香織とつばさのとある休日

 私はカンカン照りのバルコニーで洗濯物を干していた。日頃、天気予報を見ない私は、今年の夏は涼しいだろう、と安易な見立てでいた。なんの確証もない私の予報は外れ、結果、罰として流れる汗は、暑さにむせび泣く身体から出た涙のようだった。


 私の身体にスイッチが入る時間は平日よりも早く、訪れる。日頃の洗濯は時間がない、外に干す時間が。そのために洗濯乾燥機という便利な家電がある。乾燥された洗濯物は、就寝前に畳んで洋服ダンスに片づける。働く子育て世代の主婦にとっては、心強い味方。なーんて、都合のいい口実も世の肝っ玉母さんには通じはずがない。


 私なんかより、多忙で家事も育児も頑張っている人たちは沢山いる。『自分だけ』なんて弱音を吐く様なことはしたくなかった。けれど、そんな生活を送れるだけの余裕も、ない。だから私は洗濯乾燥機を使うことに決めました!


 なんか宣伝みたいになっちゃったけど、結局、使いたい時に使えば、それでいいと私は思う。


 そして休日の今朝、いつもより早起きをして、乾燥機を使わず洗濯機を動かした。私のルール、休日はつばさが起きる前に洗濯を済ませる。そして朝食を一緒に食べる。毎回かならず。


 つばさを妊娠した時に、周りから『どうするの?』と散々聞かれた。私は逆に聞きたかった『なにが?』って(笑)。名前なのか、育児なのか、実家に帰るのか、堕ろすのか…


 一人でいったい何が出来るの?みんなの心配は総じて、その意見が輪の中心だった。働き盛りの私が、働かずに育児に専念するのか、はたまた育休も早々に切り上げ、子を保育園へ預け、職場へ復帰するのか。


 おおかたそんな疑念を、皆は私へ向けていたと思う。休日は疲れて寝込み、子供の朝食は菓子パン。朝から晩までアニメを垂れ流しで見させている。なんて、思われたくなかった。一緒にいる時間は、親子らしい時間を作る。それが私が決めたルールだ。


 だから友人知人には、一人で育てると宣言し、両親には結婚はしない、と公約した。まさにシングルマザーへの立候補、つまり、そういう事。


 大学に通うため上京し、そのまま就職した事で、実家へ帰る選択肢は、当然なかった。突然の妊娠で、会社に迷惑を掛けたうえ、仕事を辞職し、現役で働く両親のもとへ、スネかじりのため帰郷。仕事で疲れた両親の助けを借り、子育てするなんて未熟にも程がある。私の頭の中で、最底辺な母親像の私が、ヘラヘラしながら過ごす光景が、脳裏をかすめた。男性関係でだらしなかった自分が、お腹にいる赤ちゃんを育てるには、覚悟が、必要だった。


 そんな私が、未熟ながら続けている事が、洗濯だった。一年ごとに着る洋服のサイズが変わり、成長というものを実感している。こんなに大きくなったんだ、って。水気を含んだ服が太陽の光を浴びると、白い湯気が沸き立ち昇る。時が経つのは意外と早いのだと、黄色いTシャツをスクリーンにし、今までの二人三脚が浮かび上がり、しみじみとした思いに耽っていた。いつしか心は、産む決意をした26歳の自分へ戻っていた。『一人で育てる』ちゃんと、出来てるのかな。


「さぁて、次はつばさの好きなホットケーキを作らなきゃね」とりあえず、及第点は貰わないとね。




「ママ、おいしいーよー!」


「今日は上手に出来たんだよ!ハチミツも美味しいでしょ?」どうやら及第点以上は貰えたみたいだった。ホットケーキミックスにレシピ通りの分量で材料を加えていくだけ、簡単な作業だけど、ちょっとでも分量を間違えると味がガラッと変わる。今日はカンペキだわ。


「みなみさんはね、つばさとお話しててホットケーキ焦がしちゃったんだよ!」


「……そっかぁ、お話が面白くて、忘れちゃったんだね」


「焦げたのはみなみさんが食べて、つばさには新しくホットケーキ作ってくれたぁ!」


「本当に、みなみさんは優しいんだね」


「うん!」あどけない笑みを浮かべて、また、ホットケーキを頬張る、パクパクと。大きくなって食も太くなった。食べ盛りの伸び盛り時期なのかもしれない。


 来年からは小学生になるし、同年代の子どもたちと比べて、身体もガッシリとしている。大病もせずに育ったことを、改めて神様に感謝しよう。


 ただ、ここ最近のつばさの言動に、少しだけ、引っかかりを感じるようになった。奥歯に物が挟まったような言い方になるけど、つばさの年齢にもなれば、自分の事を名前で自称するのだろう。


