石崎 香織   揺らぐ心

 出張から戻り私は二日間をゆっくりと休養に充てることができた。土曜日はつばさを迎えにいった後、みなとみらいのコスモワールドへ遊びに行った。


 観覧車に乗ったのも久しぶりで、改めて高い所から見下ろす横浜の港は、海面から立ち昇る陽炎に覆われて、木更津がうっすらと見えるほど晴れていた。


 港を望みながら、約十五分間隔で回転する鉄の箱の中で、私は出張の成果を噛みしめていた。


 大阪での顔合わせにも手ごたえを掴め、幸いなことに次の機会もいただけた。


 実りある出張となりその成果を、白い恋人ならぬ面白い恋人というお菓子を手土産と一緒に京子には報告するつもりだ。




 港を展望するつばさの横顔を見つめ、右手首に着けたビーズ製のブレスレットに視線を落とす。


 つばさから貰った、初めての誕生日プレゼント。


 昨日つばさを迎えに行ったとき、初めてその日が自分の誕生日だと思い出した。


 自分がまだ子供だった頃、親の誕生日を祝ったどころか、誕生日を覚えていたか怪しいほど記憶がない。


 そんな私と違って、つばさはちゃんと誕生日を覚えていて、さらには手作りのブレスレットまでくれた。


 先月つばさと買い物に行き、雑貨屋さんで探していたビーズの材料が、まさか自分への誕生日プレゼントだったとは夢にも思わなかった。


 綺麗に編み込まれたビーズは、太陽の光を浴びて琥珀のように輝いて見えた。




 私だけのプレゼントかと思いきや、つばさとみなみさんの二人も同じブレスレットがあった。


 世界でたったの三つしかないこのブレスレットを、つばさはほぼ一人で作った。小さいビーズを横七列で編み、配色を変えて小さなデザインが施されていた。


 ずいぶんと手の込んだブレスレットで、花火、ホタル、スポンジボブなどを模ったデザインがとても可愛らしい。


 器用なみなみさんの手助けもあってめげずに最後まで頑張れたと、得意げな顔で話してくれた。


 観覧車が一番頂上に着いた。こんな高さでも太陽は私たちの遥か上からこちらを見下ろしている。


 太陽を見上げるつばさの表情は眩しいのか幸せなのか分らないほど明るかった。




 日々が充実の度合いを増して過ぎていく。幸せの階段が視覚的に認識しながら上っていくような感覚。


 身体を焦がすような日差しさえ幸せを感じる。体をむしばむ熱すら幸せなんてちょっと異常かな? わが身に起こることながら不思議な出来事だった。


「ママ、暑いからジュース飲みたい」つばさにとって暑さとは喉の渇きを助長するだけのモノみたい。


 いつもの通り暑さにやられた様子で、汗に染みた帽子を、目が隠れるほど深くかぶりジュースをおねだりした。


「そうだね、私も買いたいものあるからコンビニ寄って行こうね」


 近頃のコンビ二は品揃えも豊富で、どこにでもあるので利用率が高い。経営者の観点からみると、上手いの一言に尽きる。


 全国で万を超える店舗数を誇りながら、収益を上げている。そして顧客にもメリットのあるサービスを展開することで、リピーターも獲得している。


 私も見習わなきゃと来店するごとに経営者心理をくすぐられる。




「やっぱりここは天国ね」店内の涼しさについ本音が漏れた。さっきまで夏の日差しも幸せだと言っていた自分はどこへ行ったのか。


「みなみさんも同じこと言ってたよ」私の溢した言葉につばさが反応した。金曜日にコンビニに来たのかな?


