石崎 香織 大切なモノ
「妙な電話? いたずらか何か?」
「ここ最近、週に1、2回くらい携帯に掛かってくるのよ」
「ストーカーじゃないの? それ」
京子の云う"それ"とは無論、私に妙な電話を掛けてくる相手の事だった。
二か月くらい前から突然電話が来るようになり、電話に出ると一言二言を呟いて、電話が切れる。
そんなやり取りが数回あって京子に相談をしていた。
ランチのエビフライをフォークに刺しながら京子が推測した。
今日はビル内の社員食堂で、二人そろって昼食を取った。
ビルの外へ一歩出れば、灼熱のような日差しに、熱々の鉄板のように熱せられたアスファルトが待っていた。
この季節はウンザリするわねと愚痴をこぼしながら、お昼は食堂で済まそうと互いに合致した。
「ストーカーってほどの心当たりもないんだけど」
「そんなの関係ないわよ。相手が一方的に好きになる事だってあるんだから。もしかしたら元彼かも知れないじゃない」
「それはあり得るかも。もしそうだったら気楽なんだけど、声からして別の人。でも、どこか聞き覚えもある声なの」
「それって身近な人って事?」
京子はエビフライの尻尾だけを残し、細く切られまだ瑞々しくシャキシャキとしたキャベツの上に置いた。
自分が好きな物を先に食べる、好きじゃない物は後回し。京子はランチの時間すら楽しんでる、生ける達人だ。
そんな彼女に何か解決策を聞くことが、私の生ける知恵でもあった。
「色。何故か電話で色をつぶやくのよ、その人」
「色? 香織の下着の色とか?」
「残念でした不正解。みなみさんにその話したら服の色じゃないかって」
「服の色?」
京子が口に近づけたようとしたコーヒーカップの手を止め、ギョッとしたような視線を向けた。
苦々しい顔をしたいのは私の方なんだけど。
色の意味が分かってから、電話の着信音が鳴るだけでも怖くなった。ディズニーのマーチが恐怖への行進曲に聞こえるようになってしまった。
着信を拒否するのは簡単だけど、仕事の都合上そうもいかない。
それを知ってか知らずか、相手の色伝言は不定期に続いていた。
「つまり、香織の服装を観察してる誰かよね。心当たりはないわけ?」
「帰りは決まった時間じゃないから、朝の時間帯に見られてる可能性があるのかも」
「通勤時間ね」
「どうしよう。つばさに何かあってからじゃ遅いし、警察に届け出たほうがいいかな……」
「しないよりは、マシかもね」
何かが起こってからじゃ遅い。それが一番困る。
私が仕事を失ったとしてもまた一からスタートすればいいじゃない。それくらいなら、いくらでも人生をやり直せる自信はある。
けど、つばさを失う事は、私の一部を失うのと同じだ。むしろそれ以上。
私は初めて、自分に降りかかりそうな身の危険よりも、つばさを失う事への恐怖を感じた。
「やっぱり、こんな時に家族が居たらって、思っちゃうね」
「丁度いいタイミングなんじゃない。香織にとっても、つばさにとってもさ」
京子は再び手を動かしコーヒーカップに口を付けた。立ち上る湯気に、仙波さんとの食事を、ふと思い出す。
「わぁ、凄く美味しそう」湯気の立ち昇るプレートに乗せられたハンバーグがテーブルの上に置かれた。
かなり遅い昼食を取った私にすれば胃袋に入りそうもない量なのに、不思議と食べきれそうな、食欲をそそる香りがし、私は無意識に唾を飲み込んでいた。
仙波さんはデミグラスソースを上手に細く垂らし、花丸を描くようにハンバーグにかけた。
そのチョイスは男らしい気もする。私は胃がもたれそうだからと、お肉を食べるときは和風のおろしソースと決めていた。
「香織さんはやっぱり上品だ。僕の食べ方じゃソースの味が濃くて、お肉の旨味が消えてしまいますね」
「そんなことないですよ、仙波さんの食べ方は見ていてお腹がすいちゃう。一緒に食事してると料理が美味しく感じます」
