栗林 健太   近づくために

 まるで折に閉じ込められた猛獣のように、あっちに行ったりこっちに来たり、落ち着きなく部屋の中を俺は歩き回っていた。


 別に腹が減っているわけじゃないしイライラしているわけでもない。むしろ頭の中はスッキリとしている。考えていることはただ一つ、「どうして香織とつばさが来ないんだ」口を突いて出た独り言が、いまやこの部屋唯一の同居人だった。




 朝の七時を過ぎても二人は来なかった。いつもより遅れているのだと思って、暫く待っていたが七時半を過ぎて連絡もなかった。


 八時前に状況を確認しようと香織の携帯に電話を入れてみたが反応はなく、メールも送ったが返信もない。


 今までこんな事がなかったため、心配と不安が胸を焼き付ける。しかしお腹というものは不思議なことに空くもので、連絡がないまま午後になりお昼ご飯で食べる予定だったパスタを一人で食べる事にした。


 ぐつぐつと煮立つ鍋の前に立ち冷蔵庫から取り出したパスタの面を、鍋に放り込んだ。




「はてさて、どうしたものか」腕を組み人差し指でトントンと腕を叩く。もしかして今日は休みの予定だったのか? 土曜日のお迎えの場面を思い出す。


 香織からはそんな事は伝えられてなかったはず。だとすると、やはりなにか急な用事が出来たのだろうか?


 ゴーと唸り鍋から白い湯気を啜るように食べる換気扇をボンヤリと眺めながら、あの日のやり取りを順序よく頭の中で再生する。


「最初にお土産を貰ったよな。面白い恋人とかいうお菓子とフェイスタオル」北海道の銘菓をもじったお菓子で、でも味は普通に美味しかった。つばさが見た途端食べたいと言い出したのでその場で包装を剥がして三人で食べた。


 こうして三人の小さな幸せを積み重ね、毎日が過ごせることを俺は複雑な気持ちで受け止めていた。


 香織にとってはまさに小さな幸せだと思う、公私ともに順調な日々を過ごしている彼女に、もはや悩みなどない様に感じられた。


 出張の帰りだというのに疲れた様子も見せず、俺に笑顔でありとあらゆる出来事を話してくれた。


 関西圏での出店の構想、新作のペチュニア柄の浴衣が好評なこと、そして仙波さんとのことなど。


 あまり知りたくない情報まで出され、嫌という間もなく喋る香織に複雑な心境だった。


 彼女の幸せそうな表情を、女装しながら見守るしかない。とても幸せそうな、喜びにあふれた顔だった。




「所詮は小さな幸せ」ここ最近、独り言をもらすとき、ネガティブな気持ちになっていることが多い。


 俺はすでに気づいてしまったいたから、小さな幸せの積み重ねなんてのは幻想で、形に残るものなんて存在しない。


 つばさとの思い出はデジカメの中で、一年ごとに区切られるたった一つのフォルダに残るだけ。次の年は、絶対にない。


 頻繁に会えるほど俺には経済的余裕はないだろう。つばさが卒園して手すきになったら、香織が自分の会社で働いてほしいと誘ってきた。


 もちろん、『みなみさん』としての自分にオファーをくれただけで、健太としての求人じゃない。きっと求人票に男性不可と書かれているかも。


 お先真っ暗だ、鍋の中ですっかりゆで過ぎた麺は、俺のネガティブを吸い込んだように大きく膨らんでいた。




 午後二時を過ぎた。状況は変わらずこう着状態と言ったところか。電話もメールも音沙汰なしで、もう待つのも飽きてきた。


 一度、香織の家に向かおうかと思ったが、さすがにそれは失礼だと思いとどまった。今日はとにかく待つと決めて、いつもなら化粧を落としまったりと過ごしてる時間だが、あてもなく指名を待つキャバ嬢になった気分だ。




 ――ピンポーン




 不意にチャイムが鳴り心臓が飛び出すかと思った。香織たちか? すでに今日は来ないものだと考えていた。連絡の一つも入れずに家に来るような無粋な真似は絶対にしないはずだから。


 じゃあ外にいるのは誰だろう。期待はしてないが、やはり焦燥感に駆られる。


「はぁい。今出ます」ドアのカギに手を掛け、のぞき穴から鉄の板一枚隔て共同廊下をうかがう。そこに一人の見知らぬ女性が立っていた。いったい誰だ? 


