栗林 健太 それぞれの暮らし
「と、いう訳で。つばさは今日、健太さんのお家でお泊りでーす!」俺は電話を切り即座に宣言した。彼女の母親から彼氏のお家へお泊りの許可を貰ったような高揚感、とまではいかないがそれでも嬉しかった。
つばさは作りかけのビーズアクセサリーを置き、バンザイをしていた。
なんとも可愛らしいバンザイなんだ、と俺は和やかな想いでつばさを見ていた。
子供とのお泊りは保育園で年に一回、行事として経験したことはあった。
そんな思い出が、胸の奥をチクリと刺した。
保育園を離れ、約半年が経ったいまでも園児たちの顔を思い浮かべるときがある。一人一人の名前と顔がふと浮かび上がっては消えていく。
その一人一人が悲しそうな表情で、俺が突然、保育園から居なくなったこと悲しんでいるようだった。
そんな妄想は俺の都合のいい創作であって、当の本人たちは数日で俺の存在など忘れていたかも。子供を褒めるのであればそういった適応力の高さをを俺は褒めたいとも思う。
俺は思いつめると最悪の事態まで突き詰めた。つばさとの別れも、もしかしたら突然やって来るのかもしれない。
水泡に帰す。ここまで積み上げてきた努力、自分で評すれば成果、そして香織にすれば嘘、大嘘は俺の傍で常に身を潜めている。
いやいや、身に纏ってるの間違いだ。女装という変則的な力技で香織に目隠しをしているようなものだ。
「健太さん、どうしたの?」
「…ん? あ、いやちょっとな。取り敢えずつばさのお家にって着替えを取りに行こう」
―――つばさは、つばさは俺と突然離れたら、悲しんでくれるよな?
そう確かめたくなる自分を何とか抑えて、俺はつばさのカバンを和室に取りに行く。そりゃつばさが小学生になれば幼児保育は必要はなくなる。
学童保育や民間での預かりを利用した方が良い。ベストじゃないけどベターだと思うし、香織もきっとそうするだろう。
まして彼女はいま、意中の人が居る。
結婚を視野にいれているのなら生活環境も変わるだろう。そう、俺の出る幕はない……。
つばさのカバンから家の鍵を取り出した。さて、これからタフなミッションを熟さなきゃならない。
この暑さの中、みなみさんになって香織の家に行くことはそれなりにキツい、薄化粧とはいえウィッグを被ってると汗が異常なほどたくさん出る。
汗っかきな俺としては今日の好天も恨めしい限りだ。さっさと行って帰ってくれば特に問題ないだろうから、このまま行くことにしよう。
「出発の前に、この手を洗ってもいいか?」俺はいつもながらの花丸を指さし言った。
バスを降りて三分程歩くと交差点に当たり、左手の角にコンビニがあった。家を出てから二十分、時間は午後二時を回っていた。
太陽も天上を少し越えて、西へ少しずつ沈みかけていた。
ここに来るまでの間にかいた汗は、きっと午前中に摂った水分量よりも多く流れているように感じた。それほど今日は暑かった。
隣で歩くつばさも赤いキャップを目深にかぶり、汗で頬を濡らしていた。
そろそろ水分を摂らないとマズイな。
「あそこのコンビ二で飲み物買わないか?」俺は少し息苦しそうなつばさに聞いた。炎天下の白昼に小さな子供を連れて歩くのは本人にとっては酷なことだろう。
しかし、つばさは弱音の一つも言わないで俺を家まで案内しようと一生懸命だった。
家まであと少し、ここら辺で小休止としよう。
「アイスがいいー!」オーケー、これだけ暑いとアイスも食べたくなるよな。
「よし! 決まりだ」チリチリと照りつける日差しからそそくさと逃げるようにコンビニに入った。
自動ドアを開けた瞬間に中から吹きだすヒンヤリとした風が二人の間を通り過ぎる。
「あーここは天国だなぁ」
この世界に天国があるなら、今このコンビ二こそが天国だと、室内温度二十度に設定された店内で俺は思った。
『いらっしゃいませー』
俺たちは店員のやる気のない発声に出迎えられた。これだけ暑ければやる気が出ないのも分る気がする。
むしろ暑苦しいやる気を見せられるなら、これくらいがちょうどいいと感じた。