「安心してください、ここの料理は最高に美味しいですからお一人でも十分満足できますよ」そういって仙波さんは悪戯っぽく笑った。
少年のような無邪気な笑顔で微笑みをくれる彼は、私の数倍もの人生を経験しているような達観した大人にも見えた。
そのギャップは、私の乙女心を絶妙にくすぐってくる。
可愛らしい、愛おしい、格好いい、さまざまな感情が波のように絶えず押し寄せてくる。
私の様子をうかがって押したり引いたりと、自分でも分かるくらいに、このままだと波に飲み込まれるような雰囲気すらあった。
その日は結局は何事もなく別れた。お店を出るとタクシーが待ち構えていた。
仙波さんがいつの間にか配車をしていて、そのまま見送られる形で帰路についた。
「あんなに完璧な人が、私なんかと結婚なんて」ふと仙波さんの顔を思い浮かべ、頭を振った。
「あんたホントに分りやすいわね」呆れたと言わんばかりの表情で京子は私から目を逸らした。
いつもそうだ、私は恋をすると周りが見えなくなる。
自分であーでもないこーでもないと喚いて、京子に相談を持ちかけたものの、結局は『でもさ、だけどさ』と食い下がる。
相手にしてみれば、いい迷惑なんだろうけどさ、だって仕方ないじゃん。
それが私だし、京子には申し訳ないんだけど。
「今度はつばさも連れて行こうと思ってる。つばさの気持ちも大切だからね」
「それで良いんじゃない、きっと上手くいくと思うよ」
二人して食器の乗ったプレートを片付けていると、テーブルの上に置いてあった携帯からディズニーのマーチが鳴った。
二人の手が止まり、視線が携帯へと向けられた。画面を伏せているので誰からの着信かもわからない。
私は無意識に唾を飲み込んだ。そうでもしないと、胃袋から込み上げてくる得も言われぬ恐怖感に押し負けそうだからだ。
意を決して携帯を拾い上げ、恐る恐る画面を確認した。
「仙波さんからだ」安堵の声で着信の相手を、京子に伝えた。
「はい、もしもし」
『香織さんこんにちは、いきなり電話して申し訳ありません』
「さっき偶然にも京子と、仙波さんの話をしていたんですよ」
『どうりで鼻がムズムズすると思ったら、そういう訳だったのか』
こちらの冗談をすぐさま反応して返してくるあたりも、人が良いんだよなぁ。
「ところで、電話なんてどうしたんですか? 今は大阪にいらっしゃるんじゃないですか」
『ええ、今は難波にいます。香織さん関西圏で出店したいってお話ししていましたよね? その件を知人に話をしたら香織さんの話を是非聞きたいと、申し出た者が居まして』
「えッ? 本当ですか?」私は驚き、つい声を上げてしまった。
京子も、私と仙波さんの話の内容に付いていけず、何事かと説明を求めるように、声には出さずに『なになに?』と口を動かしてた。
『はい。しかも急なんですが、今日中に話が聞きたいと』
「えッ? 本当ですか!?」私はよりいっそう大きな驚きの声を上げた。
『無理を承知でお願いしてるのは分っているつもりです。ただ、知人も今日しか時間が合わないみたいで。申し訳ないです』
「いえ、こんな機会を作って頂けるなんて嬉しい限りです。ちょっと保育士さんにつばさを預かって貰えるか確認しますので、改めてお返事させてください」
『分りました。お待ちしていますね』私は短く、失礼しますと断り電話を切った。
京子もビジネスの話だと会話の途中から察し、会話の行く末を静観していた。
さてしかし、今は午後一時半、これから大阪へ向かうには早くても夕方の五時前後の到着になるはず。
ビジネスの商談とまでは言えないけど、その手の付き合いなら夜半過ぎるのが当たり前だ。
今日はこっちに帰って来ないつもりじゃなきゃダメ。
みなみさんはつばさがお泊りでも平気かな?
