栗林 健太 花火の鼓動
早朝の曇天空とは打って変わり、午前中に吹いた強い風は、ぶ厚い雲を散らしてこの花火大火の為に最高のコンディションを提供し、その役目を終えたのか、穏やかな風へと変わっていた。
東から西へ、青から桃色へのグラデーションに染まる夕やけ空が、迷惑なほど地上に熱を放った太陽の一日の、終わりを告げようとしていた。
俺たち三人は花火大会の行われる会場へ向かっていた。つばさと俺は香織が持ってきた浴衣を身に纏い、履きなれない下駄げたに四苦八苦していた。
まだ熱がこもったアスファルトが素足には心地よい温もりを感じさせてくれる。陽が落ちる直前のおぼろげな三人の影を眺めながら、「浴衣も悪くないですね」と香織にいった。
「でしょ?! だってみなみさん可愛いもん」と俺とはちょっと違う香織の感想に、同意しておくことにした。
「いえいえ、そんなことは~」
「僕も?」
「つばさも似合ってるわよ!」
「うんうん!」今度は香織の意見に素直に同意する。
花火大会の会場に近づくにつれて、浴衣姿の人たちも見かけるようになった。男女問わず色とりどりの浴衣になぜか視線が奪われる。
この歳になるまで浴衣を着たことがなかった自分がいま、女の子となって初めて袖を通した。
着心地の良さもさることながら、デザインも可愛く綺麗な仕立てで、生地も手触りの良い素材だった。
まさに上等品を着て闊歩しているわけだ。浴衣を着た人を見つけては、安っぽいなぁとか、デザインが地味だとか勝手に優劣をつけ始めていた。
『プラダを着た悪魔』あらため、『浴衣を着た女装マニア』だ。
未だにこんなことでしか、人の価値を見つけ出すことのできない自分にすこし嫌気がさす。
香織はちゃんと自分の価値を見つけ出している。こんなに良い浴衣を作り出せる才能に、本当は嫉妬しているのかもしれない。
* * *
手に持った浴衣に視線を落とし、どうにかして着替える勇気が生まれないか悩んでいた。このままじゃ浴衣の女装が不完全でバレそうな気がしてならなかった。
「浴衣の下に、下着は付けない……ですよね?」恐るおそる訊いた。さも平然と聞いてしまうと、あらぬ疑いをもたれそうなので知識のない女の子を演じる。
「浴衣なんて初めてで」これはホントに。
「別に大丈夫よ。形が出るのが嫌ならキャミソールかワンピースを下に着たらいいかも」
女装歴三年の俺に突如、訪れた試練ミッション。それが浴衣を着て石崎親子と花火を見ること。もちろん女装して。
花火を見るだけなら楽なミッションだけど、浴衣を着た上で鑑賞するとなると、麻織物一枚を纏ったその下がキャミとボクサーパンツを身に着けた男とは、すこし間違えばあられもない姿を晒し、女装がばれる危険だってある。
「わ、わかりました。因みに、タイツも履かないですよ……ね?」その問いかけに、香織は少し戸惑った。
「あ、うん、そうだね。処理とかしてないならストッキング履いても良い、けど……」俺は首をかしげた。一応すね毛の処理は女の子以上におこなってはいるつもりだった。
声や行動以上に、不審に思われそうな体毛に関して細心の注意を、俺は払っていた。しかしここ最近、香織が来る朝晩のみしか女装をしてなかった。
本音をいえば、たかだか数十分間のために無駄毛処理をするのが面倒くさかった。
女装で脚が出すとき、といっても丈の長いスカートやハーフパンツを履くときで、その時は必ずタイツもセットで身に着けていた。
その習慣からか浴衣にタイツは自分でも変だと感じたが、香織が、『良いんじゃない』と許してくれたらと思って聞いてみたが、「下駄……履いて、くれる、よね……?」そうですね。
香織の一言でほのかな期待は打ち砕かれた。香織の複雑な表情ととも俺の部屋に微妙な空気が流れた。マズい、何か言わないと。
