第6話 コンピューター
やっとCCU(集中治療室)にいる自分担当の患者がいなくなったよ。本当に大変だったなぁ。また来週の当直が思いやられるわ。そんなことを思いながら食堂に向かう。外は今日もぽかぽか陽気だ。
先週は神田先生の意外な一面を見たなぁ。私の初めての運動負荷試験。初回担当の一回だけ、先輩の先生がついて指導するのが決まりらしい。その日は10年上の坂田先生が来てくれる予定だったのに、先生は急患の対応に追われて、神田先生に頼んだのだ。よりによって神田先生かぁって。
本音を言うと、すごく残念だったというか、嫌だったかな。だって坂田先生はとても面白くて、優しいし、困ったら助けてくれそうなのに、それが何もサポートしてくれなさそうな神田先生が代わりになってしまったのだから。もーサイアク。そんなふうに思っていた。
運動負荷試験の場所は病院ではなく、1キロほど離れたところにあるクリニックで行っているため、一度外に出ることになる。その日も今日のようにぽかぽか陽気だった。神田先生がさっさと病院を出ていくのを追っかけるようにして私も外へでた。目の前が一瞬見えなくなるほど明るくて、目が慣れた頃にはビルの合間から青い空が広がっていた。そこで、あのコンピューターのような神田先生がこう言ったのだ。
「いい天気だね。僕、結構検査に行くの好きなんだよね。こうやって日中に外を歩けるから。」
私は一瞬固まってしまった。この人にこんな人間っぽい感情があるとは思わなかったから。目が点になってしまった私を気にもせず、神田先生は続けて話してきた。
「Subwayがあるからランチでも食べていこうか。」
どうリアクションしていいのかわからずに、ただ頷いて後ろをついていった。Subwayはお昼時ですごく混んでいた。神田先生は並んで作ってもらうのではなく、そこに作り置きしてあるものを手にとって
「これでいいよね。」
と一言私に言うと、そのままレジに向かった。「えー、私作ってもらうのがいいー」と心で訴えるものの、悟ってもらえるわけもなくそのまま店を出た。
新宿の高層ビル街の細い道を通りながら。クリニックに向かう。その途中も神田先生の周りの空気はほんわりと明るく、なんだかとってもご機嫌に見えた。
神田先生は、クリニックの控え室でさっき買ったSubwayのサンドイッチを一つ私に渡してくれた。包みを開くとレタスとトマトの爽やかな香りが広がった。同時に自分のお腹がクゥと鳴った。そういえば朝から何も食べていなかったなぁと思いながら、お腹の音を気づかれてないか横目で神田先生を見た。神田先生は自分の分をすでに広げて食べいて全くこちらには関心がない様子だった。私の視線に気づいたのか気づかないのか、神田先生は説明を始めた。
「検査では、患者が入ってくる前にカルテを見るんだよ。どんな患者さんかわかっていないと、検査で何かが起こった時にすぐに対応できないからさ。」
その後もずっと説明が続いたが、神田先生の説明は、余分がなくてわかりやすく、全く疑問なくスムーズに頭の中に必要なことが流れ込んでくるようだった。さすがだね、T大生だね、と思った。
サンドイッチを食べ終えて、検査室に移動した。そこには今日の検査を行う患者のカルテが順番に積んであった。神田先生が横長のテーブルに椅子が一つしかないのを見て、どこかからもう一つ折り畳み椅子を持ってきた。自分は折り畳み椅子に座り、もう一つの椅子の座面をぽんぽんと叩いている。座れと言うことらしい。
「クリニックのカルテは手書きだから、大体の先生の字は汚くて読むのが大変だから、最新のページだけを読んで、あとは病名を見ると大体検討がつくかな。例えば、今日の最初の患者さんは」
『高血圧、脂質異常症、胆嚢切除後』『ジムに通う前に問題ないか検査をしておきたい。』
とカルテからは生活習慣病の病名と、ただジムに行く前の念のための検査と言うことが読み取れた。
「要するにだ、診断は『おばちゃん』だね。」
神田先生が無表情の顔で言った。直後にレギンス姿にスポーツシューズ、ヘッドバンドまでしたやる気満々の中年女性が入ってきた。神田先生と私ははっと目を合わせて、笑ってしまった。あまりにも『おばちゃん』がぴったりすぎて。患者に気づかれないように、
「そのままだったね。」
と神田先生は笑顔で言った。この人こんなふうに笑うんだ。初めて見た笑顔はなんだか別人のようだった。次の検査でも面白い事を言っていた。体重100kg位ありそうな患者さんで検査機の上を歩くたびに、機械がギシッギシッと軋んでいた。それを見た担当の検査技師さんが、
「先生、この機械体重制限とか大丈夫ですかね?」
と小声で聞いてきたのだ。神田先生は機械の周りをぐるっと回って何やら見て、一言