「俺は飲み物見て来るから、つばさはアイスを選んどいてな」つばさの頭にポンポンと手を置いて促した。
「何でもいいの?」
「好きなの選んで良いぞ」
「分ったー!」
俺はミネラルウォーターとカルピスを持って冷蔵ケースに戻ってきた。つばさは既にアイスを選び終えていた。
「パピコでいいのか?」つばさの手に握られていたのはパキッと二つに分けられるチョコ味のアイスだった。
「これなら健太さんと分けられるでしょ」
「え? う、うん」
唐突なつばさの優しさに、俺はまた胸の奥がチクリと痛んだ。さっきよりも、より増して。
俺の人生はいつだって失敗の連続だ、後悔だって数知れず。『お前だけが辛いと思うな!』父ならそういって俺を叱るだろう。
ただ、この現状は俺にとって誰にも打ち明けられない、悩みを相談することもできない。俺一人が抱えた込んだ秘密だ。
唯一この秘密を共有しているつばさにだって、真実を語れているわけじゃない。
それはある日突然やって来るかも知れない。保育園を追われた、同じ理由で。
俺は今後の人生、香織と会う時には必ずみなみさんを演じていなければならない。
でなければ、つばさと会う事も叶わない。袋小路に追いつめられたネズミ、もしくは実験用のモルモットか。
八方ふさがり、恥の上塗り、名誉返上そして汚名挽回。
自分が壊れてしまうんじゃないかという不安が、頭の中でグルグルと回っていた。
「健太さん? 早く買おうよ」
「お、おぅ。アイス溶けちゃうな」
「健太さん、今日なんか変だよ。さっきからボーっとしてるもん」
「暑さのせいだよ。これだけ暑いと、誰だってボーっとしちゃうだろ?」なんとか暑さのせいにして誤魔化した。
お前と別れる時が来るかも、なんて事を考えていたとは言えない。流石にこの事ばかりは俺自身で抱えこなまきゃいけない。
それに不安を打ち明けたところで、俺の気持ちが楽になるわけじゃない。むしろつばさの不安を煽りそうな気さえする。
「三点で358円です」財布の中を確認する。自慢じゃないが硬貨は沢山ある。たぶんピッタリ払える。
「健太さんカード持ってないの?」
「え、カード?」
「うん、前にママがここでお買いものするカード作ったんだよ」
「へぇ、便利なのか? 健太さん持ってないよ」俺には利便性よりも現実性が必要だ。
電子マネーは現金を持ち歩く必要がないが、代わりにお金を入れておかなきゃいけない。
そしてチャージするには最低千円からという、紙幣一枚以上じゃなきゃ出来ない。
一度入れたら最後、払い戻すことが出来ないから他のコンビ二やスーパーで買い物をしたい時に手持ちが無くなるデメリットがあった。
一円でも安いところで買い物をする。そんなこんなで、電子マネーには手を出せずにいた。
「カードお作りいたしましょーか?」店員が会話を聞きそれとなく訪ねてきた。特に熱心に進めてくる感じではない。
「いや、大丈夫です」
「ママはここに来るといつも使ってるのに!」
「ママはママ、健太さんは健太さんだ。すみません、お会計丁度あります。レシートは結構です」
「ありがとうございました」
店内から出ると、ムワッとした空気に包まれた。蒸し風呂やサウナの中に入ったと言った方が相応しい。
車が通り過ぎるたびに熱風を身体に殴りつけられる。またあの天国に引き返したい衝動に駆られる。
「さっきの人、なんか怖かった」
「ん? どうしてだ?」
「朝はもっと元気だった。さっきは元気じゃなかった」
「そりゃ朝から働いてたらあのお兄さんだって疲れてるさ。しかも今日はこんなに暑いしな。働くって大変なんだよ」
「ママも、元気じゃなくなるのかな……」
「ママはつばさが居るだけで、元気になれる。だから仕事も元気に働けてるんだよ。つばさは元気の源だよ」
「ミナモト?」
「パワーだな、パワー!」俺は右腕の力こぶをポンポンと叩きながら言った。
「健太さんはパワー無いじゃん」確かに、こんな細い腕じゃ力こぶなんて作れない。非力な人間だよ。
非力で貧弱な体型だからこそ、女装しても違和感がない。バレずにここまでこれた訳だしな、体型さまさまと言ったところでもあるんだが。