「みなみさんとここに来たの?」


「うん! つばさにアイス買ってくれた。二人で分けて食べたよ」あら、仲が良くてよろしい事ですわ。いつもみなみさんとの仲睦まじい話に私は胸がうずく。


 本来なら親子で出かけたり、その先々で訪れる小さな幸せの体験をちょっとづつでも紡いでいきたい。


 その願いを自分で叶えらないことに、もどかしさを感じていた。


「みなみさんといつも仲良しだね。つばさはみなみさんのどんなところが好き?」自分で聞いといてアレだけど、どうしてそんな事を聞くんだろう。


 その答えを聞いて何が得られるんだろう、そんな疑問がふと頭の中に浮かんだ。


 私なりに答えを探し出そうと頭を捻った。一つの結論として、同性でありながら母親の自分よりもみなみさんと親密になっていることが面白くないんだ。


 裏を返せばつばさと触合える時間が足らない現実から逃げたくて、みなみさんへの嫉妬心をふくらませ、なんとか自分を慰めていた。


 ここ最近は家族のような空気感も三人中で作られている。休日も一緒に過ごしたいといつばさが言って聞かないこともある。


 そこはみなみさんが一歩退いて「せっかくの休みなんだし、ママと二人で遊んできてね」とつばさを宥めてくれる。


 そしてつばさもみなみさんが言うならと腹に落ちたように聞き分けが良くなる。


 血の繋がりを越えて新密度を増す二人を尻目に、私だけが取り残されているのが寂しい。




 暗々とする気持ちを抑えるため、右手首に着けたブレスネットに目をやった。世界にたった三つしかないこの宝物を、私にも作ってくれた二人。


 自分に頑張ってとエールをくれる二人が、仲良くなることは私にとって幸福なことなんだ。


 二人の表情に笑顔が生まれることも、幸福なことなんだ。


 ただ私は心の拠りどころを探してる。いや、なる場所を見つけた。


 彼の人としての懐の深さ、人当たりの良さに言葉の端々に感じる育ちの良さ、私にとってそのすべてが心地のよいものだった。


 男嫌いが払しょくされた訳じゃないけど、新たな一歩を踏み出してもいいんだよね? 彼で間違いないよね?


 そうやって一歩一歩を手探りで、未開の道を切り開く先駆者に、私は今なった。




 今日は一日、陽が出ているため紫外線が多い。家を出る前に日焼け止めを塗るのを忘れていたためコンビニで買うことに決めた。


 つばさには自分で飲み物を選んでもらい、私はスキンケア用品を眺めていた。


「ママ、つばさはこれにする。ママはお茶で良い?」


「あら、ママのも選んでくれたんだね。ありがと」手に持った特保のお茶に少し苦笑いをする。


 日焼け止めに特保のお茶にと美意識高い系女子として店員さんにみられないか不安になってしまう。


 子持ちのシングルマザーで妊娠を機に『母親であれ』と信念を持って生きてきた自分に誇りも持っているし、なに色気づいてるんだって思われそうで嫌だな。




「いらっしゃいませ! 今日も暑いですね」にこやかに挨拶を交わすと手際よく商品のバーコードをスキャンしていく。元気が良くて暑い日でも木陰に吹き抜ける涼風のようで、暑さで溜まった鬱積を晴らしてくれるような松浦くんという青年だった。


「ほんとに、毎日暑くて大変ですよ。ここは涼しくてずっと居たくなっちゃいますね」私はICカードを取り出そうと、財布を開きながら彼に相槌を打った。


「そのブレスレット可愛いですね。お揃いなんですか?」


「あっ、コレ?」右手首を指さして彼が興味を示した。「お子さんも同じもの着けてますね。金曜日にはなかったから気になっちゃって」


「昨日出来上がったらしくて、私の誕生日だったんです。昨日」なるほどといった具合に彼は大きく頷き、少し気に障るような仕草をして彼は云った。


「じゃあ彼氏さんのプレゼントですね」


「は?」憶測でモノを言われたことで更に私の気に触れた。少し顔見知りになったくらいでプライベートな事に踏み込んでくる人は一番嫌いなタイプだ。


 私が苛立っているのを察したのか慌てて弁解を始めた。


「いや、つばさ君と一緒にいた人が彼氏さんだと、つい思ってしまって」申し訳ありませんと深々と頭を下げた。


「何かの間違いですよね? 男の人がこの子と一緒に居た?」


「ええ、確か健太さんって呼んでたよね?」松浦くんが親しみを込めてつばさに同意を求めた。俯き黙り込んでいるつばさに、急に不安の嵐が胸に去来した。


「お誕生日おめでとうございました」袋を手渡され、また私の気に障る一言を云ったことさえ頭に入って来なかった。




 外に出た途端、灼熱のような熱気が私を包んだ。先ほどの店員の言葉が頭に引っかかり、思考回路が焦らされ停止してるみたいだった。


 考えがまとまらない。みなみさんが男だって? 誰がそんな言葉を信じる?