「みなみさぁん! 早く着替えて! 花火、行こう!」運よくと言うべきか絶妙なタイミングでつばさが二人の間に割って入った。ナイスだ、つばさ。
強引に俺の手から浴衣を奪い取ると、和室に向けて駆けだした。立ち止まりつばさが俺を振り返る。おい、まさか……。
「はやく! 着替えて!」つばさの興奮がピークを迎えた。ドンドンドンと下の階に響こうが、構わないという様子で、ジャンプをし始めた。
「わ、分ったからやめてぇ~」
* * *
太陽はその役目を終えたかのように西へと遠ざかり、沈みゆく夕陽がかろうじて照らすアスファルトには俺たち三人の長細い影が伸びていた。
うす暗がりの歩道は昼間と違い、路面の凹凸を目立ちにくくさせて、ときおり歩くことにおぼつかない不安定な俺を転ばせようと企んでいるようにも思えた。
慣れない下駄に付け加え、悪路を歩くには慎重さが求められるが、慎重さには自信はある、なんせ女装してることを殆どバレたことがないのだから。
ただ、一度だけ、バレたことはある。
何故ばれたのか未だに分らなかった。俺の気の緩みだったのか、相手の野性的な感だったのか今となっては判断のしようがない。たとえ知ったところで、俺にはもう、どうでもいいことだし、いまは目の前の事に集中すべきだ、俺はそう思い、また地面を睨みつけた。
「あそこの二人は、まだ付き合ってから数か月も経ってなさそうよね」香織がつばさを挟んで歩いている俺に顔を近づけて、コソッと耳打ちした。一瞬、首筋に電流が走り、繋いでいたつばさの手をギュッと握ってしまった。
「イタイっ」つばさがしかめっ面で俺の顔を睨んだ。どうやらまだ浴衣の色に納得がいかないらしく、機嫌が悪いらしい。
初めは、『みなみさんとお揃いの浴衣』と聞いてはしゃいでいたが、色違いだったことに気分を損ねて怒り出した。なんとかなだめてはみたものの、納得をした様子はなかった。今も俺の浴衣を見てはムスっとした表情を時折見せていた。
「ご、ごめんねぇ」俺は俺で、針でツボを刺されたようなチクッとした刺激を受けた。痛い反面、心地よさも感じる。
「どー、ですかねぇ。でも、初々しい感じはしますね」視線を香織のいった男女の方へ向けた。お互いにラフな格好でふらふらと俺たちの数m先を歩いている、恐らく花火大会の会場にむかっているんだろうけど、浴衣を着て一緒に歩くほど、お互いの関係が深まっていないと香織は推理したらしい。
「みなみさんは? 彼氏いないの?」
「え?」
「え? いないの? 嘘でしょ?」その三連疑問符に流石に俺も動揺を隠せない。まず、そもそも香織の前提が間違っている、性格が良いとか可愛らしいとか女の子が兼ね備えていると得をする条件が整っていたとしても、仮にもっとセクシーな身体だったとしても、俺は男だ。男が勝手に俺を好いたところで、俺が男を好きになるはずがなかった。
「全然、彼氏とか、いないです」
「えー! 勿体ないなぁ。こんなに可愛いのに」と、改めて浴衣を着た俺の全身くまなく眺めて、満足そうに微笑んだ。自分のコーディネートに満足いったスタイリストの表情にも似てる。
俺はたまらず俯き、紫色した下駄の鼻緒をジッと見つめた。
さっきまでアスファルトにゴムのように引き伸ばされていた影は鳴りを潜め、今度は街灯に照らされ、輪郭のハッキリとした人影に変わっていた。
せめて石畳やタイル張りの道を歩いてみたかった。初めて履いた下駄は多少なりも俺の心もちを良くしてくれる。慣れない履物と、慣れない和装のコンビではあったが、どこか風情というものを感じずにはいられない、バリバリの現代っ子は果たしてそれをファッションとして受け入れるのか、先人の知恵と捉えるのか判然とはしない。