ようやくたどり着いた俺たちは、マンションの入り口に立っていた。
茶とベージュのタイルを混在させてできた外壁で、夏の高い青空にに十一階建てのマンションが四棟も並び、不動の巨人のように聳そびえ立っていた。
ゴクリと唾を飲み込んだ。自分の住んでいるアパートとは比べようもないくらい立派なマンションだった。
「つばさ達はこんな立派な所に住んでたのか……。会社経営者ってのは、儲かるんだなぁ」
「リッパってなに?」
「すごーく良い、って意味だ」
「つばさは健太さんのお家も好きだよ!」お世辞か? いやそうじゃない、きっと本音なんだよな。
ある時、つばさが香織にこんなことを零したらしい。『このお家はつまらない』と、俺はむしろこんな家に住んでみたい。
今から家の中を見れると思うと、ワクワクが抑えきれなくなっていた。
つばさのいうツマラナイは、きっと遊ぶオモチャがなくて退屈を持て余しているんじゃないかと勝手に推測してみた。
「とにかくさ、早いところ部屋に行ってお着替えを取ってこよう。案内してくれるか?」つばさは喜んでと言わんばかりに俺の手を引っ張った。
これも推測に過ぎないが、香織が誰かを家に上げたことはこれまで一度もないのでは、と思った。
たまに話に出てくる親友の京子さんは、何度か遊びに来てると思うが、その他の人の話を聞いたためしがない。
経営者と母親の二面を使い分ける。仕事とプライベートの狭間で香織はちゃんと息抜き出来てるのか?
724号室前に立つ。ディンプルシリンダー錠のカギ穴が二つ、縦長のノブの上下に付いていた。
まずは上から、カギを差し込み左にガチャリ、同じく下の錠も同じ音を立ててカギが開く。
奇妙な緊張感に包まれている自分が分かった。この先は未知なる世界、女性の家に上がるなど人生初だ。
今や女装になんの執着心もない俺だが、参考にしたい気持ちもある。部屋のコーディネイトだとか、小物だとか女性の心理としてどんな物を置くのか気になる。
女装を過去の趣味だ、と記憶の片隅に追いやり、今は仕事の一貫だと割り切ってしまった自分が居る。
正直、毎朝鏡越しに変化していく自分の顔を見てると空しくなる。
誰からも認めてもらえなかった自分が、生まれ変わるための手段として女装を選んだ。
実際に変わったことなんて何もなかった。女装している時は確かに充実感もあった。他人の視線が気持ちよかった。
男にだが声も掛けられた。素は何ひとつ変わらないのに、外見が異性になった途端に人の目に留まるようになった。
なんて簡単なんだ、こんなことならもっと早く気付くべきだった。そして俺は単純で手頃な感情に支配されてた。
その後の俺は周知の通り、保育園から追い出され、今思えば安易な考えで始めた自宅保育園に香織たちがやって来た。
女装なんて、本当はもうしたくない。もう辞めても良いですか? 香織に聞きたい。
『ちょっと女装に疲れたんで、今日から健太として頑張ります』
この生活が続く限り、俺の罪は積み重なっていく。
靴を脱いでいつの間にか俺は部屋に上がっていた。細長い廊下には左右両壁にドアが三か所据え付けられていた。
構造としては普通でごく一般的だと分った。ただ、室内に香る空気で彼女が住んでいるんだと、不思議な納得感が芽生えた。
いま大阪に向かっている香織を思い浮かべ、この聖域に男の俺がいちゃダメなんだと少しでも自分の存在が残らないよう、ナゼか廊下のド真ん中を歩く、謎の行動を取っていた。
リビングに近づくにつれて香りが強くなっていく。香源はどうやらリビングらしい。
ドアは開け放たれていて廊下からの境目を越えると、部屋はカーテンが開いて太陽の光を余分なほどに取り込み目がくらむくらい明るかった。
白を基調とした壁紙は光が反射してリビングを取り広く見せていた。
不用心にバルコニーに面する窓が開けられていた。女性と子供の二人暮らし、やっぱり不用心だ。香織が帰ってきたら忠告しようと心に決める。
ちょっと油断するとどうしても男目線で語る俺が出てきてしまう。ここ最近は特に多くなってる気がする。