「急用が出来たわけ?」一人思い悩んでいたところに京子が声を掛けてきた。
私の良きビジネスパートナーでもある彼女は時は、私が片付けの途中だった食器を代わりに下げてくれていた。
時は金なりということわざを忠実に体現するように、社長である私に時間を掛けさせまいと京子が気を利かせてくれた。
「仙波さんの知人の方が、私たちの関西への出店に興味を持ってくれたんだって。その事で今日中に話がしたいって。でもつばさが…」
「それならみなみさんを拝み倒すしかないわよ。さっさと電話しちゃいなよ」
私にとって、願ってもないチャンスだ。ここで逃す手はない。
ただつばさにとっても私にとってもお泊り保育は初めての経験だ。
ストーカーの件もあってか、考え過ぎて頭の中がパンクしそうになる。
断られてしまわないか、私はまた不安を唾ごと飲み込んだ。
そして、みなみさんに電話を掛けた。
みなみさんとの交渉は成功し、私も直ぐに支度を始めた。
一泊して朝にでも戻ってくる予定でいた。
今日は金曜日。明日も会社に来るつもりでいた私に、京子は、「会社は私に任せてゆっくり休みな」と気を利かせてくれた。
ここはその優しい言葉に甘えて、明日はゆっくりしようと心に決めた。
「またとないチャンス。社長として必ず成功させてね」
「もちろん。そのつもりで行くんだから」
「仙波さんのご厚意だし、恥を掻かせるわけにも訳にもいかないもんねぇ」
「またそうやって変なプレッシャー掛ける」
「社長としても女性としても責任感から逃れる術はないのよ」
「へーへー。京子は気楽で良いわね」
「私は現場の声を吸い上げる大切なパイプ役よ。この間も頑張って販売員してきたんだし」
「その頑張りは認めてる」
「じゃあ今度おごってね♪」
「出張より高くならないことを願うわ」
オフィスに戻り身支度を済ませると、私と京子は品川駅に向かった。
今日は最高気温は35度。日中のオフィス街はさながらサウナのようだ。風も吹かず、よどんだ熱だけが放射されることなくとどまっていた。
鉄板のように熱せられたアスファルトの上を、コロコロと小さな車輪の付いたキャリーバッグを引き、駅までの道中、京子と下らない話をする。
彼女は私と同い年だというのに、事あるごとに姉のような振る舞いをみせる。
人生のキャリアで考えたら私の方が色々と経験を積んでいる。でも彼女の人生観はとても深みがある。
まえに「京子の前世は高位の僧侶か、八千草薫さんが演じてそうなおばあちゃんっぽいよね」と言った事がある。
それを聞いた京子は唇を尖らせ、「なんでおばあちゃんなのよ」と不満を漏らした。
可愛らしくて優しい、とフォローを入れ、「それで褒めてるつもり? まぁ許してあげる」と言いつつも機嫌は直った。
私の前では口が悪いと言い出しそうになるのを、なんとか飲み込んだ。
「こんなに暑いと裸になって水浴びでもしたいわねー」
「やっぱり下品」
「ちょっと、やっぱりってどういう事よ」
可愛い顔をしているのに、はしたない表現を私との会話でするのが彼女らしい。
私と他の人を交えた会話だと、知性的な喋り方で相手を魅了する。そんな二面性を目の当たりにするたびに、私は笑い転げそうになる。
「なんで京子は私の前だとはしたないの」
「猫かぶり」
「みんな京子の事を買いかぶり過ぎだね」
「ご明察。私は悪女よ」京子は意に介した様子も見せず胸を張って気取ってみせた。
「お客さんには迷惑かけないでね」
「大丈夫よ。猫被っててもまごころ込めて接客してるわ」
「それを聞いて、ひと安心」
「だって例のあの男の子、きっと浴衣を買うつもりはなかったと思うんだよね」
