栗林 健太 真実を打ち明ける勇気
タクシーが病院へ着いたのが午後一時を一五分過ぎた頃だった。横浜の自宅から東京の品川までこれほど料金が掛かるとは思わなかった。なんなら電車で十往復分できるくらいだ。
と、そんな悠長な考えをしてる場合じゃない。
途中、ビルの立ち並ぶ景色に自分が溶けこまず、浮いた存在だと感じた。サラリーマンの街に保育士がのこのことやって来たことに街自体が拒絶を示しているように感じたからだ。
いま俺の目の前には真っ白な外壁が高々とそびえ立っている。品川区立総合病床センターだ。
まだ真新しく見える外観は来るものに安心感を与える。ここに来れば最新医療が揃い、助けを求める人たちを全て救える条件が整っているはずだと、誰も疑わないから。
ここにつばさがいるんだ。下から見上げる、夏の青空に浮かんだ要塞のようにも見える。雲の上に建つ堅牢な城にも思えた。
行きの車内、京子との話でつばさは事故に遭い入院していることを知った。一刻も早く病院に着きたかった、平日の日中とはいえ都内は混んでいて、思いのほか時間が掛かったことで、やっぱり電車の方が早かったなと、また自分勝手な考えが浮かんだ。
「香織、今着いたよ。家族の待合室に連れて行けばいい?」京子は横目で俺を一瞥し、配送品を届ける配達員のような会話を電話でしてる。相手は香織だ。
ここまで来る間で、香織が俺の女装に気付いたことは確かで、男の姿で彼女の前に立つのは、今日が初めてだ。自分が緊張するよりも謝罪の念のほうが大きいことに、やはりつばさの事が気懸かりだと、ちょっとした安心感がある。
つばさがここで入院しているのに安心とは、また不謹慎だと自分を戒めなきゃな。元を正せば自分の女装のせいでつばさが大変なことになっているのに、会わせる顔もない、掛ける言葉も正直思いつかない。
ただ、自分のことを二の次で、つばさのことを、心底心配できる自分で良かったと、そのことに安心した。
「着いてきて」京子が電話を終えて、俺に声を掛けてきた。
「あの……」
「なに?」
「……いえ。何でもないです」
「君を警察に突き出すようなことはしない」ただし、と京子は言葉を続ける。「決して私は、君を許さない。地獄に落ちる事を望んでいるから」
「俺も、出来る事ならそれを望んでいます。二人に合す顔もありません」
「そうやって逃げるんだね。会わす顔もない、裏を返せば会わなきゃ謝罪しなくて済むとでも思ってるの? 君みたいなタイプ、香織が一番嫌いな人間だよ。卑怯で卑屈で幼稚で短絡的な男を」
ありとあらゆる憎悪をバットで詰め、俺に打ち返してきた。とても強くて速いボールだ、とてもキャッチできそうにない。避けることもできずに言葉のボールが胸に突き刺さり、言葉が出ない。
大人しく京子に着いて歩き、大きな病院内を南北へと突っ切って歩いた。ロビーでは会計待ちの人たちで溢れかえり、診察待ちをしている時よりもどんよりとした空気で充満していた。
浮かない顔をしてるのは診察の結果が芳しくなかったようにもみえたが、皆が会計呼び出しの電光板を固唾をのんで見守って、合格発表を待つ集団にも見えた。
診察もさることながら、会計でも時間を食うのは何故だろう。難病を治せる優秀な医者がいても、会計の待ち時間を改善できないのは患者としては頭を捻らざるおえない。
「こっち。エレベーターに乗るよ」京子はエレベーターに向けて真っ直ぐ突き進む。俺は香織とつばさがいる場所に近づくにつれて、足取りが重たくなって、自分の意識に靄が掛かったようになる。
駆け足や、速足でもないのに二百mを全力で走り終えたような、急に、胸の圧迫感とゼーゼーとなるような息苦しさに襲われた。
このままだと卒倒するんじゃないかと、先ほどの京子の言葉に『気絶する男』が加わりそうな、そんな失態だけはしたくなかった。
エレベーターに乗り込み、俺は奥の壁にもたれ掛りながらジッと階数の表示が変わるのを見つめていた。
程なくして四階の小児科病棟へ俺たちを乗せたエレベーターが着いた。ホールをすぐ右手に曲がる、突き当りには電話を出来るスペースと自販機が並んでいた。
その脇に引き扉の家族待合室が見えた。
「ここよ」京子が立ち止まり俺を振り返った。「覚悟は、出来てる?」唐突に京子が問う。
