第5話 ドライブ
花見なんてみんな暇だよなぁ、本当に。
僕は論文を今月中に書き上げて、投稿しなくてはならない。ただでさえ臨床現場の仕事と研究で時間がないのに、なんで興味もない集団と飲み会なんてしなきゃ行けないんだ。ほんと口実があってよかったと心底思う。花見をパスして論文執筆に集中する。これを出したら、可愛い彼女とのデートだ。どれくらい会ってないだろう。3ヶ月くらい会えてないかな。メールは毎日しているけれど、最近電話は時間が合わずにしていない。ドライブで箱根に行こう。そんなことを考えながら、全然集中できてない自分にツッコミを入れたくなる。また僕は論文作成に向かった。
新人が入ってきてから3週間がたった。病棟を回っていると院内ピッチが入った。
「はい、神田で・・・」
僕が最後まで答える前に、相手側の人は話し始めた。
「坂田だけど、お前これから運動負荷いける?俺、緊急カテーテル入んなきゃ行けなくなったから。池谷の指導よろしくな。」
要件だけ言うとブチッと通話が切れた。僕の予定も聞かずに全く。とは思うが、きっと僕の予定を調べてから電話してきたのだろう。まあ、運動負荷なら時間通りに終わるからいいか。
僕は病院入り口で池谷をまち、運動負荷に向かった。その日はすごく晴れていて、週末の楽しみもあるからか、なんだか楽しく過すことができた。そのおかげか論文の作業もサクサク進んであっという間に週末になった。
週末の土曜日、朝までかかってやっと書きあげた。書類をまとめて郵送する準備をし、それを持って病院へ向かった。
「お、かんちゃん早いねー。どうしたの?」
医局の椅子を3つくらい並べて、トドのように横になっているうっちー先生が眠そうに話しかけてくる。ここで泊まったであろうことが一目でわかる。当直でもないのに泊まってくなんて、本当に変わり者だと思う。
「内山先生、おはようございます。当直じゃないですよね?昨日、病棟荒れてたんですか?」
どうでも良かったが、とりあえず社交辞令的に聞いてみた。
「ううん、私の患者は落ち着いてるんだけどさぁ。池谷がよく重症を引くんだよね。先週、今週で池谷の患者がCCU占領してる。ガハハハ。」
相変わらずスティッチのように大きな口にギザギザの歯を見せて笑っている。
池谷は研修医上がりだから重症患者を1人で数人診ていくのは確かに無理かもしれないが、池谷の指導は堺先生だったはず。
「堺先生いないんですか?」
どうでもいいと思いながらつい口が動いてしまった。話が長くなりそうで面倒なのに。
「弓子っちも指導しているけど、数がハンパないんだよね。池谷あいつすごいよ。できないなりに、ちゃっちゃか捌いていくから。でも3年目は3年目じゃん?知らないことも多いわけよ。だから危なさそうなら助けてやろうかと思って。」
ふうん。随分優しいんだな。怪獣みたいなのに。面倒見のいいお姉さんってとこか。僕は妙に感心した。でも僕は自分に関係のないところで仕事を増やしたくない。
そんなことをノーマルな僕は思っているのだが、僕の足はCCUに向かっていた。
CCUでカルテを開いた。12床あるうちの8床が埋まっていてそのうちの6人が池谷の受け持ちか。確かにこれじゃあ帰れないし、トレーニングどころじゃないかもしれない。論文も終わったし、2人くらい引き受けようかな。いやいや、明日は久しぶりのデートだし、ここで変な良心を出してきてはダメだ!と自分に変な言い訳をしてCCUを後にした。
待ちに待った日曜日、僕は父親から借りたクラウンで彼女の家に迎えに行った。クラウンというのがダサくて僕的には悩むところだったが、レンタカーはもっといけてない感じがして、家の車を使うことにした。
彼女は一瞬、古い車に怯んだように見えた。
「久しぶりだね。」
と笑顔で迎えてくれて、一安心した。キラキラと輝く湖のような静かな優しい笑顔。やっぱり彼女は美人だ。美人は美人でも池谷みたいに太陽が照らすような勢いのいいのとは大違いだ。でもなんでここであいつが出てくるんだ?一瞬自分に疑問を持ったが、彼女が車に乗ってきてそんなことはさっさと消えてしまった。
彼女の名前は立花優香、東大の文学部だ。才色兼備という言葉は彼女のためにあるのではないかと思う。僕の4歳下なので今年が最終学年の忙しい年になるので、さらに会えなくなるのではないかと少し寂しい気分だが、僕も彼女もお互い忙しいので問題ないのだろうと思う。