「あのお兄さんなにバカなこと言ってるんだろうね」と声を掛けようと視線を移すした先に、下唇をギュッと噛みしめているつばさを見て、口に出すのを止めた。


 喉の渇きが急激に襲ってくる感覚にとらわれ、買ったばかりのお茶のキャップを強引に捻り、喉を三度鳴らし胃袋へ流し込んだ。




 いつの間にか私とつばさは会社に着いていた。無意識といっていいくらいに気付いたら私はビルの前に立っていた。


 まだ七時二十分でいつもより四十分も早く到着していた。


 コンビ二を出た後、つばさに問いただすことが出来なかった。みなみさんが男? そんなバカな話がある訳がない。


 信じられないし確証もない。つばさと松浦君の悪ふざけに過ぎないと結論付けても、直ぐに不安がそれを打ち壊す。


 彼の発言をつばさの不安げな様子が裏づけている気がして、結局、みなみさんが男だったんだと逆の結論にたどり着いてしまう。


 つばさもみなみさんの所へ行かないことを変だと思いながらも、それを口に出さないことに自論が正しいと太鼓判を押された気がしていた。


 ただこのまま黙っていても先に進まない。私は母親として確認をしなきゃいけない。




 つばさに向き合い目線を合わせるためにしゃがんで、両肩に手を置いてなるべく穏やかな表情をつくり訊いた。ゆっくりと一言一言を噛みしめて。自分も落ち着かせるため。


「みなみさんは、本当は男の人なの? 怒らないから、きちんと教えて」


 私と目線をいつまでも合わせようとせず、つばさは俯きジッと地面のタイルを見つめて黙っていた。


 その時リュックのショルダーベルトをギュッと握りしめるのが分かった。


 チリチリと朝陽が背中を焦がし、私の体内から全ての水分を蒸発させようとしようとしている。


「つばさ! 本当の事をいいなさいっ!」煮え切らないつばさに対して、そしてみなみさんに成り切っていた健太という男性に怒りが込みあげて自分の行動に理性が追い付かなかった。


 私はつばさの両肩を掴んで身体を強く揺さぶっていた。


 キッと私を睨みつけ抵抗をみせるも段々と弱くなり、観念したようすで目に涙を溜めて寂しげにコクっ頷いた。




 結局、私には男を見る目がない。いとも簡単に騙されて大切な物を傷つけられる。


 つばさをこんな風にして、私まで騙すなんて……。とグルグルとこの三か月間が走馬灯のように駆けていた。


 変だなと思う節もあったし、生活感のない部屋だとも正直思った。女の子の一人暮らしの部屋とは少し違った印象を持っていた。


 なにか足りない、何かが欠けている。ただ、みなみさんはそういう娘なんだと思い込んで今までやり過ごしてきた。


 何が目的で女の子のフリをしていたの? どうして私たち親子だったの? 次から次へ湧き上がる疑問を、確認できる勇気も今の私にはなかった。




「香織ちゃん? つばさ君も? こんなところでどうしたんですか」後ろから仙波さんが驚いた声が聞こえた。近くのコンビニで買い物をしていたのか、袋を右手に持って立っていた。


 私たちのただならぬ雰囲気を察したのか、にこやかだった表情に陰りが見えた。


「仙波さん……。あ、おはようございます」先日のお礼も忘れて、聞かれたことにも答えられず、私は挨拶しか出来なかった。


 気が動転していて、それどころじゃなくなっていた。


 仙波さんはその事を気にかけた素振りも見せず、「ここは暑いですから、とりあえず中に入りましょう」と促しつばさの手を取って、行きましょうと私に声を掛けた。




 オフィスに着くと改めて自分の席まで向かった。おはようございますと早めに出社していた社員から声を掛けられ、その都度、隣にいたつばさに驚き、一様に「どうしたんですか?」と揃えて口にした。