 ただ男の子なら、俺とか僕が大半でさほど名前で自分を表現することは少ない気がする。


 対して、女の子は、私や自分と呼ぶことが多い、私自身も『わたし』と名乗っているし、その方がしっくりもする。


 その一方で自分の名前を自称する女の子もやはり多い。さらに幼少の子には顕著に表れてもいた。


 その、私の見解からすると、つばさの自称は、女の子のそれに近い気がしていた。男の子が自分を『俺』と名乗る時の意地っ張りさや自己主張の強さはいかにも可愛らしい男の子と思うけど。


 つばさが自分を『つばさ』と名乗る時には、愛くるしさや健気さを感じさせる。


 ホットケーキを食べる仕草には男の子の豪快さもない、一口分を綺麗に切り分けて、口の周りがシロップで汚れない様に慎重に口の中にホットケーキを運ぶ。


 女性に囲まれた生活を送っていたからなのか、似てしまうのは仕方がない。やっぱり男の人の仕草や言動がつばさには必要なのかも知れない。


 特に私は、つばさに対して、コダワッタ人物像を求めていない。人に優しく、一人でも生きていける力があるだけでいい。自分を『つばさ』と呼ぶくらいの個性はあっても良い。


「ごちそうさまー!ママお買いものに行きたい!」


「分った。じゃあ歯磨きして、準備したら行こう!」


「うん!」食べ終わったお皿にフォークとナイフを横に並べ、コップをその横に置く。最近は私に言われなくても自分で片づけをしてくれる。


 私が仕事をしている間、みなみさんと二人っきりの生活は、私とつばさの生活も変化をもたらした。この数か月でつばさは成長した。内面が大きく変わって、見ちがえるほどに、成長した。


「ママ―、ハブラシ粉はどこー?」


「歯みがき粉でしょ、鏡の裏に置いてあるわよ」


「あ、あったー!」


 言葉の成長は、まだまだかな(笑)






 ショッピングモールに着き、ふと携帯を見る。京子から着信が一件、入っていた。日頃、顔は合わせているが、プライベートではたまに会うくらいで、頻繁に連絡を取り合う訳ではない。


 お互いに気心知れた間柄だからこそ、干渉はしない。そんな京子からの着信はプライベートな案件ではなく、仕事上の連絡と言ってよかった。つまり業務連絡。


「ママ、つばさトイレ行ってくる」京子に折り返しの電話をしようか思案し、電話の間は一人で退屈するだろう。丁度よかった。


「ひとりで行ける?ママはトイレの角で待ってるから」


「うん、分かった!」特に、私の返事を待っていた気配は見せず、スタスタとつばさはトイレに向かって歩き出していた。


 つばさが角を曲がり、姿が見えなくなってから、私は京子に電話した。


「もしもし、お疲れ様。新作の感触はどう?」


「まぁボチボチってところね。食いつきはいい感じよ、立ち止まって見てくれる人も居るし」彼女との商いな会話は、今月から販売開始となった新作の浴衣についてだった。


「若い女性層も子供出れの主婦層も関心はあるみたいね」京子の報告に、ホッとひとつ息を吐いて、私は胸を撫で下ろした。今回、私がターゲティングとしたのは10~30代までの若年女性層とそこに含まれる子持ちの主婦層だった。


 親子で揃いの浴衣を着て貰いたい。子を持つ親として、願望に近かった。


「売り上げはあった?」


「上々ね。さっきも若い男の子ががペアで買っていったわよ。彼女さんとその娘さんにプレゼントでもするんじゃないかな?」そこでようやく私は安堵した。企画段階ではターゲットはもっと若い世代に絞られていた。


 それどころか、今回子供用の浴衣すら、販売する予定ではなかった。


 きっかけは花火大会の日に、急遽、つばさ用にこしらえた浴衣だった。急な雨で浴衣が濡れても透けにくい、裾に跳ね上がった泥水でも汚れない素材を使用して直ぐに着回しができる浴衣を目指した。


 その結果、服を汚しやすい子供たちにこそ相応しい、と思いついた。


 ただ、子供の為だけに購入するには価格が高すぎて、今回は見送ろうと考えていた。でも、みなみさんとつばさのペアルックを見て、イケると確信した。天気予報は外れたけど、商売に関する予感は良く当たる。今回もそれは的中した。


 あの日、つばさとみなみさんの2ショットをカメラに収め、写真そのままのイメージで、店舗のディスプレイには二人に似せたマネキンが、ペチュニアの浴衣を着て立っている。


「忙しそうで申し訳ないんだけど、午後もお願いね」


「オッケー、まっかせといて~」京子の電話と入れ違いでつばさが通路の角から姿を現した。その後ろから続いてきた年配の女性が怪訝そうにつばさを目で追っていた。


 小さな子供が一人でトイレに入っていた事と、近くに親が居ないことにでも疑念が湧いたのかもしれない。


「おかえり。ちゃんと手、洗った?」


「うん」私の目の前に両手のひらを裏表させた。まるで手術前の外科医のような大仰な素振りで手の綺麗さをアピールしていた。


 その脇を先ほどの女性がすれ違いざまに『あらまぁ』とつぶやき通り過ぎて行った。


 その耳心地の悪い『あらまぁ』が、鼓膜を突き通って、頭の中でグルんグルんと唸るように響いていた。




 つばさの今日のお目当ては、どうやらビーズアクセサリーを作るための道具を探すらしい。私にはまだ何を作るか教えてはくれない。みなみさんと一緒に作成したいらしい。最近、私はのけ者みたいでちょっぴり悔しい。