この場合の覚悟とは、一体なんだろう。扉を開けた瞬間に、銃口が俺にむけられ、その引き金に指を掛けているのが香織だったり、またはドッキリ大成功と書かれたプラカードを持ったつばさが待っていたりするんだろうか。
俺が頷くよりも先に、京子は取っ手を握りしめ、扉を開きだしていた。
開きかけた扉の隙間から、四人掛けのテーブルとイスが見えた。手前の椅子に肘をつきうなだれた様子で香織が座っていた。
扉が開いたのに気づき神妙な面持ちで、香織がこちらに振り向き、立ち上がった。
俺の自宅で出迎えるような表情とは違い、覇気のない疲れ切った顔で、俺の顔を見ている。その眼にもあまり生気が感じられない。
今日一日で、一体どれだけの心労がたたればこれほどに酷い顔になってしまうんだろう。そう考えると自分のしでかした、事の重大さに気づかされる。
京子の言うとおりだ。覚悟ができていなければ俺は香織のその表情を直視できなかった。
今の香織の心境のすべてが見て取れる、それくらいに魂の抜けた、人間ではない人形のように、無言のまま俺と向い合うように立っている。
「健太さん……。ですよね?」やっと声が出た、という感じで香織が絞り出すようにいった。先日まで女性として見ていた相手が、男と再認識してから話すには、少なからずの動揺は仕方ないことだろう。
むしろ妙に落ち着いていて、入った瞬間に喚き散らされても仕方のないことだと、覚悟もしていた俺には意外な反応でもあった。
その静けさゆえに、つばさの容体が更に気になっていた。
「おはよー!」突然、つばさの声が頭の中で響く。
「おはようございます」笑顔のかおりもつばさに追従し挨拶する。俺はいつも通り、いつもの時間に二人を自宅で迎えていた。
「土曜日ね、つばさとママで遊園地に行ってきたんだよ!」
「そうなん! たくさん遊べたか? 健太さんも行きたかったなぁ~」
―――健太さん? なに言ってんだ俺、そこはみなみさんだろ……
「だって健太さん誘ったのに、二人で楽しんできてくださいって言ったじゃない」香織が頬を膨らまし、あどけない少女のように怒る。
「じゃない!」つばさも真似る。
―――二人揃って、なんで俺を健太さんって呼ぶんだ? あぁ、そうか、これは現実じゃない、幻想なんだ。
「ごめんごめん! また今度誘ってな」
「違うでしょ! 誘うのは私たちじゃなくて、健太さんのほうね!」
なんて幸せな幻想なんだろう。俺は、自分を偽ることなく二人を前にして振舞えてる、俺が一番望んでいた、『夢』が目の前に広がっている。
過去の自分がどんなに頑張っても手に入れることができなかった、自信を持って自分が男であることを示せる、胸の内に秘めていた想いだった。
自分でも諦めてかけていたときに、二人と出会えた。
香織には後ろめたさがあったけど、つばさには素の自分を見せれるようになった。
男らしくない、頼りにならないけど、身の丈に合った自分で居られた。気を遣わないでもいい、そばにいるだけで心が和らぐような存在だった。
周りの人からの偏見に悩んでいた俺を、つばさは、『そんなことは、気にするほどのことじゃない』と思わせてくれた。
小さな体と心で、無知な俺にありのままに生きる、道を示してくれた。
生きるのが辛かったのは共感してくれる人が居なかったから、自分を偽っていたのは、その方が楽だったから。
いま俺の目の前にあるのは、幻想を何万倍も、黒く、苦くした現実だ。
俺が生きてきた人生より、暗黒の世界に苦心の雨に打たれてる二人が取り残されている。
俺を救い出してくれた二人が、どうしてそっちの側にいなきゃならないんだ。
俺には、いったい何ができる……。
「ご、ごめんな、さい……」いつの間にか俺は香織の前に跪いて、香織の顔を見上げながら謝っていた。
「……健太さん?」
思考が先に立つよりも、心の底から、謝らなければならないという想いが、身体を支配していた。
香織の顔がはっきり見えない、度数のあっていな眼鏡ように視界がぼやけ、その表情が怒っているか泣いているのかもわからないほど、俺の眼に涙がたまっていた。
「ほん、とうに……。ごめ、んなさ……、い」地面に額を押し付けて、ひらいた唇が床に触れるのも構わず、俺はまだ謝っていた。
「健太さん、顔を、あげて」微かに俺の耳に届いた声は、不安と優しさが混ざり合って滲んでいた。