 心配したのか自らのオフィスに足を向けることなく、仙波さんが一緒に着いてきてくれた。途中、ロビーの自販機でつばさが好みそうなジュースとお菓子やパンを買って私のデスクに置き、「一旦戻りますね」と声を掛けてから会社へと向って行った。


 何とお礼をしたら良かったのか、重ね重ねのご厚意が痛いほど身に染みて今にも泣きだしそうだった。




「ねぇ、つばさ。どうして今まで黙ってたの? ママには話せないことだった?」そう聞いた後で、おかしなことを聞いてるなとも思った。


 みなみさんを男だと認識した途端に、相手に連絡の一つ入れず、つばさを会社に連れてきたのだから本当の事を告白されたところで、結果は同じだったに違いない。


 それならば、つばさとしては話しても話さなくても変わらないと踏んで、言わない決断を下したに違いない。


 もし仮にみなみさんがつばさに対して口止めをしていたとしたら、どんな取引をしたんだろう。つばさがボロを出さなかったことに驚きもしてる。


 むしろ褒めるべき点だったのかもしれない。口の堅い人は情に厚い人でもある。私としては立派な大人になると胸を張って褒めたい。


 しかし、その義理人情で私が騙されていたとなると不思議なほど、褒めることに拒否反応が出てしまう。




「ママは、男の人が嫌いなんでしょ。だからつばさは言いたくなかったの」


「そんなことない。それだけで人を嫌いになんかならないわ。みなみさんが男の人だったとしても、直ぐに嫌いになんかならない」


「でもママは、女の先生で良かったって、言ってた。健太さんはいつも怖がっていた」


 つばさが、健太さんの代弁者かのよう彼の心情を語り、私に訴えかけた。怖い? 何が怖いの。私の方が怖い、身近で女装した男性が私の子供を預かっていたのよ?


「つばさは怖くなかったの? ママはいま、凄く怖い。つばさにヒドイことをされてたら、ママは死んでも死にきれない」


「健太さんはつばさにヒドイことなんてしない!」


「ママには嘘を吐いてた!」二人の言い争う声がオフィス内に響き、何事だろうと自分のデスクからちょっと腰を浮かせてこちらを窺う社員の頭を視界の片隅に捉えた。


 その視界の逆側、入口の方からこちらに向かって歩いてくる二人の人影も見えた。男女の二人で、男性は先ほど自身のオフィスへ戻った仙波さんで、女性の方は受付嬢の真由美ちゃんだった。


 どうして真由美ちゃんがここに来たのか分らず、混乱していたはずの思考回路が何故か正常に戻った。


「真由美ちゃん、どうしてここに?」


「つばさくんに会いたくて! 仙波さんからここに居るって聞いて、来ちゃいました」バツの悪そうな表情をしながらも悪戯っぽい笑みをつばさに投げ掛けた。


 それは私を気遣う訳じゃなく、つばさを落ち着かせようとした素振りだとわかった。


 ああ、仙波さんが私たちのために、真由美ちゃんにお願いして、連れてきてくれたんだ。そう思えると、また涙腺が緩くなった。




 真由美ちゃんがつばさを売店に連れて行くあいだ、仙波さんが重たそうに口を開いた。


「なにか、あったんですか?」概ねの予想を立てて、つばさが一緒ということはみなみさんに預ける事ができなかったと暗に示している訳だから、たまにはそんな日もあるだろう。


 例えば、風邪で預けられないとか。ただ、入口でのやり取りに少なからず、変わった事情が背景にあるな、と仙波さんには読み取れていたはず。


 ここで事実を打ち明けないメリットも無いので、素直に事情を説明した。


「それは、本当、ですか?」信じられないといった表情で、私の落胆ぶりになんと声を掛ければいいのか悩んでる様にも見えた。


「はい」声がかすれ仙波さんの耳に届いたのか分らない。


 女装も見破れない、男性の見る目もない女です。嘲笑いたくもなりますよね。笑ってくれた方が、むしろ清々しくなれそうな気がします。




「まさか、例の無言電話の相手じゃ……」唐突に何か閃いたような口調で、仙波さんが呻いた。


 二人して黙り込んだまま見合い、開けてはいけないパンドラの箱を見つけてしまったような気分だった。


「それは、何とも言えないです……。確証もないし、そんな事をするメリットってあるんですかね……」そう、私を騙して洋服の色を告げる電話をすること自体、意味不明だ。わざわざ自分が男だと露見するようなリスクを、率先して行うはずがない。


