というか、裏やみというか、怖いことには間違い無いと思った。
高速道路の高い位置から見る空はどこまでも青く広がっている。空は雲ひとつない快晴で、昨日の天気予報は何だったんだろうと思う反面、池谷が言っていた晴れ女の文字が頭をよぎる。普段の僕が、そんな迷信馬鹿らしい!とツッコミを入れている。
池谷は僕ら2人を乗せて、どんどん車を追い抜いて行った。女の子に車を乗せてもらのは初めてで、僕は何だか気恥ずかしいような気がしたが、野口は全く気にならない様子で、楽しそうに話をしている。本当に女子みたいなやつだと思う。この時間が、これまで自分がいた環境とあまりにも空気感が違っていて違和感はあったが、不思議と居心地が良かった。
テニスコートまでは高速道路を使って20分くらいのところで、そう遠くなかった。武蔵野のテニスクラブのコートで会員制のようだ。クラブハウスも立派でずいぶん高級そうだけど、研修医で高そうなテニスクラブの会員? お嬢様なのかな。そんなことを考えていたら、僕が考えていることが見えるように池谷が答えた。
「幼馴染の親が特別会員で、ゲストも借りられるんだよね。無料で。」
無料って、相手がお金払ってるんじゃないかと説教をしたくなる。僕の実家はフツーのサラリーマンの家なので、その辺の軽さに複雑の気持ちになった。
コートサイドで軽く準備運動をしていたら、野口が言った。
「僕、テニスあんまりした事ないんだよね。家族で旅行に行った時にやったことあるくらい。すごく下手だから誰かと組んでいいかな。」
誰かとって、男2人で組むわけないだろうが。僕はちょっと笑ってしまった。
「もちろん池谷とのんたんと一緒でいいよ。女子1人のわけないでしょう。」
そういうと、池谷が答えた。
「じゃあ、まずはそうして、後で交代しましょうか。」
交代?する必要なくない?テニスに自信あっても、女子は女子なのに。まぁ、そうしたいならそうすればいい。そんなことを思いながら、コートに入った。
「行きますよー。」
池谷が大きな声で言った。瞬間、
スパァーーーン。
速い!予想していなかったので、ボールは当然目の前を瞬間で通り過ぎてしまった。
「神田せんせー。ちゃんと構えてくださいよ。」
池谷は笑っていた。マジかよ。
「オッケー。次はちゃんと見てる。」
僕は軽く答えたが、背中には緊張で汗が吹き出してきた。これを取らないとラリーも始まらない。
「いきまーす。」
パァーーーン。
綺麗な音の響きで、さっきより打ちやすいところにボールはきた。
パァーーーン。スパァーーーン。パァーーーン
打ち返しはするものの、一球一球が重い。女子の球じゃない。グリップに力が入る。打ち返した球が野口のところに向かった。
ガコッ。
ラケットの端にボールは当たり、球が落ちて転がった。野口はごめんごめんというポーズをして、ボールを拾いながら大きな声で言った。
「2人ともすごいねー。みーちゃん、ほんと、女子とは思えない。さすがインターハイに出場しただけあるねっ。」
・・・インターハイ出場選手。先に言って欲しかった・・・。かっこいいところなんて見せられないじゃないか。僕の中で何かが壊れた。
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