「でも……、俺のせいで、つばさが、つばさが……」つばさの名前を口に出すと、胃から込み上げてくるモノが喉の奥からあふれ出てきそうになった。なんとか飲み込み胃へと戻し返した。ただ嗚咽まじりの泣き声だけはどうにも止まらず、呻きながら俺はうずくまっていた。
「なにも、全てが健太さんのせい、ってわけじゃないわ。私にも非がある」香織は泣き崩れている俺の肩に手を触れて、呼びかけた。
「でも、でも! 俺の、せいで、つばさが事故に遭った……って」
「事故? つばさが、事故に遭った!?」香織の慌てぶりに、涙でぐしゃぐしゃに濡れた顔を、俺は上げた。俺の言葉が信じられず訝しがったようすにみえた。
その元凶となった人物が誰なのか香織が気付いたらしく、俺の後ろに立つ京子へと視線を向けていた。
「京子! あんた何言ったの?」
「私だって彼に言いたいことがあるって言ったでしょ? お灸を据えただけ~」ピンと張りつめた空気の中で、京子は気だるそうに答えた。まったく気に留めた様子もなく、悪びれることもなかった。
「え?」重く張りつめた空気が一気に軽くなったような気がした。冗談を言ってる場合じゃないはずなのに京子の口から出た言葉は、真剣とは程遠くドッキリ大成功と言わんばかりの空気感を作り出してた。
「俺に話したことは嘘だったんですか? つばさは事故に遭ったわけじゃないんですか? つばさはいま、どうしてるんですか?」
「あのさ、そんなに疑問符を並べないでくれる? あたしだって好きで嘘ついた訳じゃないのよ? そのへん分かってるの?」
オウム返しのように、同じだけの疑問符を返されて、俺は口をつぐんだ。言わんとしてることは分かっていたから、言い返せない。
車中、京子の話に耳を傾けていた俺は、京子のつばさと香織に対する愛情がヒシヒシ伝わったからだ。ただの幼馴染で片付けられるほど割り切った関係じゃないことは、聞いていて分かった。
姉妹のように、叔母のように、二人との血の繋がりがあるように接してきた彼女だからこそ、俺に対して復讐心が込みあげてきたんだ。
どうにか俺を傷つける術がないか、京子なりの答えが、『嘘』だったんだ。
そして、その嘘が、俺を試すためのものだったことも分った。
「あたしさ、思い出しちゃったんだよね。その時、この子の本気で心配してるんだ、って正直思った」京子は自分の秘匿を打ち明けるように、話した。ただ、何を思い出したのかまでは明らかにしなかった。
「香織、この子を責めるだけ無駄よ。私以上に、つばさのことを心配してたんだから」
ありがとうございます。声に出して言ってしまうと、京子に怒られる気がしたので、胸の中で礼を告げた。
「あの、香織さん。自分の今までの行いは決して許されることでないのは自覚しています。謝って済む問題でもないです。未熟で幼稚な自分の身勝手な行動に二人を巻き込んだこと深く反省しています、申し訳ありませんでした」この場につばさが居ないことが悔しい。俺がつばさに謝らなきゃいけない事は他にもあるのに。
「ちょっとさぁ、あたしは巻き込まれた人に含まれないわけ?」
「京子、横から口出しないで」クギを刺すように香織が京子を睨みつけながら言った。京子は口を尖らせて、俺の横を通り抜け、ふて腐れたように四脚あるうちの一つの椅子に腰かけた。
「もちろん京子さんにも、大変不快な思いをさせてしまい、申し訳ありませんでした。女装をして保育をする、なんて、お子さんを預ける親御さんからしてみれば憤りしかないでしょうから自分がどんな叱りを受けても、当然です」
「それを勧めたのがあたしだったからね……」また口を挟んだ京子に対して香織は、今度は何も言わずに床に視線を落とした。負い目を感じさせてしまったことに対する気持ちの表れだろうか。
本当に二人の仲には強い絆があると、俺は感じた。
「自分が悪いんです。他人の目に自分が、『男らしくない』と映っただけで、自分を見限り。生まれ変わりたいと軽い気持ちで女装を始めて、そこで得られたものなんて偽りの満足感だけなのに、自分には、これしかない、って抜け出せなくなってました。人を欺く快感が忘れられなくて、生まれ変われた訳でもないのに、女装だけが生き甲斐になってました」
一息ついて、俺は香織の顔を見上げた。ふと視線が合い、俺の真偽を確かめているような真剣な表情だった。視線を合わせていることに苦痛を感じ、避けるように話を続けた。