心地よさの反面でペチュニアの浴衣は俺にイタズラをするかのように、ときおり無防備な足に絡みつく。俺は高校のクラスメイトから受けた嫌がらせのことを思い出した。机と机の間を通りぬけようとした人の足を引っ掛けるアレだ。俺の二つ前の席に座り、いつも足をだらしなく伸ばした高橋。あいつは確か下の名前が『ゆたか』だった。
その『ゆたか』の悪戯によって、いまこの時も俺はこけさせられそうになった。寸でのところで体勢を保つことができ、なんとか踏ん張った。
だが、今度は慣れない下駄に阻まれた、ゆたかと下駄の二段構えだ。なんとか保たれていた体勢を崩された俺は、カカカっと小刻みに下駄を打ち鳴らし、つんのめりそうな身体のバランスを必死で維持しようと両腕を上下に大きく振った。
「あー!」突然、俺が手を放したことで何事かとつばさが振り返った。よろけていた俺に驚いたのか、あぶない! と叫んでいた。
ビルとビルの間にロープを渡し、命綱なしの綱渡りをするチャレンジャーが絶体絶命のピンチに陥ったような、必死さだったに違いない。転んでしまえばウイッグも外れて胸がはだけ、男の胸板を晒すはめになってしまう。そんな慌てふためいた俺を香織が咄嗟に腕を抱え込んで助けてくれた。
「大丈夫? もしかして下駄、合ってないかな?」不安の色を顔に浮かべ香織が声を掛けてきた。俺の身の心配か、それとも下駄の性能の心配か、腕をとっさに掴んで転倒を防いでくれたことは、前者の方で間違いなかったってことにしよう。
「あ、ありがとうございます。いつもの歩幅で歩くと、ゆたかに足を取られちゃいますね」
「ん? ゆたか?」
「あ、いやっ、浴衣ですっ! 間違えちゃった」誤魔化そうと、ハハハと乾いた声を上げる。
「気を付けて歩かないと危ないんですね、浴衣も下駄も」足元を見据えてしっかりと立ちなおした。不安定によろめいていた俺は、今までの俺そのものだ。こんなことをしなくちゃいけないなんて人生が命がけの綱渡りのようにも思えてきた。
俺は右腕を大事そうに抱えていた香織からやんわりと離れた。こんな人生でも、隣にいる美人と触れる事ができるのは、幸せなのかな?
腕をつつむ二つの柔らかな膨らみから逃れ、あまり意識を腕に集中しないように心掛けた。俺が転倒してしまうよりも、それは危険だ。男の暴走は理性だけでは、止められない。
咄嗟に逆の左腕を思いっきりつねった。頼むから、起きないでくれよ。そう願いながら。
「確かに慣れていないと、躓いたり転びそうになっちゃうね」香織は俺が無事なことに安堵したのか、笑みを浮かべた、それは柔らかくて温かみのある、素朴な笑顔だ。
真っ直ぐに直視できない、その表情に俺は、自分が女装していることを忘れそうになり、図らずもドキっとする。もしかしたら同性でも同じように思う人も居るかもしれない、それくらいに人を和ませる笑顔だった。
『初心忘るべからず』ということわざがある。何事においても、始めた頃の謙虚な気持ちを忘れてはならない。
これを今の俺の立場に置き換えて言うと『女心じょしん忘るべからず』女装においても、女性としての、こころ持ちを忘れるべからず! といったところだ。
さもなければ街中で好きなタイプの女性を見つけたとき、男の視線を向けてしまうだろう。心の底から、自分が女性であると思い込めば、不思議と理性が保てていた。
ただ、その漠然とした理由で保たれていた女心が、香織の笑顔ひとつで、いま打ち砕かれようとしていた。
目の前で浴衣と下駄に四苦八苦する女性が本当は男だとも思わず、少女のような屈託のない笑みを向けてくる。
香織の無垢な優しさは母性のそれと相反するはずなのに、乗法を用いてその魅力を何倍にも増して見せつけられた。
「なんか新鮮! 女の子相手だけど、腕を組むなんて何年ぶりだろう」