これ以上、後悔はしたくないし気を付けようとも心に決めた。
窓際に置かれたサイドボードの上にはアロマオイルが入った小瓶に、木のスティックが数本差しこまれていた。
この部屋にいると心が安らぐ、どちらかと言えば人の家にくると落ち着かずそわそわする。
視点も定まらず、じっと何かを集中して見ていることが失礼だとも思っていた。
「こんな家に住んでみたいなー」俺は今の家に比べて行ったつもりが、つばさは一緒に住もうよ! と言ったので安易に口にすべきじゃなかったと苦笑した。
「それは無理だなぁ。ママはみなみさんとしか会ったことがないから」
「健太さんも会えばいいじゃん」
「そしたらママは、怒るぞ」
「でもつばさは健太さんと一緒に住みたい」それでも無理なんだ、口に出さずに俺は「そうだな」とだけ言って顔を背けた。
アニメを見て毎回必ず同じ場所で笑って、怖い映画と分かってて俺の背に隠れながら泣いて、俺の寝顔にイタズラ書きをしてこっぴどく怒られて、真剣な眼差しで毎日俺の右手に花丸を描いて上手くなったと褒められて嬉しそうに微笑んで。
最初は自分の事で手一杯だった。人生に迷って出口が分らずに馬鹿な事だって分かりつつ女装してたんだ。
保育園でバレた時に辞めてたら、きっと出会えてなかったよな? 一番最初に出会えたのが二人で良かった。
一番最初に気付いてくれたのがつばさで良かった。本当の俺を見つけ出してくれたのがお前で良かった。
だから感謝しなくちゃいけない。つばさに恩返しがしたいんだよ。お前が望むなら一緒に暮らしたい。
来年もホタルと花火大会を一緒に見に行こう。夏は海にも山にも出かけよう。どれが一番か悩むくらいに沢山の思い出を作ろう。
「一緒に住みたい」その想いに応えられない悔しさで胸が苦しくなる、身体が震え歯がぶつかりカチカチと音が鳴る。
息苦しくて深く呼吸をしようにも、うまく空気を吸い込めない。卒倒しそうな俺をアロマの香りが変わらず包み込んでいた。
「早いとこ着替えを持って帰ろう。今日は時間がたっぷりあるし、ブレスレットを完成させような」
「うん」つばさは気のない返事で答えた。俺の解答に納得がいかない様子にも見える。
ブレスレットはつばさの希望で俺と香織と三人でお揃いのブレスレットを着けたいと、つばさが自ら材料を用意して先月から毎日コツコツと作っていた。
完成目標としていた明日には、なんとか間に合いそうだと、先ほどまで話をしていた。
最後のひとつを完成させて、やっと三人で身に着ける事ができそうだった。なによりもそれをつばさは待ちわびていた。
明日は、香織の誕生日だった。
香織の誕生日を祝える機会が、俺にとっては明日だけかもしれない。
来年の今頃は何をしてるのかさえ見当もつかない。下手すりゃ、訴えられていて裁判沙汰になっているかもしれない。
悲しいほどに俺に残されている選択肢は少ない。正義のヒーローは最後の切り札を持ちながら戦うものだ。
ピンチの時に相手が驚き慄おののく技が、俺にはない。香織に男だと打ち明けてもそれを受け入れてもらえる、そんな術すべがない。
結局は円満に別れるには、つばさを卒園まで預かるしか選択肢がない。どう足掻こうが、俺の未来が闇に覆われて行くさまを、その日まで指折り数えながら待つだけだ。世界の崩壊? まさにそうだ。
親父の言葉を思い出す『愛おしいと思えた自分の気持ちを大切に』その言葉通り、俺はこの気持ちを大切にしてきた。
その気持ちがいまは大きくなりすぎて、手に負えない。どうすればいいんだよ親父。血が繋がってなきゃ、守りたい人も、守れないのかよ……。
思考回路が停止した作業用ロボットのよう、洋服タンスを上から順に開いていく。空っぽの頭で引き出しの中につばさの洋服を探す作業を無意識に行う。
先も見えない未来を引き出しの中にないか探してるようだった。
「あっ」ロボットから人間へ意識が切り替わる。
「健太さん、そこはママの下着しかないよ」
「ま、ママには内緒な」
「しーらないっ」
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