「大丈夫だと思うよ。アメリカ製だから」
と言ったのだ。要するに体の大きい人の多いアメリカで使われている機械が100kg程度でどうにかはならないと言う事だろう。面白い、この人! 私のツボにピッタリとハマってしまった。
その日はそんな感じで笑って過ごした。病院に戻る頃には外は薄暗くなっており、空は青紫から藍色に見事なグラデーションを描いていた。
「みーちゃん。なにぼーっとしてるの? お料理きたよ。」
週明けのお昼休みのんたんこと、野口先生が私に声をかけた。私とのんたんは時間が合えば、ランチは一緒に食堂で食べるのが日課になっている。職員食堂のカウンターでおばちゃんが私に皿を出していた。今日の日替わりは煮魚定食だ。甘辛いい美味しそうな香りが唾液腺を刺激する。
「いや、神田先生って意外と面白いなと思って。」
私は言った。
「えー?そうかな。なんでも的確に指導してくれるけど、余計なことなんて一言も喋らないし、コンピューターみたいな感じだよ? 面白いところなんて見たことないけど。」
やっぱりみんなコンピューターにたいって思うんだ。私はクスッと笑ってしまった。もっとみんなに知ってもらえばいいのに。のんたんは不思議そうに私をみている。
「先週、坂田先生の代わりに神田先生が運動負荷についてくれたんだけどさぁ。神田先生、むっちゃ面白かったよ。」
私はその日の面白い話をのんたんに話して聞かせた。
定食の小鉢に入っているほうれん草の胡麻和えをつつきながらのんたんは言った。
「いいなぁ、みーちゃんは。そんなに仲良くなれて。僕もそんな話したいなぁ。」
ん? 仲良くなったっけ? 妙に違和感を感じるなぁ。だってその後は病院で会っても、前と変わらずコンピューターのようだったし。先週はたまたま機嫌が良かったのかな?そんなことを思いながら、最後の鱈を口にした。口の中でお醤油と砂糖の優しい味がじんわり体に染みてほっとする。美味し〜と思いながら顔をあげると、堺先生がまっすぐこちらに向かっていくるのが見えた。
「やば、時間過ぎてるかも。」
私は焦って時計を見た。まだ集合の13時まで10分以上あるじゃん。何か失敗したかな。怒られるのではないかとドキドキしていたら、通り過ぎてカウンターからお膳を取った。うーん、いつもこの厳しい表情で過ごしてるんだ、この人。しかもこの10分で食事終わらせるのか、となぜか感心してしまった。
4階病棟は準CCU(準集中治療室)になっている。。準CCUは集中治療室での加療が必要ではなくなった人が、一般病棟に移る前にワンクッション置いて様子を見るための病棟だ。コの字型に病室があって、ぐるっと窓があるのでナースステーション以外は空がひらけて見える。
先週に私の患者さんが随分移ったおかげで、ここの看護師さんたちともずいぶん仲良くなれて良かったぁ。また一つ居心地の良い場所ができたことを嬉しく思う。看護師さんと仲良くなるといいことがたくさんある。ちょっとしたことでも患者さんの情報が入るので、早めの予測ができたりする。女医は看護師さんとうまくいかないことが多いなんてよく言うけれど、私はそんなことを思った事はない。まあ、同性同士なのでかなり気を遣ってはいるけれど。例えば「看護婦さん」と声をかけずに、ちゃんと名前で呼んだり、医師ー看護師と上下ではなく、台頭に対応したり。大体、この病院で長く働いている看護師さんなどは私なんかよりずっと知識も経験もあるのだから、教えてもらうことが多いのも事実。
今週は忙しくならないといいなぁ〜。明日はまた当直だよ。そんなことを思いながら頭の後ろに腕を組んで廊下を見ていたら、神田先生が歩いてきた。
「先週はありがとうございました。」
話すきっかけを見つけるために、私はお礼を言った。
「ああ。」
とだけ言って、神田先生は通り過ぎていってしまった。なんだか気持ちいつもより元気のなさそうな。人間的な感情を見せない感じの人なのに、人間的に元気がないように思えるのは気のせいだろうか? 過ぎ去った神田先生の背中を見送っていると後ろから、バンっと肩に手を乗せられた。
「お待たせ!なんかあった?あっち向いて。」
堺先生がニヒルな笑顔で立っていた。
「いや、神田先生。元気なくないですか?」
私は聞いた。
「え?瞬太? あんなもんじゃない? なんか変わったとこあったっけ。」
堺先生は不思議そうに私を見た後、神田先生の背中を見ていた。
「いつもあんな感じですかね?」
「そうでしょ。」
ふうん。そっか。私もそれ以上何にも考えないようにして仕事に向かった。
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