「前に勤めていた保育園で、保護者の方にどういうわけか女装をしていた事が知られ、それがきっかけで保育園を辞めたんです。仕事と趣味との分別ふんべつはしてたつもりなのに、性癖、なんでしょうね、俺を理解してくれる誰一人、いませんでした。でも結局、そこから何も学ばなかった俺は、仕事と趣味を一緒にして、香織さんたちの仕事を受けたんです」
「本当に最低な人間です」そう言って俺は、香織に頭を下げた。
「理由は分かった。だけど、わだかまりが消えたわけじゃない。わたしは健太さんとどう向き合うべきか、まだ答えが出ないし今も後悔してる。もし、つばさが健太さんに出会わなければ、って考えちゃうの。母親として」
「後悔、ですか」確かに、香織としては息子が病院へ運び込まれるような事態を、後悔しない訳がない。でも、京子が言っていた、交通事故は嘘だった。じゃあなんでつばさはこの病院にいるのだろう。
「あの、つばさはどうしてここに来たんですか」
「気を失って、倒れただけです」香織の口調が、心なしか鋭くなった。その鋭く尖った先が、俺に向けられているような、気がした。
つばさが倒れたのには、俺が関係している。暗にそういわれてる気がして、思うように口が開かなくなってしまった。
「別に健太さんが気にすることじゃないわ。私たちの問題だから、今日のことは特別、関係してるわけじゃない」
「関係ないのなら、俺が、ここに呼ばれる理由がないですよ」つい感情的になってしまった。関係ないって? 俺が男だったからって、今までの時間が全てなかったことにされるのは、納得がいかない。
「そうね、いい加減に、素直にならなきゃ、ね。つばさに会わせるから、着いてきてください」
先の見えない斜めに曲がった直線の廊下を右に折れると、病室の前で壁に、腕を組み背を預けて立っている男性の姿が、視界に入った。
「仙波さん!?」いち早く反応したのが少し前を行く香織だった。なるほど、確かに噂通りの男前だった。
「居ても立ってもいられなくなりまして、来ました」つばさの容体が気になり、仕事も手に付かなかったと仙波さんが話した。
「そちらの彼が?」二人のやり取りを黙って聞いていた俺を、一瞥して香織に確認するように、仙波さんが訊ねた。
俺が仙波さんの事について、香織から聞かされていたと同様に、彼もまた香織から俺のことを、いや、みなみさんの事を聞いていたに違いない。
思えば香織の話ぶりが恋をしている女性だったことから、俺も流石に乗り気で聞くことができなかった。保険という訳じゃなかったけど、その行いが香織の傷を深くしなくて済んだかなとふと考えた。
「こちらが、健太さん、です……」香織は俺の顔をちらりと見て紹介をした。
「あの、初めまして。栗林健太、です」
仙波さんは俺の声を聞くや否や、顔をしかめた。
「なるほど。確かに君の声色は女性のようにも聞こえる。香織さんが気付けなくても仕方ないな」初対面の感想としてはどこか差別的な感情が含まれていた。
「話には聞いてるよ」と既に俺のデータを持ち合わせてることを伝えてきた。ただしそれはみなみさんの事として、の注釈つきだったが。
仙波さんは、剥き出しの敵意こそ向けては来ないが、初対面の相手に払うような敬意も持ち合わせていなかった。
やけに冷たい鋭い視線が俺に向けられている。まるで針と風船のような、触れれば破裂しそうな程、俺の緊張度は高まっていた。
「色々とご迷惑おかけしまして、申し訳ありませんでした」
「僕に謝られてもね」苦々しい表情を浮かべて、仙波さんは大きな息をひとつ、吐いた。もちろん仙波さんに謝罪したところで事の解決が図れるわけでもない。ただ、彼の不快感を拭い去るには謝るしかない。
「いえ。本当にすみませんでした」俺は頭を下げた。
「謝るのは君の勝手だ、好きにしてくれればいい。ところで香織さん、つばさ君の具合はどうですか。中に誰も居なかったので様子だけ見たんですが、また眠っているみたいですね」
胸の奥でチリっとした痛みが走る。扉一つ隔てただけの距離なのに、つばさとの距離がまだほど遠いように思える。いまは香織がつばさの状況の説明を終えるまでは、中には入れない。
「その……つばさは、性同一性障害じゃ、ないかって」
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