「あぁ。持ち合わせないから急いでATMに行ったって人のこと?」
「浴衣を制作した時のエピソードを話したら共感してくれたし、きっと彼にも私たちの熱意が伝わったからよ」
京子がまた誇らしげに胸を張った。
私たちは服を作るたびに、毎回テーマを掲げて取り組んでいた。今回の浴衣では大切な人への贈り物としてペチュニアの浴衣を制作した。
京子が誇らしく語ることは、社長の私にとっても共感できる。
私たちの想いがその彼に伝わり、浴衣を贈られた人にも、きっと彼の想いが届くと信じている。
品川駅の東海道新幹線下り24番ホームのベンチにもたれ掛り14:58分発、新大阪行を待つ。
私は改札で京子に健闘をたたえられ見送ってもらった。大仰かも知れないけど、関西に出店できるこのチャンスを逃す手はない。
頑張るねと信頼のおけるパートナーに会社を任せ、今しばらく私は車上の人になろうとしていた。
一人っきりになると不意に寂しさが込み上げてくる。
つばさはいま、何をしているんだろう。みなみさんと一緒に家に向かってるのかな。
私とつばさが離れて一日を過ごしたことは、これまで一度もなかった。
つばさを預けられる環境になかったことも、要因になってるけど、実のところ子離れの出来ない母親である私が一番の理由だ。
ひとりで居るのが心細いとか、切ないとかそんなか弱き乙女なんかじゃない。
母親になって分かった。
自分のお腹の中で、小さな命の成長を感じ、長いようで短かった妊娠期間を終え、陣痛がやって来た。
腰骨を金槌で殴られるような痛みに襲われ、その痛みが徐々に骨盤、太ももの付け根へと下がっていくのを遠のきそうだった意識の中で感じていた。
助産師さんに抱きかかえられた小さなつばさをこの手に抱いたとき、私の命は二つになったんだと実感した。
あの日から、いつもそばにいてその健やかな成長を静かに見守っていた自分が、つばさから離れがたいと思うようになるのは当然のことだった。
恋だとか愛だとか、煩わしくなったのはその頃からだった。なによりも優先させたかったのがつばさの事で、恋愛なんて二の次三の次。
男性との関わりも極力避けていた。男嫌いというよりも、つばさのことで頭を一杯にして自分を男嫌いなんだと騙そうとしていた。
下手に恋愛をして、またろくでもない男と付き合うくらいならそっちの方がマシだと思えたからだ。
誰だって逃げ出したい時はある。私はその時期が子育てとうまいこと重なった。
失敗続きの恋愛に一時小休止。あわてないあわてないと小坊主が茶をすすりながら言ってるじゃない。
そんな休止もそろそろ終わりにして、重い腰を上げよう。
ピンポンパンポンとホームに電子音が流れ『新幹線をご利用いただきましてありがとうございます』と新幹線の到着を告げるアナウンスが流れ始めた。
その時、カバンの中で携帯が振動するのが分かった。この時、最悪なタイミングだったと思わずにいられなかった。
非通知を示す画面が、無意識に私の身体を強張らせる。
「……もしもし」
『……』
「あなた、誰ですかっ! 警察に通報しますよ!」
『……薄紅色』
慌てて、通話を切った。既に新幹線はホームに到着していた。目の前の新幹線を駆動させるモーターの振動音よりも心臓のドクンドクンと鳴る鼓動音の方が鼓膜を揺さぶる。
息も荒くなっているのにも気づかないくらいに、気が動転していた。
私が身に着けている洋服は、薄紅色だった。
新幹線に直ぐには乗らず、出発のギリギリまで新幹線に乗り込む人たちを、私はずっと観察していた。
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