「わ、わたしも滅多にないです」そう、女子と付き合うことは、人生経験過少な俺にとっては、腕を組むなんてことが数少ない貴重な体験だった。
「どうして付き合ったりしないの? 男の子が苦手?」
「うーん」考えた。とりあえず男の子を、女の子に置換して、考えた。
「自分に自信がないから、ですね。昔から自分に自信が持てなくて、その先入観から、自分なんかどうせ人に好かれることなんてない、って思ってました。だから、異性とは距離をおいて過ごしてました」
「でも、みなみさんみたいに可愛かったら、告白の一つや二つくらいはあったでしょ?」信じられないといった様子で、香織が突っ込んだ質問をしてくる。確かにみなみさんとしてはナンパをされたことは有るんだが。
「一回もないです」健太としては一度もない。
「えー」香織が、うそつきー! と人差し指で俺の頬をつついてきた。なんだ、このスキンシップは。嘘はついてないのに、これ以上は違う意味で嘘がバレてしまう。
「ママとみなみさんは、仲良しだね!」退屈そうにしていたつばさがなぜかニヤニヤしながら口を挟んできた。俺の女装を知っているだけに戸惑う俺を見てるのが面白いのだろう。
「羨ましいでしょ~」香織は急に俺の腕を強引にひっぱり、また腕に絡みついてきた。つばさに改めて仲の良さを見せつけているように思えたが、むしろ自分が楽しんでるようにも見えた。
普段は男性に対して絶対に見せない一面だと俺は思った。本人が口酸っぱく言うのだから、まず間違いない。
そんな表情を見てるのも辛くなり、俺は視線を背けた。しかし腕に絡みつくやわらかな感触だけは、蛇のように俺を逃がさなかった。
視線が定まらず宙をウロウロしていると、香織が組んできた腕とは逆、左腕をつばさが急に引っ張った。
まさにこの光景が、一人の男を二人の女が奪い合うコントのようなワンシーンにも思えた。香織とつばさで両腕を引っ張り合い、浴衣がど真ん中からビリビリと破け、俺の男の裸体を無様にさらす、あの光景だ。
「ちょ、つばさくん、どうしたの!?」ただつばさが、俺が考えていたような行為ではなく、露店の方を向いて必死に引っ張って行こうとしてる風だった。
「あれ! スポンジボブ!」つばさが必死で指し示した先には、アニメや特撮ヒーローのキャラクターのお面がずらりと並んだ露店だった。大人からすれば安っぽいプラスチックのお面で、嗜好品とは言えない、翌日には割れて捨てられてもおかしくない、無価値な物にしか写らなかった。
そんなお面に向って行くようにグイグイとつばさは俺を引っ張り続けている。
「ちょっとつばさ、どこ行くのよ」
「たぶん、あのお面です」俺が香織に状況を説明する。俺と知り合う前はどうだったのか分らないが、家に来るたびあの黄色で陽気な食器を洗うスポンジを拝見しようとテレビの前で正座をして要求するのだ。俺の好みとつばさの好みが一致したことでお互いの距離が近づいた。アニメが子供の関心を引くのに役立つことは知っていたが、ここまで行くとは思いもしなかった。
「なんか、みなみさんのお家に行くようになってから、好きになっちゃったみたい」それは中学生の女子が、あの子、部活に入部してから先輩のことを好きになっちゃったみたい、と話すのに似ていた。
俺とつばさの好みが一緒かと聞かれたら、それはたぶん違う。そこには俺がなりたかった自分が描かれていたからだ。手足や目鼻口がある人間に近い姿で胴体がスポンジの擬人のキャラクターだった。だけどそのキャラクターには手の指が四本しか描かれていなかった。
こんな皮肉をアニメにできるアメリカに、俺は憧れもした。もとから失っていようが他人と違っていようが、劣っているわけじゃない、むしろ他人より際立ってみえることに気付かされた。