 ガチャとドアを開き、「どなたですか?」と声を掛けた。彼女は返事もせず、ただ俺の顔をじっと見つめてた。その表情に嫌悪感みたいなものが見え隠れしてるようにも感じた。


「あの、なにかご用ですか?」


「あなたが、みなみさん?」


「え……。はい、そうですけど」一向に俺の問いには答えず、代わりに俺が彼女の問いに答えた。


「そう、じゃあ行きましょう。着替えてくれる?」彼女は視線を腕時計に落とし、急かすような視線を再び俺に向けた。


「いや、あのぉ。状況か飲み込めないというか、どちら様でしょうか?」


「立花京子というものです。香織の友達、って言った方が早いかな」あっ! と俺は声を上げて、親しげな表情になりかけた、その時、「君」と、顔を合わしてから一切表情を変えない京子が俺に向かって声を掛けた。


 あまりにも自然で、俺の首をクッと締めつけるような、「君」という言葉が、喉の奥から声を出すのを許さない。


「君、男だよね?」さらに強く、グッと喉を締める。「取り敢えず、化粧落として着替えてきてくれる。時間がないから」簡潔に用件だけを伝えて、質問には一切答える気はない政治家然とした物言いに気圧され、「はい」と地の声で答えて、頷くしか出来なかった。




 いったい何処へ俺を連れて行く気なのだろう。着替えているあいだ、ありとあらゆる可能性を考えた。


 まず第一に、俺が男だとバレていることが気に懸かる。いつどこで気付かれたのだろう……。


 土曜日、日曜日は出かけずに家でゴロゴロしていたし、連絡も取らなかった。心当たりがまるでない。


 まさかつばさが口を滑らせ、俺が男であることを喋ったのか? 一番考えられる可能性が、それだった。


 つまり、つばさが白状して、怒った香織が、京子さんに頼んで、俺を何処かへ連れて行こうとしている。


 行き先が、警察署や港のふ頭で無いことを祈りたい。




「お待たせしました……」短く刈り込んだ短髪に京子はギョッとした表情に変わった。さっきまでは能面のように表情一つ崩さなかったのに、動揺を隠す様子も見せない。


「本当に男だったんだ」頭のてっぺんからつま先まで、観察するようにまじまじと眺められる。元居た保育園の園長のように気持ちの悪い視線ではなかったが、訝しげな視線という意味では同じだった。


「はい……。すみませんでした」本当にって。今の今まで俺が女だって思ってたのかな。確証もなく男だと言える京子は、ある意味肝が据わってる。サバサバした性格が俺には苦手に思えてきた。


「下にタクシー待たせてるから、必要最低限のモノだけ持ってきて」


「このまま、行けます」


 また京子が俺の全身をくまなく観察する。そしてサーチライトのような鋭い視線が右手首に集中しているのが、分かった。


「あんまりチャラついた格好は、して欲しくないんだけど」怒気をはらんだ言い方だった。


「外したく、ないんです」京子から視線を遮るように手でブレスレットを隠しギュッと握った。シャラシャラとした手触りにどこか安心する。


「……分った。じゃあ行きましょう」下に向かおうと踵を返した時、なにか思い出したように天を仰ぐように何事か呟いた。


「二人に会えるのは、最後かもしれないよ」と、俺はとうとつな宣告を受けてしまった。




 マンションの下に一台の黒いタクシーが停車してた。地元の駅によく停まっているタクシー会社のものだった。おそらく京子が駅から乗り付けて、そのまま目的地に向かうつもりらしい。


 京子が先に乗り込む、俺は先ほどのセリフが脳裏にこびり付いて足が重たくなっていた。これに乗り込んでしまえば、二人と最後のお別れをしなくちゃならないのかと。


 たとえ乗らなかったとしても彼女なら、「あっそ、じゃあサヨナラ」サッパリとした晴れ晴れとした表情で言われてしまいそうな気がした。


 京子のいうことが本当なら、ちゃんと二人に会って、お別れをした方が良いとも思えた。俺がすでに男だとバレていることも、素直に謝罪したい。


 香織が受け入れてくれるかどうかは分らないけど。


「ほら、早く乗って」開け放たれたドアの向こうから、覗き込むように京子が云った。運転手もサイドミラーで俺の様子を盗み見ている。こんな暑い日に冷房を使って車内を冷やしているのにドアの開けっ放しじゃ無駄じゃないか、とさも言いたげに見えた。