 もし仮にみなみさんがストーカーだとすると、つばさと結託して私に悪戯を? 例えそれが真実だったとしても悪戯としての効果は極めて薄い。


 電話を受けたときの私のリアクションを二人が見れないのだから楽しむまでには至らないはず。


「でも……。一番最初に気付いたのは、みなみさんなんです。彼女。いえ、彼が電話の内容は私がその日に着ていた洋服の色じゃないかって」


「確かに、電話をした本人しか気付けない着眼点かもしれない。あえて香織ちゃんに気付かせて、反応を楽しんでいた、とか」


「悪趣味、ですね」自分の中でなにかスイッチが入る。バッテリーの上がった自動車のエンジンを始動させるみたいに、男嫌いから遠ざかっていた私を目覚めさせる。


 一度エンジンが入ってしまえば爆発的な男嫌いのエネルギーが湧きあがってくる。




「彼にはもう二度と会うことはないですね」


「つばさくんは、それで大丈夫なんですか? 相当、彼の事を気に入ってたはずじゃ」私の本性が垣間見れたことで仙波さんの態度が急変するかとも思ったけど、今はそれよりもつばさの事を案じてくれている。心が広いというか、場数が違うというか、私と違って物事の本質を見失わないのが仙波さんの長所だ。


「彼の素性が知れた限り、私の中で受けいれ難い男です。そんな人とつばさを引き合わせるなんて無理に決まってるじゃない!」


 口調が荒くなる、ぶつける相手が違うのは分っていても行き場を失った憤りが、口をついて次々に飛び出していた。


「私がこんなダメ人間だから、つばさが傷ついて悲しむんだ。自分の事ばかり優先させて、ちゃんとつばさと向き合ってあげられなかった」


「香織ちゃん」と私を呼び、仙波さんが私の手を握った。座ってと促し、自らの片膝を床に着け子供をあやす親のように、私と同じ高さの目線で優しく語りかけてきた。


「自分を責めるのは良くない。悪いのは香織ちゃんを騙していた彼であって、君じゃない。それに、子育てに正解なんてない。あるとすれば子供の健やかなる成長を願う親心だけじゃないかな」


「親心、か」私自身、仕事の熱に浮かされて、母親としての自分をどこか離れた場所から傍観していたかもしれない。




 つばさを授かった私は、自分の理想として男に頼らない強い女性像を描いていた。女として母として、生き抜く力を必死で身に着けようと考えてた。


 ただ何となく過ごしていれば、勝手に身に着くとは思ってなかった。美味しいホットケーキが焼けても、会社の業績がよくても、それらの要素は残念なことに強さにならなかった。


 私は精神的に強さを求めていたんだ。泣き言も弱音も吐かない、女性でいたかった。


 つばさが産まれて分かったのは一人だけじゃ生きていけない現実。両親や京子、会社の従業員、仙波さん、そしてつばさ。皆に支えられてここまでこれた。


 私はそれに気付いてた?




 視線が定まらず、仙波さんの整った顔がグニャりと歪んで見える。それでも心配そうに私の顔を見つめる瞳は純粋で澄んでいた。


 ガタガタと身体が震えだす。それが怒りなのか悔しさからなのか分らず、震えを止めようと両腕で身体をギュッと抑えつけた。


「なんか罠に掛かった動物みたい。身体の震えが止まらない。怖いのか悔しいのかさっぱりわからないし。信頼していた人間に裏切られて騙されて、それが自分で意識的に遠ざけていた男性だったなんて、なんかドッキリみたい。まんまと相手の策にハマって思い出したくもない過去の自分まで蒸し返されて、私はどうしたらいいんでしょうね」