自分が過去に受けた行為は、それからかなり外れた、もっと陰湿なものだった。むしろアメリカなら、女っぽく見えるからって甘えてんじゃねーよ、と叱ってもらえたかも知れない。
俺にはボブのような強さを持てなかった。それが女装への始まりだった。
「ママ、買って!」つばさは香織との間に遮るように立っていた俺を退けるため、また手を引っ張った。もうつばさの頭の中はお面のことでいっぱいだ。
「えー。本当に欲しいの?」
「うん、僕、あれ欲しい」しばらくの間、二人がジッと見つめ合い、無言の会話をしているかのようだった。先に沈黙を破ったのは香織の方で、つばさの心を見定めるような厳しい目つきがほころび、表情が穏やかに変わった。
「いいわよ、ちゃんと大切にしてね」
「うん!」香織の許しを得て、つばさにも笑みがこぼれお約束のジャンプが始まった。
香織が財布から500円硬貨を取出し、つばさの手のひらに置いた。将棋の駒を指す棋士のように、ゆったりとした動作で500円玉を置き香織はつばさの手を両手で包み込んだ。
つばさは両手が解かれるとコクンと頷いてお店の方へと歩き出した。
二人のやり取りには、なにか特別な意味があるんだろうな。欲しい物を買ったあとは、宿題の時間を一日30分増やすだとか、お風呂掃除を一週間続けるだとか、俺もそうだった。
「そんなに簡単に買ってあげていいんですか?」俺は、屋台のオッチャンにスポンジボブのお面を指さして、500円玉をわたすつばさを眺めながら、香織に訊いた。
「あら? 簡単そうに見えちゃったかな?」
「なんか、二人とも喋らないで決まってたから。私が小さいころはお手伝いの約束とかしないと、買って貰えませんでした」子供が物をねだるときに、交渉の材料としてお手伝いが最大の提案であった。親にしてみればそれは大したことでもないことは社会人になって旨味のない提案だったとしみじみ感じる。それっぽっちで500円は高すぎる。
「つばさはね、私と違って大切にしたいものをちゃんと分かっているの」それは、自分と違ってこの子は頭が良い、という子供を褒める親とはちょっと色の違う雰囲気だった。香織が大切にしたかったものが、どうでも良いものだったとも受け取れる。それはどんなものだったのか。
「香織さんと、違う?」俺の好奇心が、つい口をついてしまった。
「そう! わたしはツマラナイ男ばっかり、愛しちゃったからね」香織は躊躇なく、俺に打ち明けた。たぶん、俺が同性だと思っているから、出来たことだと思う。
「ほんとつまらない話なんですけどねぇ、聞いてくれますか?」香織はおずおずとした様子で、果たして話すべきかどうか思案している。そりゃ自分の失敗談を他人に話すこと自体が躊躇われるのに、傷口に塩をぬるようなことを俺にしなくても良いと、内心、思った。
ただ、女性のみなみさんとして断るにもどんな言葉が相応しいのか、見当もつかない。ツマラナイ男の側に立っているだろう俺に、同情だとか、慰めの言葉を掛ける資格もないように思える。
この場にいることすら居た堪れないのに、どうしたらいい。
「うーん……。やっぱりやめた!」
「えっ?」
「嬉しそうなつばさをみてたら、なんかどうでも良くなっちゃった!」微笑ましそうに眼を細めて香織が言う。その視線の先にお面を被って戻ってきたつばさが、いた。
どこからどうみても年相応の少年らしい無邪気さが俺の瞳の中に映っていた。つばさが他の子供とは違い、自分の感情をおさえて表現することを嫌っているように感じていた。
香織が女手一筋で育てられたつばさが、保育園を転々とし友達と呼べるような仲間を作ることができず、子供らしい成長を出来ていないと思ってた。日の当たらない木陰、養分のない土と同様に吸収すべきものをつばさは与えてもらえなかった。だからと言うべきなのか二人は俺のところへやってきた。