僕らは箱根に向かった。日曜日の箱根ドライブはすごく混んでいる情報はわかっていたので、朝早くに出発したのが良かった。若葉で萌黄色に染まる山の中を気持ちよくドライブができた。女の子が好きそうな、星の王子様ミュージアムや箱根ガラスの森を巡ることにした。彼女は僕の決めたデートコースに満足なのか、美しい微笑みで
「神田先輩、変わらないね。完璧だね。」
といった。褒め言葉なのだろうか?ちょっと照れ臭くもあり、一方で他に含んだ意味があるのかチラッと気になったが、あまりに美しい風景の中、彼女がそこにいるのがあまりに絵のようなので、頭にその考えは残らなかった。
その後ミュージアムカフェでランチを済ませ、こっそりとガラスでできた綺麗なネックレスをお土産を買った。あとでサプライズのプレゼントにしようと思っていた。彼女は笑顔で僕についてくる。芦ノ湖ではあえて海賊船などには乗らず、春の美しい緑の中を歩いて回った。ディナーはオーベルジュになっている有名なフレンチレストランを予約してあったので、芦ノ湖はそこそこに切り上げて車に戻った。夕方は観光から帰宅途中の車が渋滞を起こしていたが、それも予測内。予約時間まではあと1時間あるので流石に余裕だろうと思っていたが、渋滞は思った以上に続いていて、レストランに着いたときには予約時間の5分遅れていた。車の中では今日見てきた美術館の話など、問題なく過ごしたがなんだか空気が重いような気がしたのは気のせいだろうか。
すぐに席に案内され、グラスシャンパンを頼んだ。
「乾杯!」
彼女の声がよく聞こえなかった。僕の声にかき消されただけなのか、口に出していないのか。ただ彼女の美しい微笑みはいつもと変わらないように見えた。
シャンパンのすぐ後にアミューズが運ばれる。フォアグラのクリームがシューに絞ってある。前菜には海の幸のムースに上にはキラキラとしたコンソメのゼリーにウニが添えられている。カクテルグラスに盛られているそれを見て
「綺麗・・・」
と彼女が目を細めた。このフレンチを選んで正解だったと思った。以前雑誌『大人の休日』に取り上げられていて、いつか彼女と来たいとずっと思っていたオーベルジュだった。もちろん僕は泊まりも考えていたのだが、彼女は卒論が忙しいので今は泊まりは難しいと断られていた。
魚、肉料理と繊細で美しい料理が次々と運ばれ、最後のデザートのところで僕はプレゼントを渡そうと思った。ガラスの森で買ったネックレス。
「優香ちゃん。はいこれプレゼント。」
「神田先輩、ごめんなさい。」
僕は言っている意味が全くわからなかった。プレゼントが気に入らなかったのか、何か問題があったのか。どうしたの?と聞こうと思ったところで彼女が話し始めた。
「プレゼント、とても嬉しいけれど受け取れません。私、会うのは今日で最後にしようと思ってきたんです。」
目の前が真っ白になった。ただ、核爆弾が落ちて目の前が見えなくなったように僕は硬直していた。彼女は続けて喋っているが、全く僕の脳には届いていなくて、ただもう会えないという言葉だけが響いていた。
その後の会話はよく覚えていないが、とりあえず食事を終えて、帰るために車を運転していた。彼女は車の中では黙ったままだった。そんな中、彼女の言った言葉が一つ思い出された。先輩はいつも、相談することもなく自分の思うようにしていると。
いきなり、バーーーンッとすごい音がして、車のタイヤがガタガタと地面の抵抗を直接伝えはじめた。バーストした!僕は思った。悪いことは重なるもので、山の中を走っている途中に何かを踏んだのか、タイヤがパンクをしてしまったのだ。彼女はびっくりしたのと周りが暗いのとで今にも泣きそうである。
「優香ちゃん、大丈夫。すぐに保険会社に連絡して車が来るからさ。タクシーを読んであげるから先に帰ったらいいよ。」
当たりは真っ暗で自分も不安でいっぱいだったが、最後くらい男らしいところを見せたかった。
思ったよりタクシーはすぐに来てくれたので、彼女の泣き顔を見なくて済んだ。彼女は申し訳なさそうに何も言わずに車に乗った。僕は運転手に2万円を渡して、彼女を乗せたタクシーを見送った。暗闇の中に1人残され、地の底に引きずり込まれるような不安を感じていた。暗いからではないんだろうな、と自分に問いながら空を見上げた。そこにはキラキラとたくさんの星が輝いていた。
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