「過去の自分なんてどうでもいいじゃないか。人はいくらでも変われる」そう言った仙波さんの表情には、自信がみなぎっていた。どこからそんな自信が湧きあがって来るのか不思議だった。


「そう思いたいですけど、今はやっぱり自信がない」


 弱音を吐き続けていれば、仙波さんはずっと私を慰め続けてくれるのかな。弱い自分に隠れて、また男に心酔するつもりなんだろうか。


 甘やかされてばかりの自分もまた、理想とかけ離れていて過去の自分を蘇らせる。




「本当にごめん……」


 八時を過ぎて、京子がやって来た。オフィスに入るなり珍しいメンツが揃っていることに驚きを見せていた。


 ある程度、落ち着きを取り戻していた私が、感情を抑えて今朝の出来事を淡々と話した。つばさは仙波さんに連れられ、アニメのDVDを見るため仙波さんのオフィスに行った。


 つばさもいくらか落ち着いたのか、渋々ながら彼に着いていった。


 今朝、と言ってもまだ二時間しか経っていない、私としては激流をイカダで下るような、無茶苦茶な時間だった。




「そんな事があったんだ。私、まさかそんな人とは知らなくて。本当にごめん……」申し訳なさそうに謝る京子に非はない。むしろここ数年心から詫びる彼女を見たことがなく、その事に少し戸惑いを感じてる。


「京子が悪い訳じゃないよ、心配しないで」と言っても、これからの事を考えると心配せざる負えない状況。つばさを毎日ここまで連れて来るにもいかず、また一からの保育所探しになる。


 やっと現実を受け入れて、頭の思考回路が徐々にだけど正常に戻りつつある。


 京子が淹れてくれたコーヒーを一口飲む。


 気懸かりなのはつばさの精神状態だ。コンビニを出てから気の動転が治まらず、さっきまでずっと黙り込み私と視線を合わそうともしなかった。


 数分前にみなみさんの携帯から着信があった。画面を見ただけで心臓が早鐘を打ち、鼓動が鼓膜を突きぬけ脳を揺さぶられたように、眩暈がした。


 出ようという考えもわかないほど動揺し、着信が途切れても、私の心臓は脈打つ速さを緩める気配はなかった。


 このまま連絡も取らずに離れた方がいいのではないかと、思考はすでに後戻りのできない一方通行をひた走っていた。


 突然連絡も取れなくなり心配するだろうけど、それは私の知ったことではないし、どうでもいい気になっていた。


 それでも一抹の不安が消えないのは、彼が私たちの家を知っている事だった。




「家に突然きたらどうしよう」不安が言葉として口を突く。一人で解決できる事ならまだいいけど、相手の行動を制限出来るわけもない。もしかしたら家に出向いてくるかもしれない。


「ストーカーかも、ってホント?」一応の確認のように京子が訊ねてくる。


「確証はないけど、声とか何となく似てた気がする……」うん、何となく似てた。と自分に言い聞かせるように強く頷いて見せた。


「彼が悪意を持って、電話をしてた確証が、香織にはあるの?」私は思わず、え? と聞きかえしてしまった。


 悪意って? だって女装して騙していた事は悪意とは言わないのだろうか。


「確かに、香織を騙していたことは事実だし初めはつばさも騙そうとしていたんだろうけど、それ以上の事があったの?」


 私を刺激しないよう慎重な言葉使いで京子は話を続けた。


「自分を女だと偽って、香織たちから何かを奪ったの? それ、貰ったんでしょ」くっと顎を出して私の右手首に着いたブレスレットを指した。




 指摘された瞬間、アレルギー反応が出たように無意識のうち、ブレスレットを外そうと指を掛けていた。


 その時、入口のドアが勢いよく開いた。急いで駆けてきたのか仙波さんが息を切らして青ざめた顔をこちらに向けた。




「香織ちゃん! つばさ君が!」


 オフィス内の従業員の視線が二人の間を行き交う。私の意識もその中に溶け込みそうな程、視界が薄れていく。大変なことが起きたんだと、仙波さんの様子で分かった。


 いつ歩き出したのか、いつオフィスを飛び出したのか。気付いたら仙波さんの背中を追いかけ、私は走っていた。

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