「こんな私からの、アドバイスね!」さっきまで落ち込んでいたように見えた香織の顔は、雲が晴れた、この夜空のようにスッキリとしたものだった。
「ちゃんと自分に与えてくれる人を選ばなきゃ、ダメよ」
「え?」それはまさしく、さっき自分がつばさに対して感じていた想いだ。何もかもが不足がちなつばさと自分とを、重ねてみたんだろうか。
「今思えば、わたしは相手に与えてばっかりのツマラナイ女だった。会いたいって言われれば直ぐに会いに行った。欲しい物があるって言われたら、直ぐに買ってあげてた。付き合ってた最初の頃はお互いに尊重しあえる関係だったはずなのに、いつの間にかわたしだけが相手を想うばっかで、与えて貰ったことなんて全然ないの」胸を張って言える事じゃないけどね。と香織はおどけてみせた。
目の前にいる若い女性に、自身の人生の訓示を説くことで、自分の過ちと同じ道を辿って欲しくない、と気を遣ったのかもしれない。確かに貴重な意見だ、男としての立ち振る舞いかたとして参考にしよう。
ただ、俺が女性の資金力にたかれるほど、人間的な魅力を持ち合わせていないことが、受け入れがたい事実ではある。むしろ男の立場でありながら女性に貢ぐことの方が、可能性としては高い。
「与えるだけの人には、ならないように気を付けます」あまり香織に表情が見えないよう、俯きながらこたえた。お互い様、なんて思ってもいないだろう。目の前にいる人間は生きることに苦しんで、とにかく目先のことしか考えられずに女装して仕事をしている人間なのだ。
彼女の歩んできた人生のなかで、これほどインパクトを残せる男は、間違いなく俺一人だろう。そういう意味で、良からぬことを与えられる人にはなれそうだった。
「みなみさん、これ可愛いでしょ!」お面を付けたつばさが、陽気な声で話し掛けてきた。素顔は見えないけど、この声からして笑顔になってるはずだ。この一週間でつばさの性格をなんとなくだが把握できた。意外と素直で、裏表がない、分りやすいと言えば分りやすい、そんな性格だと感じた。
「うん、かわいいよ!」俺も素直に感想をのべた。どういう訳か、つばさに対して嘘を吐こうとしても、見透かされるような気がして無駄だと思った。なんせ俺の女装をなんなく見破ったのだから嘘を見抜くなんて容易いだろう。
周囲には浴衣姿の群衆で溢れていた。立ち止まって屋台をみたり、携帯を片手に誰かと待ち合わせの連絡を取っていたり、さまざまな人たちが同じ目的の為に集結していた。
すっかり日も暮れて涼しい風が時折、俺の肌をなでた。花火の打ち上げ時間はあと30分くらいだと思う。それまでにもう少し湾の方に進み、視界のひらけた場所にたどり着きたい。
そうは言っても、この人だかりをかき分けて進むには、華奢な俺の身体では到底たち打ちできそうになかった。
「もう少し、先に進みたいですね。ここからじゃあまり花火が見えなさそう」まわりの熱気と圧迫感に気圧されて、今にも溶けて消えそうな不安げな表情の香織に、声を掛けた。
ここに留まっていても俺たちでは押されて揉まれて、そのうち端に追いやられてしまう。
「でも、動けそうにない。この人だかりじゃ前にも進めないわ」やっぱり来る時間が遅かったかな、と漏らした。確かにこういったイベントごとには場所取りが付き物で、日の出よりも早く動き出した人が居るに違いない。
「大丈夫です。押してダメなら引いてみろ、ですよ」そういって俺はつばさを抱きかかえた。
「香織さんはつばさ君と手を繋いで、わたしに着いてきてください」つばさは俺の言ったことを聞くなり、香織に手を差し伸べた。香織も訳がわからないという表情をしながらもつばさの手を握った。