 意を決して、俺は乗り込んだ。その際、日光を浴びて熱くなった車体に右手を触れてしまい皮膚がチリッと焼かれた。これはきっと地獄の業火の一段階だと、心の中で、思った。




 走り出してから数分、京子は喋る気配を見せなかった。乗務員に行先も告げることなくタクシーは走り出した。


 俺が乗る前から行き先を告げていたのかもしれない。「今日も暑いわね」また唐突に京子が呟いた。ひとりごとのようにも、喋りかけられたようにも聞こえる。


 ただ京子は俺の方は向かずに、車窓から行き過ぎる風景だけを眺めていた。


「私と香織は小学校からの付き合い。まぁ腐れ縁ってやつでさ、いろいろ見てきたんだよね」今度は昔話を語るような口ぶりで、相変わらず窓の外に視線を向けている。


 俺は口を挟まず黙ったまま耳だけを傾けた。京子もそれに気付いているのか、喋り続けた。


「三重から大学に通うため上京してきたんだよね、私たち。同じ道を歩もう、切磋琢磨して高め合おうってさ。同じ時間を過ごしてきたんだよ。お互いに兄妹が居ないくて、血の繋がってない姉妹みたいなもん、かな。何でも話し合って、さらけだして、喧嘩もしたし、それでも今も一緒にいるんだよ」


 その一言一言を噛みしめて、俺の意識に馴染みやすくなるように、噛み砕いて喋っている。顔を合わせてまだ十五分程度なのに、彼女の胸中が伝わってくる。


「あいつの男運のなさったら、正直、引いちゃうんだよね。外見も良いし素養もあたしと違って有るからモテるけど、選んだ男は必ずダメを兼ね備えた人ばっかり。浮気に借金、ギャンブルに最低なのは暴力も、とにかくそんな奴のどこが良いのか分らない男ばっかり選んじゃうんだよね」


 たしか、花火大会があった日にそんな話を聞かされた。自分には男を見る目がない、と。




 香織の品の良さにどうして同じレベルの男性が寄って来ないのか不思議だった。彼女の何が、問題ある男たちを引きつけていたのだろう。最終的には本性を見抜けない私が悪かったと香織は隠しきれない悲しみを覗わせて、俺に話した。


 タクシーが


 国道1号線を北上し横浜駅を通過した。どうやら東京方面に向かってるらしい。未だに行先は伝えられず、京子は香織との思い出話を続けた。




「社会に出て三年目、同僚の結婚式で、香織はアイツと出会った。つばさの一応の父親ね。付き合ってから直ぐに妊娠しちゃってさ、いとも簡単に未婚の母親になるって決めちゃたんだよね。あの時は驚いたなぁ。妊娠したこともそうだけど、堕ろさないで産もうって決意したときの、香織のスッキリとした表情がね、今でも忘れられないの。あの決意がなかったら香織も私もつばさに出逢えてなかったんだよ。まぁクズなりに父親もいたからだけどさ、とにかく、つばさが産まれてきてくれた」


 産まれてきてくれたといった直後に、京子は初めて俺の方に顔を向けた。産まれてきたときの表情が思い浮かぶくらい、京子はにこやかな笑みを俺に向けた。けれど、瞳だけが少しばかりの悲しさを含んでいたことで、俺の胸が急にざわつきだす。


 この思い出話は、自分の苦衷くちゅうを和らげたい、胸に支える苦しみを取り除きたい。そんな気持ちが京子の、言葉の端々に感じられるような気がした。




 ―――まさか、そんな……




「つばさはさ、あたしにとって甥っ子なんだよね。この六年間、近くでその成長を見守ってきた。オムツも換えてミルクだってあげた。夜泣きがひどかった時期も香織の家に泊まって交代で抱っこしながら朝を迎えたこともある。保育園に入ったころ、人懐っこかったあの子がいつの間にか人見知りしだして、朝の預かりのときにわんわん泣いてなこともあったな」




「そんなつばさでも、少しずつ成長してたんだよね。いつの間にか文字が書けるようになってて、私に手紙を書いてくれて、『きょうこおばちゃん、すき』って、おばちゃんなんて年じゃないんだけどさ、やっぱり嬉しもんだよね。だって、つばさは私の甥っ子だもん、血が繋がってなくても、甥っ子なの……」