 カラフルな丸大ビーズを目の前に、真剣な表情で1mmほどの粒たちを、食い入いるように見ていた。


「悩んでるの?」


「うん」どの色を選ぼうか、駄菓子屋に売られている、何種類もの飴玉に悩む子供のような、そんな様子に見えた。


「つばさは、何色が好きなの?」私は青玉のソーダ味。


「ピンクとキイロ!」ピンクと黄色か。ピンクはともかく、黄色はアレの影響に間違いないわね。


「じゃあ、その二種類にする?」


「一、二、……うーん、あと四つ!」指折り数えながら、まだまだと顔を振りながら、またビーズを物色し始めた。いつになったら決まるのやら。


 あっちにうろうろ、こっちにうろうろ、何かを求めてどこかへ向かう判然としない目的を持っているアリみたい。


「じゃあお母さんつばさが決まるまで、あっちの棚を見てるね」


「うん」こっちを振り向かず、返事だけしてビーズをシャカシャカと手に持って、つばさは悩んでいた。


 これほど悩むつばさを見るのは、初めてかも知れない。欲しい物があれば即決の潔さは持っているはず、なのに今日は何故か決まらない。


 ビーズアクセサリーを作るのは遊び程度だと、大人の私には思えた。きっとみなみさんも待っている間の、時間つぶしに向いているからビーズアクセサリーを作るんじゃないか、と推測した。


 かく言う私も、幼年期はビーズアクセサリーに没頭して。あの頃は暇つぶしなんて概念はなかった。ただただ面白くて、可愛くて、楽しかった。純粋な女の子だった。


 そんな幼少期が、今の自分に受け継がれ、ファッション関係の仕事へと導いてきた。つばさもその遺伝子を受け継いでたら、正直嬉しい。


 シングルマザーと言えども、やはり父親の存在がいることは事実で、つばさの中にその遺伝子も受け継いでいる。私が聖母マリアのように貞操を守ってつばさを妊娠していたとしたら、父親などという存在に恐れることもなかった。


 私から見て、やはりろくでもない男だったとしても、つばさにとっては唯一の父親なのだから、始末が悪い。


 出来の悪い父の遺伝子を受け継がず、今のところ私に似ている事が、私にとっての唯一の救いだった。つばさが成長して、自ら父親に会いたいと打ち明けてきたら、私には拒否をする権利はない。


 父親の方も、むしろそっちの方が、私との関係を修復できる、唯一の望みだと思ってるかもしれない。


 私も、つばさの父親も、身勝手な考え方。つばさの将来を、二人で奪い合うことは何としても避けなきゃならない。絶対に。


 もし、つばさが父親に会いたいなら、私は会わせてあげるつもりだった。つばさ自身で、その身体の中に父親の血が流れていることを知るのは、重要だし、何よりもつばさの人生はつばさ自身で、決めて欲しいと思ってる。


 つばさが、今、大事に育んでいる、大切なもの。今まではオモチャや本やぬいぐるみに偏った物ばかりだった。


 カッコいい車の玩具、綺麗な表紙の図鑑、近所で飼われていた犬と同種のぬいぐるみだったり。直観で好きなものを選んでいた節があった。


 でも今は、好きな物の裏につばさの感情が見え隠れしてきた。スポンジボブはみなみさんのお家で見たことがきっかけでどハマりするようになり自宅でも鑑賞するたびにキャッキャと笑いながら楽しんでいる。


 その派生で黄色の物を身に着けたがるようになった。そして生まれて初めての、ホタルの鑑賞、花火大会。たった数か月の出来事で、つばさの価値観に大きな変化が起こったことは間違いなかった。


 みなみさんと出会ったことで、考えつかないくらいに、変わった。


「決まったー!」


「じゃあ、下さいってしに行こうか?」箱からこぼれ落ちそうなくらいに、山盛りのビーズを抱えて、満足そうな表情と、不安げな表情を混ぜたような顔をしてる。


 これだけのビーズを満足いくように完成させられるか、考えているんだよね。


「お金、だいじょうぶー?」


「なんにも、心配ないわよ!」子供らしい心配だった。キラキラしたビーズはさながら宝石に見えるものだ。今のつばさが見せる表情のほうが、私にとって、どんな宝石よりも価値があった。


「だいじょうぶ、かなぁ」今も満足と不安の色を混ぜながら私を見つめている。






『大丈夫、みなみさんと一緒なら、きっと出来るわよ。それに……あなたは私の息子なんだから』

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る