「じゃあ行きましょう」
自分の華奢な身体だからこそ、狭い人混みの間をグイグイと割って入ることができた。すみません通してください、と、か弱い女の子の声で背を向けた茶髪の青年にたいして、懇願した。
何だろうと振り返り、子供を抱きかかえた俺をみるや、すいっと身体を半歩ほど進ませ、隙間を作ってくれた。
「ありがとうございます」と生年に対して感謝を述べた。心の中では、『どうも』と温度差のあるセリフを呟きながら、俺たちは会場へと突き進んだ。
「みなみさん凄い。ガンガンに攻めていくのね」
「せっかく来たんですし、花火がちゃんと見れる場所に行きたいじゃないですか」目の前の人だかりに注視し、前へ進めそうなルートを探索しつつ香織に返答した。
この二人と来る機会が、二度、訪れるかも分らない現状で、つばさにも香織にも楽しかった思い出として心に刻んでほしい。
それは裏を返せば俺の思い出のためでもある。こんな先行きの危うい仕事を、楽しめるはずがない。ハラハラしながら不安との格闘を毎日つづけ、不安が俺に付きまとい、心身共に疲弊していく未来しか今は見えない。報われない人生だとしても、今くらいは、楽しんでも良いじゃないか。
海側の打ち上げ地点に徐々に近づいたものの、それに比例するように人の混雑もひどくなり、まだ海まで200mほど離れた地点で前が詰まり、とうとう先に進めなくなってしまった。
既にこの場にいる人たちは、花火が打ちあがるのを待つしかなく、無理に身動きをせずにジッと立ち尽くし、花火が上がれば一斉に空を見上げ、陽が昇るのを待ち焦がれる夏の向日葵のように思えた。
こうべを垂れ、やる気のなさそうに萎しおれた向日葵たちは、各々のスマホを弄りながらそのときを待っていた。
「もう、これ以上は進めそうにもありませんね」
「ここで十分よ」香織は俺を労った。
「どんな感じに見えるんですかね。花火なんて久しぶりです」
「私も。つばさなんか初めてじゃないかな?」香織が俺の腕に抱かれたつばさを見やり、どんな反応を示すのか、内心楽しそうな表情を見せながら言った。
「大きい音するからビックリするかもよ」俺もつばさがどんなリアクションをみせるのか、楽しみだ。
先日、霧が池のホタルを見に行った時もそうだった、生まれて初めての経験に立ちあえることが、保育士としてのやり甲斐の一つでもあった。
初めて立った、初めて喋った、初めてネコや犬に触れたなど保育園に勤めていた時は、色んな子供の初めての経験に立ち会えた。
そして、また今日も……。
そのとき、海側から歓声とともに拍手がわき上がった。歓声が上がった方向を見れば、空が明るく照らされて無数の花火が打ちあがり始めていた。
ほんの少し遅れて地響きのような炸裂音が俺の身体を震わせ、つばさにもそれが伝わったのか、それとも周りの状況がつかめず怯えていたのか身体が硬直していた。
「始まったよ!」周りの騒音に負けじと、俺は声を張って叫んだ。ビリビリと稲妻のように空気を震わす花火の音が、俺の声も震わせる。それは、もしかしたら俺の感情が昂ぶって初めから震えていたのかもしれない。きっと、熱狂する人たちをみて、興奮したのかもしれない。
俺はつばさの両脇に手を回し、上に掲げた。
「ほらっ! 見えるでしょ!」
俺はつばさの身体を抱きかかえ、背中に顔をつけた。
空中で爆発する花火の音がつばさの身体を通って、鈍い音となって聞こえてくる。
そして、つばさの心音が、ドクンドクンと早鐘のように、花火の音をかき消すくらい、ハッキリと聞こえていた。
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