 そこで自分を落ち着かせるように京子は、ふぅと深いため息をひとつ、吐いた。


「羨ましいです」京子の話を聞きながら、俺の中に新芽のように感情がわき上がり素直な感想として、こぼれた。


「羨ましい?」京子は俺の言葉を聞いて、一瞬かたまった。まるでその言葉を生まれて初めて聞いた小学生のような表情になり、言葉の意味を乞うように暗唱した。


 京子の突き刺すような視線が、俯きながらブレスレットを触る俺をとらえているのが分かる。


 あかの他人の俺に、友人の子供との関係を、『羨ましい』と思われることが気持ち悪いのだろう。かりに俺の友人に子供がいたとして、その子どもと俺の仲がそれほど良好じゃなかった場合、俺が羨ましいと言っても、気分を害するまでいくはずがない。


 なのに、京子はあきらかに苛立ち、その矛先をいま俺に向けている。恐るおそる視線を京子にむけた。普段は優しく可愛らしい表情なんだろう、怒っていても奇麗な顔立ちで、俺を睨んでいた。俺の何が彼女を怒らせたのか、良くわからない。


「ごめんなさい」


「なんで謝るの?」


「怒ってるからです」


「怒ってない!」


 語尾をかなり強めて京子が否定した。やっぱり怒ってる。車内の空気を入れ替えるためか運転手が助手席側の窓を薄く開いた。静かだった車内にアスファルトを蹴るタイヤの音やヒューヒューと鳴く風切音が、流れ込んできた。ちょうど鶴見川を渡る橋に、タクシーは差し掛かっていた。




 京子が背をシートから離し、俺の方に体を向ける。


「君には解らないんだよ、三か月でこんなに人の気持ちが揺れ動くなんて、わからないんだよ。その人たちを守るために、傷つけないために、一人で抱え込んでずっと黙り込んで、守っていたんだよ。苦しくて辛くて、逃げ出したい衝動に駆られて……。自分を優しく包んでくれる、場所に行きたくて……」




 ―――守っ、てた……。




「香織が君のことを男だと気付いて、事情を聞こうとしてもつばさはずっと口を開いてくれなかった。やっと喋ったと思ったら君をかばうばかりで、そのあとは香織と口をきくこともなかった。子供が、自分を騙していた相手を守ろうと必死になってるの姿を見て、どんな気持ちか、わかる?」


 京子にとっての大切な人が、その二人なんだと、俺はわかった。泣かないよう必死に涙をこらえて、俺に訴えかける。




 ―――きっと、俺のせいで……。




 どんなに俺がつばさと香織への気持ちを伝えても、いまの京子の熱量にはかなわないような気がした。


 俺だって! そう叫びたい。でももう、それも出来ない。


 京子のようすから見て、俺のせいでふたりはいま、大変なことになっているんだ。深く考えたくない、車がどこに向かっているのかも知りたくない、どこかでUターンして家に引き返してくれたらいいとさえ思った。




 ―――家に戻ったら、またあの日々が始まるんだぞ。




 このまま向かっても同じ事だろ……。行かない方がマシだよ、見たくないものや知りたくないことをわざわざ自分から出向いていくなんて、俺には耐えられない。またつまらない日常生活を送るよ。




 ―――そうやって、また逃げるのか?




 京子が言ってたじゃないか、「二人に会えるのは、最後かもしれないよ」って、じゃあ会っても次がないんだったら、行っても意味は、ない。




 ―――意味がない? 自分ひとりで物事を片付けるなよ。




 今の俺に、何が出来るんだよ。




「つばさはね、君に会いたくなって」京子は膝に置いたこぶしをギュッと強くにぎり、続けた。


「会社を飛び出して右も左もわからない都会の真ん中で君に会いたくて必死に駆けて」そこまで一気にいうと、京子は限界まで握りしめたこぶしから、ふっと力を抜いた。


「つばさは車にはねられて、病院にいま、いる」


 運転手がブレーキを踏んだのか、車のスピードが若干緩まった。


 速度が徐々に遅くなる。窓に映る景色がスローモーションになって、やがて固まった。キャンパスに描かれた油絵のように、それは質感を伴っていた。


 信号は青のはずなのに、ましてや渋滞でもないのに車は進まない。俺はこのまま動かないんじゃないかという不安にかられる。




 早く動いてくれよ。




 ―――帰りたい?




 帰れるわけないだろ。




 ―――行っても意味ないんだろ?




 俺には意味がある。行かなきゃダメなんだ。




 ―――悲しんで傷つくだけかもしれない。




 それでもいい、俺は、「つばさに、会いたいです」


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